九
その晩、立野と岬がまるで連れ立つように店にやってきた。
「あ、珍しい、同伴かいな?」
フクの冗談に、二人は互いにソッポを向き、カウンターの端と端に離れて座った。
「来ると思ったわ。しずかちゃんのことやろ?」
「話、聞けたんか?」
立野が訊く。
フクは頷き、二人にそれぞれビールと日本酒を出しながら、話し始めた。
立野が病室を出ていった後、しずかはしばらく黙ったまま涙を流していたが、やがて自ら話し始めた。
しずかは、サトルという彼氏のために女郎になった。サトルの治療費を稼ぐためだ。
サトルとは、故郷の福井の高校で同級生だったそうだ。ルックスがよかったサトルは、女子からも人気があり、どちらかというと地味だったしずかにとっては高嶺の花だった。
卒業してしばらく経った頃、サトルと偶然町ですれ違ったしずかは、サトルの方から声をかけてきたことに驚きながらも有頂天になった。しずかは地元の会社に就職していたが、サトルは就職したものの、すぐに退職していた。その理由を聞いたしずかは驚いた。サトルは、突如遺伝子に異常が発生する難病に罹っていたのだ。そのため、仕事をすることが困難になり、会社を辞めていた。
難病指定がなされていないため、国から治療費も出ず、おまけに常にひどい倦怠感に見舞われるため仕事ができず、そのため収入もなく、治療費が払えないということだった。治療をしないとどうなるのかと訊くと、全身の細胞が徐々に死んでいき、そのまま命を落とすと言われたしずかは、咄嗟に、「私が助ける」と言っていた。それまでの人生にはない、自分でも驚くほどの、積極性と衝動的な言動だった。
驚くサトルに、しずかは「告白」していた。高校三年間片思いしていたこと。恐れ多くて一度も話しかけられなかったこと。誕生日やバレンタインには、下駄箱に無記名でプレゼントを入れたこと。卒業式の時、勇気を出して手紙を渡そうと思ったができなかったことなどを話した。そして、卒業して半年、ずっと忘れられなかったことも。
サトルはさらに驚いた。そして、その驚いた理由を話した。自分もしずかのことが気になっていたのだが、きっと怖がられていると思って声をかけられなかったのだと。
それを聞いたしずかは再び有頂天になった。そして、「私、給料は少ないけど、それでも毎月十万円は貯金しているから、それを毎月渡すので、治療費にまわして」と言った。
サトルは断った。そんなことをしてもらう理由がないと。
見た感じ、サトルは健常者と何ひとつ変わらなかった。だが、しずかは、だからこそ怖いのだと思った。こうしている間にも、サトルの体は蝕まれていっているのだと考えると、すぐにでも治療を受けてほしかった。だが、サトルは頑なだった。偶然再会した同級生に、治療費を出してもらうなんてあり得ないと言った。そして、そのまま行こうとした。
しずかは無性に寂しくなった。悲しくもあった。小さくなっていくサトルの背中を見ているうち、もうこのまま一生会えないのではという恐怖心にも似た想いに襲われた。
しずかはサトルを追いかけていた。そして、その背中を抱き締めていた。自分でも驚く行為だった。それまで、男性に触れたことなどなかった自分が、初恋といってもいい相手に、それも、久しぶりに再会し、はじめて会話を交わした相手の背中を抱き締めている。
拒絶されるかもしれないと思ったが、サトルは微動だにしなかった。それどころか、腰のあたりにまわした手をやさしく撫でてくれた。
涙が出てきた。それは、静かに、まるで湧き出るように溢れてきた。
サトルは痩せていた。季節は秋。薄手のコートに包まれた体は細かった。しずかは思った。やはり一刻も早く治療を受けた方がいいと。
しずかは涙を拭うと、サトルの前にまわり、サトルの顔を見上げてきっぱりと言った。
「お願い、私に力にならせて!」
サトルは目を逸らし、「だから、そんなことをしてもらう理由がないよ」と、目に涙を溜めながら断った。
しずかは食い下がった。
「じゃあ、理由を作ればいい。私を彼女にして!」
言ってから、顔がカッと熱くなった。
サトルは明らかに戸惑っていた。しずかは自分を責めた。サトルに彼女がいないわけがない。支えてくれる相手がいるはずだと。それに、久しぶりに再会して、はじめて言葉を交わしたばかりだというのに、告白なんて……失礼すぎると反省した。
「ごめん……私……勝手なことを……」
しずかは頭を下げた。呆れられ、そのままサトルは行ってしまうのではと思い、思わず目を閉じた。だが、サトルは行かなかった。予想に反し、しずかを抱き締めてくれたのだ。全身が熱くなったしずかにサトルは言った。
「彼女なんていないよ。いや、正直言うと、少し前までいたよ。いたけど、俺が病気になってしまったから……去っていったよ」と。
しずかは、「じゃあ、私を彼女にして。サトルくんと私とでは、釣り合わないかもしれないけど……ううん、私を好きになってくれなんて言わない。何も望まない。かたちだけでいいから、彼女にして。彼女にだったら、力になる理由があるよね?」と、サトルを強く抱き締め返しながら言った。
「いいのか?」。サトルは呟くように問いかけてきた。サトルを見上げる。サトルは涙を流していた。「当たり前だよ。だって、私、彼女だよ!」。そう言うしずかの唇を、サトルのそれが塞いだ。生まれてはじめてのキスだった。大袈裟ではなく、全身に電気が走った。唇を割るようにサトルの舌が入ってきた。驚いたしずかが唇を離すと、
「大丈夫だよ、俺の病気はうつったりしないから」
と、悲しそうに笑った。しずかはあわてて弁解した。
「違う、違うの……私……はじめてだったから……びっくりして……」
俯くしずかを、サトルは強く抱き寄せてくれた。
「で、そのサトルとかいうガキは、詐欺師のイカサマ野郎だったってオチか」
岬が口を挟む。フクは頷き、
「病気は嘘。しずかちゃんは毎月十万円をサトルに渡してた。その渡す時だけが、唯一サトルに会える日やったみたい」
「普段は会ってなかったんか?」
今度は立野。
「病気の治療を理由に、会ってくれなかったみたい。お金を渡す時も、サトルの自宅の玄関先で手渡しすると、『体調が悪いから』と言われ、部屋にも上げてくれなかったみたいやわ」
「……」
「それで、半年くらい経った頃、急に会いたいと言われて、指定されたファミレスに行ってみると、『入院が必要なくらい状態が悪くなったから、もうあきらめる、別れよう』と別れを切り出されたみたい」
「詐欺師の常套手段やな」
「しずかちゃんは、サトルに会っても、そんなにひどい状態には見えへんかった。それどころか、半年前に会った頃より、顔の色艶もよく、少し太ったような印象を受けた。着ている物も高そうなブランド品やったみたい。ちょっとおかしいなと思ったけど、薬の副作用のせいで体重が増えたのだと思ったし、自分に会うためにお洒落をしてきてくれたのだと思い、久しぶりに会えた嬉しさもあって、疑うことをしなかった。しずかちゃんは別れたくないと言ったけど、これ以上迷惑はかけられないと言い残し、サトルは店を出たらしい」
「白々しい奴やな」
「しずかはサトルを追いかけて、がんばって働いてお金をつくるから、別れないでほしいと縋ったけど、サトルは、先進医療を受けなければ死んでしまう、そしてそれを受けるには、月に数百万かかると言ったらしい」
「それを信じたんか?」
「何とかは盲目やって言うやろ」
「相手を信じたしずかは、女郎になった、ということか」
岬が言い、立野がうなる。
「親の反対を押し切って、家出同然でこの町に出てきて、稼いだお金はサトルの口座へ振り込んでたみたい。源氏名は本名のしずか。そうしたのは、気持ちは常にサトルにあるということを忘れないためやったみたい。他の男に抱かれてはいるものの、それはすべてサトルのためなのだと自分に言い聞かせるために」
「……」
「何度か病院に見舞いに行きたいと言ったみたいやけど、病気で苦しんでいる姿は見せたくないからと断られて、その代わり、元気になったら結婚しようと言われて、またその言葉を信じて、その日を夢見て、働いてはお金を送り続けた」
話しているうち、フクは感情が昂ぶってきて、涙が出そうになったが、必死で耐えた。
「十日ほど前、サトルがこの町に来た。女連れで」
「そのガキ、しずかがこの町におることを知らんかったんか?」
「しずかちゃんは、言ってなかったみたい」
「……」
「飛田新地を女連れで冷やかすように歩くサトルが、遊郭の入口に座る女郎のしずかを見つけたんや。当然、しずかも気づいた」
飛田遊郭は、それぞれの小屋の入口に女郎が座り、客に選んでもらうというスタイルをとっている。
「全部嘘やとわかったんやな。それで、しずかは自ら命を絶とうとしたんか?」
「うん。でも、途中の非常階段の出っ張りに引っ掛かって、それがクッションになって、足から落ちたんや」
「それで、しずかはどんな具合や?」
「怪我はたいしたことないみたいや。でも、心がな……自ら命を絶とうとしたわけやから……死なへんかったとはいえ、そんな簡単なもんでもないやろう」
突然、岬が立ち上がる。
「おい! 変なこと考えてないやろな!」
立野が岬に言う。
岬は立野を振り返り、寂し気な目を向けると、そのまま出ていった。
「大丈夫や」
フクはそう言ったが、少しだけ心配だった。
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