七
今夜の一番の客は岬だった。いつものように、たまごを注文し、ビールで流し込む。
「しずかやけど……」
「えっ?」
「ここへも来てないか?」
「そういえば……ここしばらくは来てないな」
「そうか……」
岬が物憂げな表情になる。眼鏡を外し、目のまわりをマッサージしている。
「しずかちゃん、どないかしたん?」
「一週間休んでいるそうや。半田のオッサンから聞いた」
半田は、遊郭の実質の経営者ではなく、名義を貸しているだけだが、当局から問い合わせがあった際に対応できるようにと、「はんだ」の内情についても把握しているのだ。
「一週間か……」
しずかにしては珍しいことだった。
女郎にも色々なタイプがいて、週に一回だけ出勤する者、昼間はOLをやりながら夜だけ出てくる者や、毎日顔を見せるものの数時間だけ働く者など、各々の事情により様々だったが、しずかは、病気の彼氏を支えるため、ほとんど休みなしで働いてきたはずだ。ここへも三日にあげず通ってくれている。
「携帯もつながらん。さっき天下茶屋のアパートにも行ってみたけど、留守みたいやった」
「……心配やな……あの子に限って、黙って飛ぶということはないと思うけど」
「借金もないし、飛ぶ理由もないから、そういう意味での心配はしてないけどな。まあ、うちの稼ぎ頭やし、もし連絡でも入ったら教えてや」
そう言い、岬が席を立つ。
「もう行くんかいな」
と、フクは、ガラスの引き戸から店内を覗き込む男に気づいた。
フクの視線に気づいた岬が振り返る。
岬の鋭い視線に驚いたのか、男が逃げるように去っていく。岬は一見、やり手のビジネスマンに見えるが、目つきは鋭い。
「ほら、睨むからお客さん逃げていったやんか!」
「いや……別に睨んでないけどな……」
岬がドアを開け、男が去っていった方向を眺めている。
「どないしたん?」
「いや、あいつ、どっかで見たことあるような気がしてな」
ガラス越しにチラッと見ただけだったが、黒縁の眼鏡をかけた、まだ若い男だった。どちらかというと冴えない感じではあったが。
「ほな、行くわ」
岬が代金を置き、出ていく。
「おおきに!」
岬の背中を見送る。フクはしずかのことが心配だった。もう、かれこれ二年の付き合いになる。もし何かあれば、一言相談くらいしてくれるはずだという想いがあった。一方で、しずかのことはほとんど何も知らないと改めて気づいていた。
出身が北陸だということや、年齢、彼氏のために働いていることくらいしか知らない。もちろん本名も知らないし、家族のこともわからない。相手が自分から話す分にはいいが、こちらから訊かないのがマナーだ。
岬か半田に、しずかのアパートの場所を聞いて、一度行ってみようかと考え始めた時、さっきの黒縁眼鏡の男が戻ってきた。
おそるおそる引き戸を開ける。
「いらっしゃい!」
フクはいつもどおり、威勢のいい、大きな声で言った。その声に男は驚き、自ら開けた引き戸に頭をぶつけている。
「おにいちゃん、はじめてやね。どこでも好きなところに座って。好きなところ言うても椅子が五つしかないけどな」
「は、はい」
黒縁の眼鏡にボサボサの髪。小柄だがぽっちゃりしている。ひと昔前の浪人生といった風情だ。
男がドアを閉めようとした時、それを引き剥がすように岬が入ってきた。
「おい、おまえ!」
岬を見た男が飛び上がり、逃げようとする。すかさず岬が男のダウンの襟を掴み、強引に引き戻した。自分と並んで座らせる。
「ちょっと、乱暴なことはやめてや」
「わかってる。ちょっと訊きたいことがあるだけや」
男は完全に怖気づき、恐怖を通り越して茫然としていた。
「おまえ、しずかの客やな?」
「……はい」
「やっぱりそうか。どっかで見たことあると思った。で、なんでここに?」
「……おでんを食べようと思って」
「嘘つけ!」
「……」
「しずかを捜してたんやろ?」
「……はい」
「ということは、しずかがこの店の常連やと知ってたということか」
「……はい」
「ふーん、おまえ、しずかのストーカーやな?」
「ち、違います。ある時、たまたま、見かけたんです。しずかさんがここに入るのを。だから……最近店にも出てないし、どうしたのかなと思って……」
「……おまえ、何か知らんか? しずかが誰かに狙われてたとか、トラブル抱えてたとか」
「いえ、知らないです。月に一度か二度、お店で、その……」
「今さら照れるな!」
岬が笑うと、ようやく男はリラックスした表情を見せた。
男は木村と名乗った。二十歳の大学生で、二年前、北海道から大阪へ出てきたらしい。そして、はじめて訪れた飛田新地で、まだ女郎になって間もないしずかで筆おろしをしたそうだ。以来、しずか以外の女郎を買ったことはなく、月に一度か二度、「はんだ」に通っているらしい。
「先週行ったら、休んでいると言われ、次の日も、その次の日も行ったのですが、やはり休んでいて……それで、こちらへ来てみたんです」
「そうか……」
「何も手がかりがないのですか?」
「今のところはな」
木村ががっくりと肩を落とす。
「まあ、せっかく来たんやから、食べていき! 私の奢りや!」
フクもしずかのことが心配だったが、わざと明るく言った。
「いえ、でも……」
「遠慮せんでええ。おでんは売るほどある」
「は、はあ……」
フクの冗談にも気づかず、木村は尚も遠慮していたが、岬にも勧められ、食べ始めた。一旦食べ始めると、木村は旺盛な食欲を見せた。聞くと、食事が喉を通らなかったそうで、しばらく何も食べていなかったようだ。
木村の食欲に呆れ、岬が席を立つ。
「俺の方でも色々あたってみるわ」
「うん」
木村が立ち上がり、岬に頭を下げる。
「よろしくお願いします」
岬が笑いながら言う。
「浮気するなよ!」
「し、しません!」
木村は直立不動で宣言するように言った。
フクは大声で笑った。
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