六
半田が配達にやってきた。半田は「半田酒店」の主人だ。勝手に裏の倉庫に行き、勝手に酒を補充していく。
確か今年還暦のはずだ。いつも阪神タイガースのキャップを被り、服装はジャージやブルゾンなど、ラフなものが多かった。
半田は酒店だけでなく、遊郭も経営している。屋号は「はんだ」。といっても表向きの話だ。実質の経営者は狭間組だった。ヤクザは遊郭を経営できないことになっている。だから、あくまで書類上の話だ。毎月、狭間組から幾ばくかの手数料を受け取っているのだろう。その事実は立野も知っているが、黙認しているようだ。
フクも「はんだ」で女郎をしていた。二十歳から四十歳までのちょうど二十年だ。
「一杯もらうわ」
半田が椅子に座る。
「配達中やろ? ていうか、あんた下戸やがな」
「へへへ」
半田とお約束になったやり取りを終えると、フクはごぼう天と卵を出す。水も一緒だ。
「せやけど、酒屋さんやのにお酒飲まれへんて、神様は残酷やな」
「まあ、そのおかげで店を何とか潰さんと今までやってこれた」
「まだまだ頑張ってもらわな。跡継ぎはまだ決まってないんやろ?」
「そやな」
半田は若い頃に妻を亡くしている。男手ひとつでひとり息子を育てたが、その息子は音楽の道で一旗あげようとしているらしい。
「息子さん、何歳になった?」
「もう三十五や。三十五にもなってバイト生活や」
「せやけど、夢を追いかけてるんやろ?」
「バンドを組んで歌ってるわ。一回聴いたけど、歌詞も内容も全くわからんかった」
「ええがな、夢があるというのは。別に援助はしてないんやろ?」
「してない。そうせなあかんようになったら、跡を継がせるわ。援助せんでもええうちは、好きにやらせたる」
「ええお父ちゃんやな」
「そうかな」
半田が少し寂し気に笑った。
「ところで、富田の行方は相変わらずか?」
「うん。もう三十年や。あきらめてる」
フクが女郎になったのは二十歳の時、つまり三十年前だ。その際、「はんだ」でフクの面接をしたのが半田だった。
フクが女郎になったのは、富田の借金が原因だった。
大阪へ出てきたフクは富田と生活をするようになったが、富田は定職に就かなかった。フクが働いている間、富田はどこかへ出かけていたが、お金を持って帰る時もあれば、フクの財布からお金をくすねることもあった。相変わらず夜の闇が怖い富田のため、夜は抱き合って眠った。
富田が働かないのも、財布からお金を抜き取るのも構わなかった。それよりも、富田がいつまでも夜の闇を怖れ、過去に囚われていることが心配だった。それでも、フクは、自分が一緒にいることで、少しでも富田が楽になるのであれば、とことん一緒にいようと思った。
今思い出しても、富田のことが好きだったのかどうかわからない。恋愛感情とは少し違ったように思う。大阪へ出てきたフクに声をかけてくれ、仕事を紹介してくれた恩は強く感じていた。そして、自分と似たような境遇に親近感を覚えたのも事実だ。情が移ったというやつか。恋愛感情というより愛情か。
富田は、何度も働くと言っては、日雇いやガードマンなど、様々な仕事に就くのだが、一週間と続かなかった。三日続けばフクは期待し、五日目ともなれば今度は大丈夫かなと思うのだが、大体六日目あたりで雇い主と喧嘩をしたり、何らかのトラブルを起こし、辞めてくるのだ。期待は何度も何度も裏切られた。彼が就職した会社は五十を下らないのではないか。
フクはもう途中からあきらめていた。だが、富田が、今の暮らしを、そして自分を変えようと考えていることはよく伝わってきた。だから、その気持ちだけで充分だと思うようになっていった。
そんな、昨日が今日でも、今日が明日でも変わらない生活がしばらく続いたが、さすがに富田もこのままではダメだと思ったのか、ある日宣言するように言った。
「俺、ヤクザになる。いっぱしのヤクザになって、おまえに楽をさせたる!」
ヤクザと聞いてフクは驚いたが、仕事に対して差別的な考えは持っていなかったため、富田の思い通りにさせることにした。今までとは違い、生半可な気持ちでは続けられない稼業だし、今度こそ、覚悟を決めたのだと思ったからだ。
しかし、ヤマト会に見習いとして入ったものの、長くは続かなかった。毎日早朝から深夜まで、まるで奴隷のようにこき使われ、時間が空いたと思ったら掃除や洗濯、洗車など、まるで家政婦のような扱いを受けるそうで、自分が描いていたヤクザ像とはかけ離れたものだったため、辞めてきたと富田は言った。富田の顔は腫れていた。おそらくヤキを入れられたのだろう。
「誰でも最初はそこからなんちゃうの?」
フクはやんわり言ったが、それが気に入らなかったのだろう、
「おまえに何がわかるんや! ガキの頃から奴隷のような扱いを受けた俺の気持ちなんてわからんやろ!」
そう言うや、富田はフクを殴りつけた。富田に殴られたのははじめてだった。倒れこむフクを見て、驚いたような表情を浮かべた富田は、そのまま部屋を飛び出していった。
三日後、乱暴に玄関ドアを叩く音で目覚めたフクは、富田が帰ってきたのかと思い、無防備にドアを開けた。と、いかにもヤクザ然とした男たち数人が雪崩れ込んできた。驚くフクを尻目に、「富田はどこや!」、「あのガキ、殺したる!」と口々に喚き散らした。
事情を訊くと、彼らは、富田が出入りしていたミナミのヤマト会の人間で、組が所持していた覚醒剤約五キロを富田が盗んだらしい。富田がいないことがわかると、彼らはフクを連れて行こうとした。
「来い! 風呂に沈めたる。おまえが働いて返せ! 三億やど、三億!」
三億と聞いて、フクは眩暈がした。体を売ったところで、三億など、一生かかっても返せそうにない。いや、一生かければ返せるかもしれないが、いつまでも若くはないのだから、歳をとれば客を取れなくなる。
玄関先で押し問答をしていると、そこへやってきたのが、岬だった。騒ぎに気づいたまわりの住民たちが警察ではなく、狭間組に連絡したのだ。警察より駆けつけるのが早いと判断したのだろう。
「うちの庭で何しとんねん!」
そう言うや、岬はフクを彼らから引き離し、彼らと何やら押し問答していたが、フクは咄嗟に言っていた。「私が働いて返します」と。岬は驚いた顔をしていた。フクは続けた。
「富田と私は一緒に暮らしていました。富田がしたことは私にも責任があります。だから、私が働いて返します」
「さっきも言ったように、末端価格で三億やぞ!」
ヤマト会の組員が凄む。
「体を売ってでも、返します」
フクはきっぱりと言った。
ヤマト会は、血眼になって富田を捜すだろう。そして必ず見つけるはずだ。ヤクザの捜索能力は警察以上だと聞いたことがある。結果、富田は殺される。だが、フクがお金を返していれば、富田の命までは奪わないはずだ。フクはそう考えたのだ。
岬がヤマト会の面々に向かって言った。
「悪いが、ここは俺に預からせてくれ」
「おまえは関係ないやろが! 引っ込んでろ、若造!」
「そういうわけにはいかんな。もう関わってしもてる。この町で派手な動きされたら俺も黙ってるわけにはいかん。本来なら、おまえらをただで帰すわけにはいかんところや」
「なにを、このガキが!」
一人が岬の胸倉を掴む。岬は平然としていた。当時フクは二十歳だった。岬は同い年だから、彼も二十歳だったのだろうが、とてもそうは見えない貫禄があった。相手もそれを感じたのだろう、舌打ちをして手を離した。
「今日のところは帰ってくれ。返済方法なんかについてはまた連絡する」
ヤマト会の面々はおとなしく帰っていった。
その後、岬と話した。岬は、返済する必要などないと言ってくれた。覚醒剤の窃盗なんかで被害届は出せないからと。フクは返すと言った。押し問答の末、岬が折れた。フクは「はんだ」で働くことになったのだ。
「いつかフラッと帰ってくるかもしれへんがな。だから、あんたはここでこうして店開いてるんやろ?」
「そやな。富田と暮らしたアパートはとっくに取り壊されて、今はモータープールやからな」
フクはそう答えたが、富田はもう戻ってこない気がしていた。確信に近い。それでも店をやめられずにいる。
「ほな、行くわ」
半田が代金を置いて出ていく。その背中に声をかけた。
「おおきに!」
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