今夜も、仕事終わりにしずかがやってきた。髪をまとめ、キャップを被り、パーカーにジーパン姿のしずかは、冴えない学生にしか見えない。メイクを落としているから尚更だ。 

「ママ、大根と、えーーーーと……」

 小柄なしずかが背伸びをするようにして、カウンター越しにおでん鍋を覗き込む。

「福」にはメニュー表はない。昆布とかつお、そして醤油と酒というシンプルな出汁はつぎ足しだが、種は毎日違う。

「今日は鶏団子があるで」

「あ、それ! それもらう!」

 しずかがはしゃいだ声を上げる。

「よっしゃ!」

 フクは、大根と鶏団子を小皿に盛り、出す。それを見たしずかの目が嬉しそうに輝いた。

「うわぁ、やわらかい!」

 そう言いながら、しずかは大根を箸で四つに割り、ハフハフしながら食べたと思うと、続いて鶏団子を口に入れた。

「おいひいわぁ」

「ヤケドするで、ゆっくり食べ! 誰もとれへんわ!」

 しずかがペロッと舌を出して、ビールを飲み干す。

 本当に明るくなったものだ。いや、元来、天真爛漫なタイプなのだろう。だが、この町にやってきた頃は、今にも死にそうな顔で、痩せ細った体を引き摺るように歩いていた。

 少しずつ話をするようになり、打ち明け話をしてくれるようになったのだが、それによると、彼氏が重い病気に罹り、その治療費を稼ぐために女郎になったそうだ。もう二年になる。

 どういう病気かは知らないが、かなりの額が必要らしい。彼氏といえども他人だ。その他人のために、一生懸命働く姿は見ていていじらしい。

 フクもそうだった。状況こそ違えど、かつては男のために女郎をしていた。


 フクは天涯孤独だった。幼い頃に両親を事故で亡くし、遠縁にあたる親類の家をたらい回しにされた。どこに行っても厄介者扱いされた。どの家も金銭的な余裕がなく、胃袋がひとつ増えるだけで家計が逼迫したのだろう。

 そんなこともあり、フクは義務教育を終えると大阪に出てきた。田舎町を転々としていただけに、大阪ミナミの煌びやかさに気後れしながらも、新しい人生を始められるという喜びの方が勝っていた。

 とはいえ、中卒の十五歳、何のあてもなく出てきただけに、働く場所も住む場所もなかなか見つけられなかった。十五歳の少女が一週間ほど地下鉄の駅で寝泊りした。

 そんなフクに声をかけてきたのが富田だった。富田は当時二十歳、現在、岬が若頭を務める狭間組とは反目するヤマト会の世話になっていた。

 富田は、フクを家出少女と思ったようで、「親が心配しているやろうから、家へ帰れ」といきなり説教してきた。パンチパーマに口ひげを生やしていたが、それが全くサマになっていなくて、滑稽だったこともあり、フクは反発した。

「家出とちゃうわ。仕事を探してるねん」

 そう言うと、富田はビクッとし、

「そ、そうか。悪い悪い。仕事やったら紹介したるで」

 と笑顔になった。

 富田を怪しいと思ったフクは拒んだが、紹介してくれようとする仕事が喫茶店のウェイトレスだったため、面接だけでも受けようと思ったのだ。

 道頓堀にある二十四時間営業の大箱の喫茶店だった。富田の行きつけの店であり、オーナーから、人手探しを頼まれていたようだった。

 面接の結果、採用となった。寮にも入れるらしい。フクに異存はなかった。富田に礼を言い、すぐに働き始めたが、仕事自体をするのがはじめてだったこともあり、慣れるまでが大変だった。

 それでも、オーナーや同僚の助けもあり、ひと月もすれば仕事を覚え、夜勤にも入るようになった。

 富田はその店の常連客だった。特に夜中から朝方にかけての時間、富田はその店で過ごすことが多かった。そんな富田に、ある日フクは訊いてみた。「家に帰らなくてもいいの?」と。富田は答えた。「一人暮らしだから、誰が待っているわけでもないし、それに、夜に一人で暗いアパートにいると寂しくて、怖くなるんや」と答えた。

 それから、色々と話をするようになり、富田の境遇を知った。富田は親から育児放棄に遭い、少年時代を養護施設で過ごした。富田は誰とも打ち解けられず、やがていじめられるようになった。それに対しても、何もできず、何も言い返せず、富田は十五歳で施設を出るまで、暴力や無視など、壮絶ないじめを受け続けた。ずっと独りぼっちだった。子供の人数の割に職員の数が少なく、あまりかまってもらえなかった。施設に富田の居場所はなかった。

 富田は施設を出ると、この大阪へやってきた。そのあたりはフクと同じだ。フクもまた、たらい回しされた親類の家に居場所はなかった。

 フクも自らの境遇を富田に話した。どことなく互いの境遇に似たものを覚えた二人は、いつしか自然に惹かれあうようになった。

 一緒に住もうと言いだしたのは、フクの方からだった。富田はフクの申し出を喜んで受け入れた。寮で同棲するわけにはいかないので、富田のアパートで同居生活を始めた。新世界にある、二階建ての老朽化した六畳一間の木造アパートだった。フクは、日勤だけのシフトにしてもらい、夜は富田と一緒に過ごすことにした。

 最初の頃は、フクが隣で寝ていても、うなされたり、叫び声を上げたりしていた。電気を消さないでくれと言い、涙を流すこともあった。

 何がそんなに怖いのか、フクは訊ねてみた。富田は、

「俺には父親がおらん。というか、母親と俺を捨てて出て行ったらしくて、母親は部屋で男をとって商売してた。俺は商売の邪魔やったから、押入れに入れられたり、ベランダに出されたり、その存在をないものとして扱われた。そのうち、母親に男ができて、本当の意味で邪魔になった俺は山に捨てられた。寒い冬の夜やった。真っ暗な中で、凍えそうになって泣いているところを登山者に発見されて保護されたんや。それで、そのまま施設へ直行や」

 と告白した。

 富田の心の闇を知ったフクは、すべてに合点がいった。暗闇や孤独を恐れ、灯りや人のぬくもりを求める理由が。

 フクの場合は、捨てられたわけではないが、今の今まで楽しく会話をしていた両親が、次の瞬間には帰らぬ人になったという経験を持つ。二度と両親に会えないという現実を突きつけられた時、最初に抱いた感情は、悲しみや寂しさではなく、ものすごい恐怖だった。

 時間が経つと、恐怖が不安になり、ようやく悲しみや寂しさに見舞われた。何度も何度も、自分ひとりだけが生き残ったことを悔いた。どうしようもないことだったが、一緒に死にたかったと思った。親類の家をたらい回しにされている時は、何度も死のうと思った。だが、死ねなかった。

 フクは富田の心にこびりついた恐怖が理解できた。だから、毎晩、富田を抱き締めて眠った。それでもしばらくの間、富田は震えているのだが、フクの腕の中で寝息を立て始めると、朝までぐっすり眠るのだった。

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