Op.35 甘いエネルギー勾配の約束

 夏休みが終わり、秋が来た。

 盆に騒ぎを起こした速水はやみかなでは祭りの件どころか音羽おとわすずの姿をかたどった色欲の化身アスモデウスと体を契ったことさえ記憶にないようだ。

 ただし事の一連は魂に刻まれているため鈴と遭遇するたびに後ろめたさを憶え、よそよそしい態度を取り続けており挨拶も交わさなくなってしまった。


 鈴のほうは急に態度を翻した奏に少し困惑している。もちろん自分の形をした人形で卑猥な行為に走った奏に対し完全に憧れを失ってしまったが、一度は縁のあった人間からこのように避けられるのも心苦しいものがある。

 どのように言っても一時は憧れ、彼のためにこの難関校に入学をしたのだから。


 周囲はそんな鈴のお人好しな態度に当然呆れていた。古賀こがつづみなど、奏とのすれ違いざまにはキリクよりも率先して威嚇を見せながら鈴を抱き寄せるほどだ。しかしそのときの鈴は奏のことよりも鼓のことに気を取られ頭の中がポワポワしてハグをし返すぐらいには気移りしているため、少なくとも奏が喉元過ぎたとしても鈴が今までのように惑わされるという可能性はないだろう。


 それに加えて浮幽霊のかのう美琴みこと情報では

「あの先輩、彼女とも別れてたわ」

 交際相手とうまくいかなくなったという。原因はただの自然消滅のようだった。

 告白をしたのも彼女のほうからだったらしく奏は乗り掛かった舟のような気分で交際をスタートさせたものの、アスモデウスとの契約以降なぜか彼女に対して卑猥な気持ちを抱くことが出来なくなって少しずつ距離が開いて行き、夏祭りを境に目に見えて彼女に興味を示さなくなったという。それほどアスモデウス当人の催淫力が強く、対面した時点で精力を搾り尽くされたということだろう。

 幸か不幸か、成績が落ちたことで志望大学への推薦は望めないとされたことで

「勉強に集中したいから」

 という理由をつけて交際相手と距離を置き『このまま時間が解決してくれたらラッキーだなあ』と願っていると本当に彼女のほうから別れを告げて終焉を迎えたのだ。



「鈴ちゃんは盲目すぎるのよ。もっと相手を疑って。ほら、このチンピラ天使とエネルギーを共有してるからって中身はチンピラなのよ。そんな新婚さんみたいな空気を醸すから余計に天使がつけ上がるのよ」


 美琴のこの言葉にはキリクを除いて誰一人反論しない。そのため鈴は柔らかにキリクを庇った、というよりは、逆効果のような言い回しだが。


「美琴さんのおっしゃることも分かります。でも相手のことを知ってるのと知らないのとで心を許すかどうか大きく変わるので。それにキリクさんとはそういう関係じゃないんですよ、天使ですから」


 しかしそう言いながらも鈴はキリクに心どころか膝まくらまで許すようになっているではないか。美琴はこの光景に最初は目を疑ったが今では慣れてしまったようで軽く溜め息をついたのちコッソリとその場をあとにした。



「あれ? 美琴、単品? 鈴は? 犬神いぬがみくんと一緒?」

 鼓が声をかけると美琴は欧米風に手のひらを上に向けて首を横に振った。


「そ。私も何だかんだ文句言ったって気が利くのよ」

 外見は少女だが中身は一周回った中年のようである。


 美琴が二人を放っておくのは他にも理由があるからだ。キリクにしか出来ない仕事がある。

 鈴が夏祭りで奏の裏の顔を知ったショックで周波数が大きく乱れ、キリクがそれを緩和させようと鈴を包むように抱きしめていたが、精神的なダメージは残ったようだ。

「少し第四層が薄れたな」

 と、エネルギーを与えた。しかしオーラの層は外にいくほど大容量の燃料を要するものだ。最初に第三層までを補った時とは比にならず、第四層は小分けにしなければ注ぐ側の消耗が激しい。


 そのような経緯でキリクが身を削りエネルギーを注いだために疲弊し、膝まくらに至る。


 如何せん、屋上の影に座り鈴が扇子で仰ぎながらキリクを介抱する様ははたから見ているとイチャついているだけの恋人同士である。ただし今のキリクは瀕死の表情である上、話の内容も全く違うため事情を知る者にとっては固唾を呑むようなイベントだろう。


「無理をさせてしまってごめんなさい」

「お前が回復したならいいよ。俺は天から無限のエネルギーを受けることができるから。生者の姿の今じゃ無理だけど」

「今夜はサクさまの本殿でゆっくりお休みくださいね」

「あー、あいつ張り切るだろうな (サクの奴、ぜってーうそぶいてるだけだろ)」


 天の気が降りてくる本殿でサクも生者の加護や祈願成就に使ったエネルギーを回復させている。キリクも便乗すれば済む話であり、本殿に天使姿で静置しているだけで充分回復が可能なのだ。

 が、サクはよくウキウキした顔でエネルギー勾配が云々と言いながらハグの体勢で大きく両手を広げて催促する。エネルギー勾配など不要だとキリクは毎度あしらっている次第だ。


 その様子をキリクが思い出すと鈴にもその周波数が流れ込み、薄っすら映像まで共有してしまった。


「えっと……これは……」

「鈴。今視えたことは全て忘れろ」


 特筆すべきではない光景であることは確かだ。


 だが、サクの場合はハグであるが一番効率がよいのは口からのエネルギー補給であるという情報も一瞬で鈴に伝わってしまう。



 鈴は興味津々に自身の唇に触れて「私ともできますか」と尋ねてしまった。

 キリクはガバッと起き上がり、鈴をじっと見つめる。



「今やると俺にエネルギーが戻ってきて何の意味もなくなるぞ」



 何のムードもない返答だが正論なのだ。

 水を煮沸させたビーカーを 25℃ の水に浸ける熱勾配、タンパク質の入った透析膜でバッファー置換する濃度勾配、それらと原理は全く同じである。


 悪魔には性別があるが天使にはそれがない。周囲のイメージや自分の個性からかたどられた姿で現れているだけの高尚な存在なのだ。

 とは言え、大昔に生者だったキリクは男性での生だったことが多かったためか無意識だろう、

 ―― (確かに鈴のほうが断然サクあいつより抵抗ないな)

 性別や生物種問わず万物を慈しむ天使にも好き嫌いはあるようだ。


 キリクは向かい合って座る鈴の肩に顎を乗せた。


「鈴が望むならいいよ。俺のエネルギーが充実してるときにな。……けどイチゴ牛乳の香りが移っても知らないぞ」


 その一挙一動に鈴の心は不思議とフワフワした。鼓や、以前の速水奏に対するポワポワとした感覚とは似て非なるものだ。


 キリクにもそれが伝わる。

 鈴はそれがキリクに伝わったことが分かる。

 キリクがそれが何たるかを理解する。

 鈴にもその意味が伝わった。


 鈴は『天使に対してあってはならない』と、

 キリクは『相手は生者だ』と、


 互いにその否定すらも共有するけれど、


『もう少しこのままでいたい』


 その心地よさも同時に共有していた。

 二人は後者を選択し、しばらくそのまま密着して波長を溶かし合っていた。



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