Op.7 大いなる全

「あの奥さまも、『鍵付き』になってしまうのでしょうか」

 ひじり弦太げんたと罪を共有した妻の死後までも心配する音羽おとわすず。彼女を自宅に送り届けての帰り道、そのように呟く。


「可能性はあるな」

 キリクの返答は容赦がない。鈴が「そんな……」と言葉を失うが、

「鍵の場所はもう分かるだろ」

 キリクは存外冷静である。まるで業務的な態度だが、今はむしろその淡々とした態度が確信を呼び、鈴は安堵した。


「……そうですね、それなら私も悲しくありません」


 鈴はこの瞬間、柔らかく笑った。

 その安堵の笑顔を見たキリクはようやく気付いたようだ。


 鈴がなぜ憑依のたびに物憂ものうげな表情を浮かべるのかを。


 死者の想いを直接共有してしまう、それは体力を奪われることよりも辛いことだったのだ。特に自殺霊の絶望感は並大抵ではないだろう。それでも耐えていられたのは鈴の魂が特段に穢れのない、天界に近い周波数であるからだということは後々に知ることである。


 かのう美琴みことはキリクに対して「よかったわね、『馬鹿』にならずに済んで」と皮肉る。キリクは美琴の皮肉にも反論せず、


「鈴。」


 そう呼び止めた。振り返った鈴の儚い姿に、生者でもなく未練をもった死者でもないはずのキリクは胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。


 ――(天界じゃこんな感覚は知らない。これが地球の周波数ってやつか)


 苦悶の色を浮かべ自身の胸のあたりをギュッと握りしめる。

「悪かった。本当にごめん」

「? どうしたんですか?」

 いきなり謝罪をされた鈴はキョトンとした顔で濡れた目を見開いていた。

「お前の気持ちを何一つ考えてなかった。足枷こいつの言ったとおり、俺は馬鹿だ……」

 何を言わんとしているかは伝わったようだ、鈴は目を細めて柔和に微笑む。

「……いいんです、私にはこれぐらいしか出来ませんし」

「いいや、これからは俺を手伝おうとしなくていい」

「ですがもう知ってしまったんです。死者や遺された人たちの悲しみ、『鍵付き』さんたちの苦しみを。美琴さんだけでも鍵を探したいんです」

 美琴はハッとした顔でそれを否定した。

「や、やめて鈴ちゃん、それじゃ私がまた別の未練を残しちゃうわ」

「そうだ、無理してお前が壊れたらどうすんだ。特にコイツは何も情報が視えないほど強いフィルターをかけてたぐらいだろ。別の方法を考えるからお前はもっと自分を大事にしろ」



「……讃美歌……」



 鈴の呟きに、キリクはピクリと金眼をすがめる。

「あの歌か。お前も聴いたんだな、そりゃそうか」

 生者に聴こえることは稀である。高尚な僧侶がようやく感じ取れるぐらいだろう。だがそれほど鈴の魂は特殊だったのだ。


 無論、美琴には聴こえなかった。しかしその場の空気がガラリと変わったことぐらいは感じていた。

「ねえ、讃美歌って何?」

「足枷、お前にはまだ早い。けどいつかきっと救われる、その時に分かる」

「……な、何よそれ……」

 わかっているが認めたくはないのだ。


 その傍ら、鈴は未だに胸の中に残るあの慈しみにも似た感情を噛みしめる。


「あの歌を聴いたあと、一切の苦しみが綺麗に消え去ったんです。この地球に存在していること自体が幸福であるように感じて。まるで無条件に祝福を受けているような気持ちになりました。あれは何だったんでしょうか」


 これもまた本来は生者が感じてはならない感覚である。キリクは性格に似合わぬ憂いを孕んだ眼差しで鈴を見据えた。



「あれは……大いなる『全』に捧ぐ、魂の祈りと感謝だ」



「大いなる、全……」


 初めて耳にするはずの言葉だが何故だかとても懐かしい。


「この宇宙の始まりの光、或いは一部では創造主、一部では主、また多くの者には、神、そう呼ばれている存在だ」


 宇宙が始まるときのビッグバン。無から有は生まれないというように、宇宙が始まる前にも必ず何かがあったのだ。それを科学では『次元』や『量子』と呼び天界では『愛』と呼んでいる。或いは、人の間では『光』や『光の存在』、または『エネルギー体』など、多種多様だ。しかし皆同じものを指している。


「神さまのことをは『大いなる全』と呼ぶんですか?」


「天界じゃ『神』なんて区分はない」


 なぜならすべての始まりが同じ根源であり 意識体であり を分け与えられたものであり そして『神』というものはの集合体であるからだ。


「俺もお前も、この足枷も、みんな『全』なる中の『個』だからだ。生者が孤独を感じるのはその『個』である感覚が地球の中で薄れるせいだ。本来の自分が『全』と繋がっていることを思い出す工程が、俗に言う『悟り』や『成仏』或いは『回天』に当たる、はずだ」


「はず、とは……」


「人間が作った思想だから個々で違うだろ。本当は同じことを言ってる、はずなんだけど。そのために祈るんだろ? 生者はその祈りという作業で満足するんだろうが、それとは一線を画して魂があの歌を捧げるというのは本当の意味で感謝したということだ」


「……だからこんなにも晴れやかな気持ちになるんですね」

「生者でそれを体感するのはごく稀だ。ヨガとかをやる人間でその境地に達する奴もいるが、普通は二十年ぐらいが妥当じゃないか? (知らねぇけど)」

「そんなに……では、やっぱり私は幸せ者です」

「だからと言って無理をするな、俺はそんなつもりで頼んでたわけじゃない」


 キリクがかたくなに断るので、鈴は「じゃあ、美琴さんのことはゆっくりと解決しましょう、一緒に」と半ば折れる形で収めた。美琴は複雑な思いでそれを受け入れる。


「鈴ちゃん、無理しないでね。今は鈴ちゃんと一緒にいられて楽しいし、急いで成仏したい理由もないから。迷惑じゃなければしばらくはこのままでいてもいいかな……」


「迷惑なんて思ってませんよ、私も心強いです。だって美琴さんのおかげでこうして健康な体に戻れたんですから」


 もうじき新学期が訪れる。高校に入学する日に事故に遭った鈴は、美琴が憑依したおかげで覚醒して高校に通えるようになったことを常々感謝していた。



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