第9話 持つ者は持つなりに
緑耳地域北西部に広がる青々と茂る森林の奥深く。大地を踏みしめる二組の足はそれぞれ葉の擦れるのに合わせて鈍い音と軽い音を奏でる。
そのハーモニーにまず声を当てたのはえるである。
「ねえ、おこってんの?」
──耳を疑った。
ごく当たり前のことを訊くものだと。ああ、そうだ、そうだな。私は怒っている。
だって、そうだろう?
血縁だ。従姉だぞ。誰であろうと、君であろうと怒るに決まっている。恨むに決まっている。逆に、何故怒らないのか。私はむしろそこが理解できない。
「ねえ……」
幼女は再度私に語り掛ける。
うるさい。耳障りだ。鬱陶しい。反射的に顔を歪める。
「しつこい」
思わず口から漏れ出た言葉に一瞬ハッとするが、気にしない。
そう。こいつはガキだ。生まれて20年ならまだしも、未だ10年も経っていないではないか。
未成熟極まりない。黙って済まそう。
私はえるから意図的に目を逸らしつつ歩みを進める。背中に何者かを背負いながら。
何者なのか。それはわからない。わからないということが余計に私を苛立たせる。しかしこれだけならばきっと私はこの怒りに耐え得るのであろう。
えるがしきりにこちらの顔を覗くものだから、余計鼻につく。
「んだよ」
思わず口に出る。何故お前の眼差しはいつもこう私の奥のおくを見つめるのか。
「……かなしいの?」
「──ふん」
心中籠りに籠った鬱憤を晴らすかの如く鼻から勢いよく息を吐き出す。
──本当にこいつは、いつも私の感情を逆撫でする。
「ねえ、いつも何を唱えてるの?」
アーリンに聞いてみたことがある。遠い昔。そう、忘れもしない5歳の頃の記憶。
近頃いつもいつもしきりになにか唱えているので、つい気になって聞いてしまったのだ。
今思えば失礼極まりないことである。しかし、幼い私には言霊を矯正していただなんて知る由もない。
「本当……。なにしてるんだろうね」
彼女は少し悲しそうな顔をしてはにかんだ。その顔が、今でも頭から離れない。
当時は未だ先代緑耳地域守護ロア・フーシレアの死後間もなく、緑耳地域内は少なからず混乱していた。故に未来を担う我々子供への期待も相応に高まっていたのだ。通常ならばせいぜい身内が見守る程度であろう言霊矯正の訓練も、ここまでに注目を集めていたのはこれが原因であろう。
「風よ、目前に現れろ」
その日もアーリンは右手を前方に広げ詠唱していた。しかし何も変化は起きず、辺りにはただ静寂の時間が流れるばかりである。ここ最近はこれを永遠繰り返している。
観衆や身内は彼女の周りに円をつくる。日によって減るでもなく、その日もただ中心には彼女がいた。そして興味本位からその輪の中に頭を並べる私である。
彼女の表情はひたすらに暗雲としており、今にも涙が溢れそうといった様子。
私は、恐れ多くも真似してみたくなった。これは単純な興味であり、無垢の暴力である。そう、声に出すだけで苦しいとはどんな感じなのかと失礼千万なことを考えてしまったのだ。
そのばっかりに。私と彼女の歯車はキンと音を立ていびつにかみ合った。
残酷ながらも、僕は生まれつき言霊が強かったらしい。
「かぜよ、もくぜんにあらわれろ」
風かーー。現れるとしたら、こんな感じかなー。なんて。
思っただけだったのに。
瞬間、アーリンの髪はバサリと逆立つ。誰かの帽子が宙を舞う。
──え?
途端。心臓がぐっと掴まれるかのように痛んだ。思わず目をつむる。
そして目を開けると。
「なんで」
枯葉、土、枝、帽子、煙草、渦をつくり
目の前には見上げるほどのつむじ風が起きていた。
ただ呆然としたまま周りを見る。周囲の視線は私に集中していた。
そして、導かれるようにアーリンを見る。
アーリンは、私の方を見て悲しそうに微笑んだ。
そもそも、フーシレア家は代々風の言霊を行使する。これは緑耳地域守護家である当家に古くから根付くレア領独特の伝統である訳だが、言霊矯正を必須とするため高難度の芸当であることでも知られる。故に通常であれば数か月にも及ぶ長い時間をかけて習得していくはずのもので、ある程度の自我や地域守護たる自覚が芽生えねば習得は叶わないはずだった。
周りの大人は、皆私を天才と褒め称えた。
「アスク、お前は父さんの誇りだ」
「さながらロア地域守護様の幼少期を思わせる」
「これで緑耳地域も安泰だな」
こうして僕は緑耳の未来を担う神童と謳われた。過激なほどに。
そしてこれ等の言葉は、幼い僕を増長させるのに十分だった。
青い僕は自らに慢心した。自らが褒め称えられるその意味も知らずに。
しかし、いつまでも違和感に気が付かない程に勘が悪いわけでもなかった。
手始めに僕の周りからは徐々に人が消えていった。それは顔見知りに始まり、終には仲が良かったはずの友人にも及んだ。
信じたくなかった。信じられなかった。だって、相手から距離を取られることなんていままでなかったのだから。
次に大人がこちらを見て二ヤと笑うようになった。気味が悪かった。でも、これは今ならばなんとなくわかる。
私は期待されていたのだ。緑耳地域の希望として。未来として。淡い子供にとってはあまりに重い重責を私は背負ってしまったのだ。
そして、アーリンの顔が日常的に暗くなったのはこの頃からである。
『言霊とは気まぐれである』
かのニジ教会三司教が一角 ハナモモ・シレンチウム の言である。
つまり、僕は。僕たちは、言霊の気まぐれに翻弄されたという訳だ。
無論、私と彼女は対の方向に。
「領主様は挑発していらっしゃるのか?それとも考え無しか?」
私は心の内の鬱憤を構わず吐き出す。
アーリンの中身の何者かは。アーリンのこれまでの苦しみを。努力を。意思を。無に帰したのだ。
いや、まだアーリンの意思が消えたことは確定していない。思い込むな。思い込みは大抵悪い方向にしか転ばない。そうは思いながらも。
しかしあのエリーが言うのだからやはり彼女の中には誰かがいるのだと考え直す。
そいつのことは許してはならない。
心の中で結論を出す。
「……なんのこと」
この期に及んで。
「なぜこの
たまらず問う。
普通に考えてこの領地を脅かしに来たとしか思えない。そうでなければ私たちへの嫌がらせか?これ以外の理由が見当たらない。なのに何故皆揃いも揃って彼女を守ろうとする?意味が解らない。
えるの方は、ピクと一瞬眉を顰めるがあくまで真顔で澄ましている。これがまた無性にいらつく。
「すずな、えるのことまもった」
えるは少々強い口調でそう言い張る。
──は?
「守った?そんなのお前を懐柔するために決まっているだろう。これだけで信頼に値するとは到底思えん」
「わかる。すずなはいいひと」
えるは断固として食い下がる。──アーリンをその名で呼ぶな。
ああ、みるみる頭に血が上る。怒りが込み上げる。
「だから、だったら何故こいつはアーリンの意識を乗っ取った?何故アーリンを選んだ?私はこいつの裏には忌々しい悪が潜んでいるとしか思えないのだそうだろう?!」
声が震えるのを抑える。
そう。乗っ取ったんだ。こいつは『盗人』なのだ。彼女の努力を、涙を、人生を。
奪ったのだぞ。
「なんで……」
歩みを止める。
「なんで、よりにもよって、アーリン様なのだ。……私はまだ、償えていないのに」
視界が滲む。心が、まるで紙をきつく丸めたかのようにのようにぐしゃと締め付けられる。苦しい。鼻がツンと痛む。
「アスクさあ」
えるはその身体を翻し私の前に向かい合う。その頭は一回りも二回りも小さく、彼女は上目遣いに私を見つめる。
「えるはふーしれあのこともあーりん?のこともしらないけどさ、すずなのかお、みればわかるでしょ」
偉そうに諭される。思わず顔を思い切りしかめるが、これ以上言い返してもどうしようもないことは解りきっていたため、渋々ながらにくいと首を曲げて彼女の顔を覗き込む。
「──お前が」
思わず声が零れる。
見て、改めて判る。この雰囲気は、やはりアーリンではない。
わかるのだ。不可視の領域のその形が違うのだ。しかし、問題はそこではない。
彼女は泣いていた。目の下に隈をため、口角を下げ、眉を顰め。なんというか、感情の方の形、いわゆる心の状態があまりにも彼女に酷似していた。
「なぜこんなに苦しそうなんだ」
愕然とした。これは多分、私や言霊に恐怖しているそれではない。死への恐怖でも、プレッシャーでもない。もっと深い。暗い。私の目では捉えきれない向こう側にある何かが彼女をこうさせているのだとなんとなく察する。
「それにすずな、へんなげんれいつかってた。りようかちある」
えるはこちらを見て親指を立てる。どやりとした顔だ。完全に無垢のそれである。
──本当にこいつは、どこまでも私の感情を逆撫でする。
「親族の前でそういうことを言うな」
私はゆっくりと足を上げ、再び歩みを進めた。えるは少し口角を上げたかと思うと、私の後ろを歩き始める。
向かうは、レア領の首都白ロ地域の中心。トモリ様の邸宅である。
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