3.初期微動
「炎よ」
瞳を閉じる。口を開く。声を発する。
遠く前に突き出された左手に、瞬く間に魔力的なものが込められていく。
──イメージは、そう。ひとだま。
宙に浮き、炎を揺らし、ウヨウヨと蠢く、あれ。
彼女はゆっくりと瞳を開く。
そして前方を見つめ、喉に力を籠める。
「目前に現れろ」
一拍、鼓動が高鳴る。
瞬間、彼女の指先には小さな炎が生じる。
「こっから……」
真っ赤に滾るそれを、彼女は絶やすことのないよう細心の注意を払いつつ空中を移動させる。
ゆっくりと、ゆっくりと。丁寧に。
炎はというと、慣性で揺れはするものの、消えてしまいそうな危うさは特にはない。
「じゃあ次は」
今度は、炎を遠くに移動させてみる。
炎は遠くに行くほどに不安定さを増すため、一層ゆっくりと。丁寧に。
……そう。そうだ、その調子。
部屋の隅まで炎を移動させることができれば、成功である。
「…………ふふふぅ」
彼女は、不敵な笑みを浮かべる。
「何をしているんですか、領主様」
突然、後方から声がする。
「へっ?誰よいきなりっとととうぇわぁ」
不意を突かれた彼女は間抜けた声をあげる。
と、一瞬意識が反れた隙に炎はゆらとバランスを失い……。
「あ」
炎が床に落ちた。
「あちょちょちょやばいやばいあーどうしよ水、みず」
彼女は、室内で炎の言霊の実験をしていた。
「室内で実験をするなとあれほど言ったじゃないですか。あなたの耳は節穴ですか」
「節穴とはなんだ節穴とはぁ、私は領主だぞお」
「その領主が耳だけでなく行動も節穴でどうするんですかっと」
そう言うと右手を前に向け、一言唱える。
「水よ、炎を鎮めろ」
そう唱えると、領主室に飾られている花瓶から少量の水が数摘浮き出る。
そして木造の床を焦がす炎の元へと列をなして移動し、炎の上でポトリと落ちる。
炎は、ジュワと音を立てると煙を立てながら鎮まる。
「あはっ、ありがとうねリリー助かったぁ」
「あはっじゃないでしょう言霊は外で使うよう先日も言いましたよね」
「にしてもリリーの言霊はシュールだねぇ」
トモリは、明後日の方向に目を向けながらとぼけたように言い放つ。
「話聞いてますか?!今!それは関係ないでしょう?!あなたは水の言霊すら放てなかったくせに!」
リリーは激昂し、腕をぶるんぶるんと振りながら反論する。
鬼女である。
「いや、それはリリーが突然来たから焦ったんだよぉ」
「それ、『言霊の始祖』として、どうなんですか」
「その呼び方しないでくれるかなぁ……」
眉をひそめながら目を逸らす。
──この二つ名、あまり好きではないのだ。やめてほしい。
「はいはい、トモリ様」
「ほんと、私にこんなに物申せるのって実はすごいことなんだからね……。私、こう見えても領主なんだけど」
「ご長命のようで。末永く長生きしてくださいね、トモリおばあちゃん」
「うわっ言っちゃいけないこと言ったなばかやろう」
「400歳におばあちゃんでは足りませんでしたかねぇ」
リリーはフフフとわざとらしく笑う。
──悪い目をしている。やはり鬼女である。
「まだ398歳だっての……」
彼女はボソとそう呟くと、口を尖らせフンとわかりやすくため息をつく。
──この子の無遠慮さ、いい加減どうにかならないものか。まあ、いい子だけども。
心の中で、再び大きくため息をつく。
彼女──トモリ・レアホワイトは、長きにわたりレア領の領主を務め上げてきた。故に、これまで数え切れない程の人物と関わりを持ってきたはずなのだが。
そんな彼女でも一筋縄ではいかないのが、彼女──リリー・ギープである。
「それで、なんの用なのさ。秘書さん」
「ああ、そうでした」
リリーは瞬時に表情を引き締めると、すぐさま姿勢を正し軽く会釈する。
「緑耳地域守護様の遣いがいらしていますが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「アレラの遣い?アルについて何か進展でもあったのかな」
トモリは訝しげな表情を湛え、考え込むように部屋の天井に顔を向ける。
と、同時に顔を引き攣らせる。
天井には黒く焦げた跡がついていた。多分、さっき焦がしたのだろう。
……リリーには内緒にしておこう。
「いえ、別件だそうで。内容については領主様の面前でお伝えしたいとのことです」
「ふうん?まあ、通していいよ」
そう言うとリリーは雑に一礼をし、即座に部屋を後にする。
「……礼儀作法は、今少しかな」
リリーの足音が遠のくのを聞いた後、トモリは再び天井を見つめる。
目を凝らさなければ天井板の木目と勘違いしそうだが、目を凝らすと解る。
しっかりとまんまるに焦げている。
「こりゃバレたらリリーに叱られるな……」
などとつぶやきつつ、顔に手を当て考えるポーズをとる。
──アレラからの話とは、なんだろう。
緑耳地域というと、アルの一件が一番に浮かぶ。
国境でのイザコザは今に始まったことではないが、未来ある次代地域守護がこういう形で行方知れずになったことは痛ましいと言う他ない。
でも、今回はその件ではないという。
……この件であってほしかったなぁ。アルの本体はまだ見つかっていないから。
緑耳地域といえば人攫いのイメージもある。最近どうにも増えているのだ、人攫い。でも、それについては既にアレラと話している。今は『
とすると、なんだろう。いよいよわからない。
でも……相当な問題が起こったことは間違いないのだろう。
そもそもアレラはあまり遣いをよこさないのだ。今までだって、家の人間に何かあったときくらいしか……。
………………。
冷や汗が滲む。
まさか、また……?
「……以上が、事の顛末です」
「…………」
リリーは目前の二人の顔を見回す。
一方は、遣いの者。フード付きのマントを被っており、うまく表情が読み取れない。
もう一方は、トモリ。彼女は、親指を噛みながら何やら考え込んでいるらしい。
暫くしんと静まり返る。
この静寂を最初に打ち破ったのは、リリーである。
「一度状況を整理しましょう。次代緑耳地域守護アル・フーシレア様は国境守護の任務中行方不明に。これで直系の跡継ぎはアーリン・フーシレア様一人。しかしアーリン様は自らを呪い、自らの記憶を失ってしまった。これは、何者かが陰謀を企んでいるとしか思えないと……」
「……遂に動き出したのかな」
小声で呟くとトモリは、親指を噛んだままじっと考え込む。
が、ふいに遣いの者に目を向けると、無表情のまま語り掛ける。
「うんとね……とりあえずそのフードはもう取って良いんじゃないかな」
「どういうことでしょう」
使者は彼女の圧をものともせずに淡々、粛々と聞き返す。
「ねえ、アスク。アレラから何か直々に言伝を預かっているんじゃないかな。そうでなければ独断行動かな。ここに半端な奴はいないから、まずは顔を見せてよ」
トモリは口角をぐいと上げると、目を見開きフードに隠れたその奥を覗き込む。
ここぞとばかりにその眼に力を籠める。
脅しである。
彼は、ゆっくりと左手を挙げるとフードの縁を握り締め、バサと無造作に脱ぐ。
柑橘色の綺麗な瞳がこちらを覗く。
その眼には、色がなかった。
「……よく私だってわかりましたね」
「わかるさ。君の雰囲気は他とは違って少し特殊だからね。……で、話はなんだい」
トモリが問いかけると同時に、アスクは強く眉をひそめる。
宝石のような眼は、キラと光を反射する。
「……アーリン様の、記憶は戻せますか」
「…………ふうん?」
トモリは右手で頬杖をつくと、目を細めながら彼の顔をまじまじと見つめる。
「彼女はいずれ緑耳地域を治める身。我が家もいよいよ正統な後継者が危ぶまれてきた中で、彼女の存在は非常に大きい。故に、アーリン様を助けてほしいのです」
アスクは極めて淡々と、無感情に、ただ眼には涙を溜めながら語る。
「うーん、私のことはいいかな。本音を言ってみな」
「……これは本音ですが」
「そうじゃなくて、個人的な方。アスクの気持ちだよ」
「……………………」
トモリは変わらずアスクを見つめる。
アスクは、耳が垂れたかと思えば地面に目を向け、俯き考え込んでしまう。
──ちょっと切り込みすぎただろうか。
もう少し段階を踏んで言葉を引き出した方がよかった気もする。
……お。
一瞬。
雰囲気が変わった。
アスクは、耳をピンと立てるとただ真っすぐにトモリを見つめる。
彼の瞳には、瞳の奥には、やはり光はなかった。
「私は、アーリン様をお慕いしています」
「ん?」
──慕ってる?………………
ああ、慕ってるのね。
咄嗟に顔に手を当てると、パシンと額を叩く。
こんな時に一瞬でもムムと思ってしまった自分を恥じたい。
「ごめん、続けて」
「……私には、兄弟がいません。親友も、今までできたことがありませんでした」
アスクはただ自らの左手を見つめながら、己に問いかけるかのように言葉を紡ぐ。
「きっと、私の言霊を怖がっていたのでしょう。あるいは、私に壁を感じていたのかもしれません。私は人を殺そうとは微塵も思ったことはないのに。人を小馬鹿になんてしないのに。なのに皆、私を等身大の友人とは思ってくれなかった。
……そんな私に。こんな僕に、アーリン様はずっと寄り添ってくれた」
左手をギュッと握り締めると、グッと眉を寄せる。
「彼女は、言霊を使えない。それなのに彼女は、私を言霊関係なしに一人間として見てくれたんです。本当に嬉しかった。
アル兄様は……もういらっしゃらない。アーリン様まで私の前からいなくなってしまえば、きっと私もいなくなってしまうだろうと、思う。だから」
もう一度トモリの眼を見つめると、一層強い声を発する。
「アーリン様を、私を。救ってください」
頬には一筋雫が零れる。
アスクは、自らの言葉を確かめるように。
アーリンへの想いを抱きしめるように、吐露する。
──自分本位で、人間臭い。
結局のところそういうことではある。
しかし、私はこれを嫌いじゃない。
そう思うと同時に、アスクを、ちょっとだけだけ羨ましく思った。
全く、私はつまらない人間になってしまったなぁ。
「……いいよ、やろうか」
「……っっんえ?本当、ですか?」
アスクは一度埋めた顔をバッと上げる。
顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「ああ、本当だよ。だから、アーリンを連れてきて」
そう言うと、トモリの左手は彼のマントの中を指差す。
「だからその手をしまっておくれ、怖いから」
アスクは、暫くトモリを見つめた後、口元だけ笑うとマントを上げて内側を見せる。右の手の平はトモリめがけて伸びていた。
言霊の予備動作である。
彼はその手を下げると、困った顔をして頭を下げる。
「……あなたにはすべてお見通しですね。無礼を働きました。罰は甘んじて」
「ほんと、君は未来が楽しみだよ。……いいよ、許すから早くアーリンを呼んで」
「承知しました。本当に、ありがとうございました」
そう言うとアスクは深く一礼すると即座に身を翻し、フードを被りながら瞬く間に領主室を後にしてしまった。
「さて、よく我慢したね、リリー」
トモリはニヤと引き攣り笑いながら後ろを振り返り、リリーを見る。彼女は終始トモリの後ろに控えていた。
「あら、わかっていたのですね、さすがトモリ様」
その声は、いつもよりも少し低い。彼の一連の行動を怒っているのだろう。
──怖いな。
「アスクは気づいてなかったようだね。リリーの言霊は繊細だからかな。私も流石に分かりづらかったし」
リリーは、終始腹の前で手を組んでいたものの指先だけは絶えず花瓶に向いていた。
「あらあら、トモリ様が褒めてくださるなんて、明日は天変地異ですかね」
ニコニコと笑いながら指を下げる。口元は全然笑っていない。
「冗談きついよ、リリーさん……。それで、どう思う?これ」
目を閉じると、少し俯く。
「難しいと考えるのが妥当でしょう。言霊は気まぐれですからね、特にあなたは。まあ、できるかできないかは、私よりもあなたがよくわかってるのでは?」
「まあね」
そう言うとトモリは左手の平に目を落とし、まじまじと見つめる。
「私としても、正直賭けかな。確かに私は普段ろくに言霊を使えないし、分が悪すぎる。たださ」
おもむろに左手を目の前に掲げると、人差し指を立てる。
たちまち指先にはまん丸の水が形作られていく。
「……?」
「記憶をなくしたのが言霊なら、戻すのも言霊だとは思わないかい」
リリーはハァとひとつため息をつく。
「それができればですがね。……それに、今はアル様の件こそ重大。これから、領内荒れますね」
顔を顰める。
「とりあえず、トモリ様。室内で言霊を使うなと言っているでしょう……?」
「……ごめん」
トモリは急いで窓から水を放った。
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