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我が物顔の研究局長を止めるものはいなくなった。迷路のようなSEDO本部内を迷うことなく突き進み、二箇所のエレベーターを使い分けて至った、十番島の最上層フロア。
趣が一変したこのフロアは周囲がガラス張りになっていて、海上での強い風雨を防ぐためなのか二重構造になっている。取り入れられる外光だけで充分なほどの開放的空間。しかもガラスの向こうは海が一望できる広大なデッキとなっていて、なんとヘリポートまで備わっていた。
室内は迎賓用の応接室といった趣の、現代的な調度品で飾られた空間だ。その一角を木製のオフィスデスクが占めており、ここが個人用の執務室にすぎないことを主張している。
ただ、部屋に足を踏み入れた途端、さすがに様子がおかしいことにおれも気づいた。
室内を充満する刺激臭――アルコールのにおいだ。デスクは散らかり放題で、並べられた酒瓶。ガラスを踏み砕いた音がして、床にグラスの破片が散らばっているのに気づく。
革張りのチェアに背を預けていた男が、退屈げに組まれていた拳を広げ来客達に歓迎の意思を表明する。もたげた顔は極度に疲弊しきったもので、常にビジネスライクを顔面に張り付け続けてきたあのおっさんとはとても思えなかった。
「――今日は……寄り道もせずに真っ直ぐ来たんだな、ニーナ。君がお客を連れてここに来るって聞いたものだから、たぶんこういうことになるんだろうなって覚悟を決めていたよ……」
部屋の主である烏丸國弘総帥は、いつ見ても沙夜の父親というにはあまりに若すぎる風貌の人物だった。彼の年齢が幾つくらいなのかもおれには興味がなかったけど、ここまで酒に溺れた姿に出くわすだなんて思ってなくて。
「タクト君もさあ……このひとがさんざん振り回してしまってすまなかったね。いや……最初そんな話じゃ順序がおかしい。そうじゃないんだ。さやさや、沙夜だ! うちの天使がっ! 大切な娘があんなことになって! ……あの子の最期を見届けた君の辛さ、わかってあげたかったなあ……。そうだ、この人との要件が片付いたあとで、落ち着いたら話をしようか」
こいつは沙夜や研究局長の立場上の支援者にすぎなくて、だから本来なら赤の他人のはずだ。そのくせ家族なんてものの形に異常にこだわってきた、おれにとって得体が知れない人物で。
「――ところで、ニーナ。手配させておいた沙夜の葬儀を取りやめさせたそうじゃないか。なんのつもりなんだい? そこまで冷たいひとだなんて、いくら僕でもさすがに幻滅したぞ」
なんて嘆かわしいという素振りで、酒臭い息を吐き散らす。
「単純に科学的見地から出た結論だよ。遺体が不完全だったあの子は、行方不明者の扱いにしかならないだろう、君がつくったマルクトルの法によればね。その矛盾点の解消が必要ならば、まず法整備を急ぐべきだ」
皮肉なのか正論のつもりなのか、冷淡すぎる口調で切り返す研究局長。この二人の会話に、あくまで部外者であるおれとラキエスが入り込む余地はない。
「……へっ、死を認めないなんて、何だか君らしくないなあ。自分の腹を痛めてなくても、そういう心理に浸れるものなのなんだな。全く煩わしいものだ、女って生き物は、さ」
暴言めいた國弘の台詞を聞いた途端、おれの体温が跳ね上がった。他人をいったい何だと思ってんだ。空虚な応酬を止めないこの男を今すぐにでも殴り飛ばしてやりたい気分だ。
「だいたい僕が何のために沙夜を引き取ったかわかっているかい? ニーナ、君にも人間らしく生きてほしかったからだ。可愛らしい家族ができれば、きっと誰だって変われる! ……その期待に応えられなかった君には、まあ……なんだ……がっかりしたよ、くそっ」
と、國弘のデスクに設置されていたモニターが、急に音を立てて倒れた。我に返ったおれが見たものは、そこ目がけてアイ・アームズを投げ付けたラキエスの姿だった。
「ねえタクト。このおじさん、
「ハハ……ずいぶんと理性に欠けた子だな。君のことも報告を受けているぞ竜姫君。我が家の
聞くもおぞましい言葉が、この男の口から飛びだしてきて。
「なにが跡取りだ。あんたがおれを引き取ったのは、世界境を開けられるおれがカネになるって思っただけだろうが」
初めてこれを口にしてしまった。こいつとはこれまでに何度も会ってきたけど、おれが消耗してまでぶつけるものなど何もない人間だったはずなのに。
「なるほど、いいね。初めて本心を語ってくれたって考えていいのかいタクト君? でもそれは思い過ごしだよ? SEDOが君にかけたお金なんて治療代だけだったろう? 何せ初めての事例だったから、ああいう症例にどんな医学的価値があるのかもわかんなくてさあ」
あんたのカネでおれ達が生まれて、あんたのカネでおれ達の今があることは否定しない。そんなものを呪っていたら、世界は呪いで溢れかえってしまうから。
だがそんなことはどうだっていい。悲劇の先におれ達は歩いていかなければならないんだ。
「ところで研究局長……本日のご用件は結局何だったんですかね? 僕はこのとおり、心を病んでしまった……もう立ち直れそうにないね…………うっ…………ぐ……沙夜は……もう……」
酒のせいなのか、遂には泣きだしてしまう國弘。
かたや、それまで言わせたい放題だった研究局長はため息をついてから、窓際のソファに横たわってしまった。
「ああ、もういいか。そろそろ私は疲れてしまってね。そういえば私も仕事続きで、徹夜明けだったのを考慮している暇がなかった。あとは君らで好き勝手にやっていてくれたまえ」
まるで自分だけ部外者みたいな台詞が返ってきて、拳銃もテーブルに横たえる。最初からこの人はこうするつもりだったのだと悟る。
「うっく……ニーナ、君の責任だってあるんだぞ! あんな危ないペンダントなんて与えたから沙夜が巻き添えになったんだ! あれは君が引き起こした人為的事故だ。ああ、今さらお母さんを責めたって戻ってこないんだよね沙夜……なら、悲劇の決着だけでもここで付けておかないと、空から見てくれている君にまた叱られてしまう……」
途端に外のガラス戸が開き、見覚えのある二人組が入ってきたのが同時だった。
「そうそう、もう紹介する必要はなかったかな? 異世界からの客人――セメタの聖堂魔術師ウルリカ・アッチェラム氏と、ええと――護衛の人って名前なかったんでしたっけ?」
吹き込む強風に揺らぐ紫銀の髪――それを頬に張りつかせて、あのアールビィが再びおれ達の前に立ち塞がった。
「このウルリカはね、ちょっと子どもじみた言い方をすれば、マルクトルの平和を守るヒーローなんだ。大人目線で言うなら、異世界転生者のバランス維持を担う役割の人ね。タクト君達保護局や保安局に任せられない危険な仕事なんて、実はマルクトルにたくさんあるんだよ。だからタクト君に聞かれてもどうしても言い出せなくてね……いやはや、本当にごめんよ」
聖堂魔術師ウルリカ・アッチェラム。そうか、アールビィっていう彼女の本名すら國弘は教えられなかったのか。
酒臭い國弘には近付こうともしない白装束のアールビィの前に、黒装束の妖精人形が立つ。あの神秘を纏ったドラゴンスレイヤーを床へと降ろし、鋼とぶつかり合った大理石が鈍い音を立てる。最初に見た時から寸分変わりない、雑念なく獲物を狩るための魔道人形。
おれとラキエスとは合わせ鏡みたいな彼女らに因果めいたものを嗅ぎ取る。インガライトとはよくもベタな命名をしてくれたものだと、他人事みたいにソファでくつろぐ命名者を呪った。
「タクト。ぼくは彼女に伝えたい」
傍らから囁きかけてきたラキエスに、そっと手を握られてしまう。烏丸國弘をどうこうすることがおれ達の目的じゃない。未来の鍵を握っているのはあくまでアールビィただ一人だ。
「これで最後の答え合わせができた。そのひとにあれこれさせてきたのが、マルクトルのボスであるあんただったんだな」
「こらこら。彼女はね、あの事故で瀕死だった君を助けだしてくれた命の恩人だったんじゃないの? 君も第一線で交渉士をやっているのなら、これは外交交渉の場みたいなものだ。レディ相手にマナーくらいちゃんとしてくれたまえ」
あくまで第三者のツラをする酔っぱらいのクズ。さんざん
「アールビィ。おれ達はあなたと敵対するつもりなんてない。だからおれ達は誰も傷つけないし、誰から傷つけられる覚えもない。その剣を置いて、この子の話を聞いてやってくれないか」
おれ達はあくまで冷静に、アールビィ・シャルトプリムに交渉に応じるよう促す。沙夜の一件を水に流す気なんてないけれど、彼女が沙夜を奪った元凶とまではおれも決めつけたくない。
「あの公園での夜、あなたが言ってたの、ちゃんと聞こえてたぞ。愛らしく無垢な子どものまま終えるべきだった――この子に対して、確かに言った」
だが、その気がないのが明らかな視線を逸らすと、アールビィはこっちに背を見せてしまう。
「……私には関心がないことです。タクト君が気にかけることでもありません。総帥殿も、私をこのような場に呼びつけておいて、彼らをどうしろとおっしゃる?」
などと煩わしげに髪を手櫛ですくアールビィ。意外なことに國弘の方は、おれとの対話に応じるよう黙って顎で促す。
ラキエスがおれの前に出てきて、アールビィに向き合う。肩が震えて見える彼女は、決して妖精人形に怯えているわけじゃない。
「聖堂で暮らしてたころ、ある人にこう教えられたの。このまま死を選ぶくらいなら冥界の門を渡れ。そこでぼくの母親の…………アールビィ・シャルトプリムを見つけろ、って」
勇気を振り絞って、そう声で伝えたラキエス。これまでの不敵で強がりばかりだったこの子にはできなかった、とても落ちついて、相手に答えを促すような言葉選び。
アールビィは応えない。妖精人形に背を任せたままラキエスには向き合わず、ガラスの向こうに拡がる海原と空をただ見すえている。
「あなたに秘密の名前を伝え、かけられた魔法を解いてもらえるようお願いしなさい。そう言われたの。その日からぼくはラキエスになった。アールビィ、あなたにはそれができるの?」
この子が全てをかなぐり捨ててでも叶えたい願いだからなのだろう。今にも泣き出しそうな気持ち――それは死への恐れなのか、死を望む祖国への怒りなのか、それとも母親への渇望なのかはわからないけれど、すがるような声が自分を殺そうとしたアールビィに向けられる。
けれどもアールビィには、ラキエスと向き合う意思がない。すぐに妖精人形をけしかけようとしない彼女は、あの夜と同じではないはずなのに。
「ほらほら、娘さんにかけられた魔法を解いてはあげないのかね、ウルリカ。おっと、本名はアールビィっていうんだっけ? ううん、君の素性なんて探るつもりはないんだけどね――」
「――
軽口で促す國弘が言い終える前に、突然怒気を帯びた声でアールビィが切り捨てる。ラキエスにではなく國弘に突きつけられる、射抜くような眼光。たとえ望まない再会だとしても、ここまで娘に拒絶反応を見せるものなのか?
ところが國弘は怯みもせず、演説めいた口調を止める気がない。
「僕は心配性なんだ。できる限りの危険要因は取りのぞいておきたい。そこの竜姫――ラキエスって名乗っているんだっけ? あと何日か経ったら、この世界を傾けてしまうくらい危険な生物なんでしょ? ただでさえ昨夜の暴動騒ぎで、僕の大切な島が国際社会から注目を浴びてしまったんだ。いよいよ他国介入の口実ができちゃわないか僕も心配で心配でさ」
國弘がさも他愛のないことのように言及したラキエスに、強烈な違和感を覚えて。
「この子が、なにを傾けるって? ……あんた、いきなりなに言ってんだ」
ラキエスがオーバーロード級認定されているからって、いくらなんでも世界を傾けるほどだなんて飛躍しすぎだ。それどころか十五から先の未来にたどり着くことですら必死なのに。
息を飲む音が聞こえたのが同時で、だから彼女だって同じ気持ちなんだってわかって。
「マルクトルとしては、ことを穏便に済ませたい。つまり君達にはもう、殺し合いでの解決は止めていただきたい。僕個人としては、ラキエスの医学的・生物学的価値にも関心があってね」
何の話だ。価値がどうとか、こいつはいったいラキエスの何について――。
「だから
狂喜めいた表情で天を仰ぐ國弘。ラキエスの震えが指先から伝わってきて、縋るような目がおれに向けられる。結び合った手のひらに力をこめて、引き離されそうなそれをつなぎ止める。
「……待てよ、いろいろ辻褄が……合わねえだろ。ラキエスを駆除? 解放? 何を言ってんだ。母親だとか、娘だとか……サンプルとか何の話だ? 娘は救う? だからラキエスを救ってくれって言ってんだよ! 勝手に何のハナシ進めてんだよ、あんたらはっ」
そうぶちまけるだけで精いっぱいだ。思考が追いつかない。彼らは別次元の話をしている。
「あれれ……しまったな、僕ってばウッカリ口を滑らせちゃったかなあ。ひょっとしてタクト君、交渉士の君なら適切に情報収集できていたのかなって思ってたけど、実は何も知らなかったのかい? 辻褄ならちゃんと合っているんだけど――」
「おやめください総帥殿。これ以上彼に余計なことを知らせると貴方の――」
「――つまり〈ラキエス〉というのはね――タクト君の隣の子のお腹にいる、竜の幼生の名前なんだって」
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