i6 家族について

i6-1

 明かりを落とした医務室で、ただ黙ってじっとしていることしかおれにはできなかった。

 あれからどれほどの時間が経ったろうか。夜はまだ明けていない。例の暴動もようやく収束に向かい始めただけ。

 けれども、事態を変える可能性を――未来をおれは掴み取り損ねた。

 沙夜が死んだ。

 沙夜のペンダントが誘発したのは、あまりに不完全な世界境だ。あの窮地におれ達もラキエスも命拾いできたのは、突然開いた世界境のおかげだったことを否定できない。

 だが、そんなの結果でしかない。あとに残されていたのは、満身創痍のおれ達と、姿を消したアールビィと妖精人形……そして、沙夜の――半分だけ残った、あいつだったものの残骸。

 眠るくらいなら吐いた方がマシだった。いま眠ればきっと、おれの気持ちを無視してまたあの夢を見る。まだ小さかったラキエスの意識を通した、セメタの夢を見てしまうから。

 暗がりの床に、明かりの筋が開いた。闇に傷口を広げるように現れたのはラキエスだ。

 交わす言葉はない。何度も躊躇う呼吸音だけが、空調すら止まった室内でやけに耳障りに響いてくる。自分のだってそうだ。おれ達はまだここで、こうして息を吸っている。

 ぺたぺたとした裸足が近付いて、衣擦れの音が聞こえる。

 医務室の床でふさぎ込んでいたおれ。視線の先までたどり着いたあの子の青白い脛が、ささやかな月明かりを浴びて浮き彫りになる。

 もう声すら出し方がわからなくて、喉をみっともなく震わせることしかできなくて。


「――キミの痛みをもらいにきたよ。今度はぼくがキミの支えになる」


 かすれる喉でそう訴えてくるラキエス。このまま顔を上げる勇気が今のおれにはない。


「……どうにもなんねえよ。心が痛いとかじゃないんだ、沙夜はもういないって現実だけなんだ。過ぎちまった過去を、おれにはどうでもできねえ。おれはただの人間だから、この気持ちの乗り越え方すら全然わかんねえ」


 絶望なんてしている暇はない。死んだ人間は帰ってこない。哀れな主人公という居心地のいいムードに浸って、明日の自分を放棄するほどおれは子どもじゃない。けれども、今はどんな雑念からも自分を守り抜かないと、一瞬で駄目になるってわかっているから。


「なのにラキエスにそんなこと言われちまったら……自分が保てなくなっちまう」


 返事の代わりに、ぺたん、とラキエスがしゃがみ込んできた。


「…………いいんだよ、タクトは。自分が保てなくても、ぼくがぜんぶ受け止めたげる」


 視界に飛び込んできた一糸まとわぬ姿。目を逸らす余裕もなく、その余裕すらも一瞬で消し飛ぶほどのものをおれは見ていた。

 いつだったかの夜、かけられた呪いの秘密――〈竜の瞳〉を見せてくれたラキエス。

 でも、それが変化しているのをおれは初めて知った。


「…………なんでそんな拡がってんだよ……それ………………!?」


 彼女が拒絶しないからか、おれは目を奪われていた。

 乳房の下に刻まれた〈竜の瞳〉――鼓動を打つ心臓を封じようとするかのように描かれた呪術的紋様。その紋様が以前見たものとは比べものにならない規模に拡がり、まるで肉体を蝕む癌か何かみたいに、今や二の腕や鼠径部のあたりまで伝播していた。


「ぼくの溜めこんだ罪のせいなのかもって、ここまでなっちゃったら思うよね。もうおしまいが近いのかなって、こんなの見たら……やっぱもう無理なのかなって、ちょっとはね」


 かけてやる言葉をそんな簡単に見つけられるものか。頭の中を二つの命の最期がぐるぐると巡って、でもみっともなく喉を震わせることしかできなくて。


「でもね、ぼくのことはもういいんだ。きっとこんなぼく達だから、なるようになるもん。でもキミはそうじゃない――――――今のキミはぜったい見すごせない」


 両手のひらがおれの頬に触れて――そのままそっと抱き寄せられてしまった。

 何も考えられなくなる。ただラキエスの体温と、冷えきった汗のにおいがした。過ぎ去っていく時間のことだけ考える。皮膚越しに心臓の音が聞こえてくる。リズムの乱れたこの鼓動は、この子のもう一つの心臓がこの子を奪おうとしている音に聞こえた。そうさせたくない気持ちなんてまだ燻っているのに、この子に身を委ねてしまったおれは何なのだろう。

 他人の温もりが目の前の現実を変えることなんてない。不思議と救われた気分にさせてもらえるだけ。それもほんの一瞬の快楽で、それに身を委ねる自分すらも許せない気持ちになる。

 どうして無関係の沙夜が死ななければならなかったのか、答えを求めることすら虚しかった。あいつはおれを救おうとした。あいつがおれ達を守ろうとした先の未来に、まだおれ達はいる。


「この夜が明けたらキミは今までどおりだよ。キミはだいじょうぶ。つらいことも、いやなことも………………ぜんぶぼくが連れていくから――」


 ぼくが連れていく――そう彼女が言ったように聞こえて、おれはふと思い出す。忘れていたのかも、この子がおれに言った言葉だったのかも曖昧だけど、いつだったかこんな話をしてくれたんじゃなかったか。〝ぼくにあらかじめ定められた最期は、溜めこんで、ため込んで、お腹の中で今にも破裂しそうになったぼくの罪をあがなうためのもの〟だって。

 そんな場所にきみを連れて行かせるもんか――そう口にすることもできなかった。二度目の大きな嘘を口にできるほど、今のおれは強くなかったから。

 せめておれを胸に抱くラキエスの腰に手を回して、ひんやりとしていたそれに熱を伝える。慰められていたおれに、相手を慰める暖かさなんてない。沙夜すら守れなかったおれにその資格がない。でも、こうしてやることくらいならできる。

 時計の明滅するセグメントが、時間だけはおれ達を置いていくのだと訴え続けている。


「……ぜんぶ、ぜんぶぼくが連れていくから。だから、キミはだいじょうぶだよ」


 おれにどれほど強い言葉を使えたとしても、沙夜を取り戻すことはできない。

 でも、明日はおれ達なんて気にもかけずに続いていく。自分の足で立って、追いかけるんだ。

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