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バスルームの使い方だとか、女子特有の寮での身の回りのことだとかを女性陣からラキエスに手ほどきしてもらった。そのあたり、男子のおれには無理だったから。
それからもあれこれ片付けることがあって、息抜きにアイ・ドローンのチューニングなんかもしていたものだから、気付けばもう日没で、あっという間に太陽が地平線に沈んでしまった。
女子寮の外に出て、夜風を浴びながら静まる海をラキエスと眺める。それも公園の展望台どころか、ただの整備員用階段が取りつけられているだけのムードも何もない場所で、ただここだけ安全柵が設置されていないせいでちょっとしたスリルなら味わえる。
甲板の断崖に腰掛けたラキエスの隣に腰を下ろす。海面からかなりの高さなのに恐怖心がないらしく、脚をぷらぷらとさせる彼女は相変わらず楽しげだ。
おれ達が向き合う光景は、月が隠れた夜の海。波音が聞こえるだけの濃密な闇でしかない。ただ前方にそびえる相転移炉が、この時間帯だと夜光虫みたいな燐光を放っていて幻想的だ。海上に浮かぶ浮標や灯台が、煌びやかな星模様の下にささやかな夜景をつくり出している。
さすがに今日一日でここに適応するのに疲れたのだろう、ラキエスの口数が減っていた。
「ぼく、海って夢の中でしか視たことないけど、本物の海ってヘンなにおいなんだね。でもヘンって言えばキミの国もそう。陸地に住めばいいのにさ、どうしてこんな底なしの水の上に住もうって考えたのかすごい不思議」
それはこの子が抱いた素朴な疑問が、ふと口を付いただけなのだろう。
「この世界の人間はさ、あの相転移炉を陸の上で動かすのが、たぶん、まだ怖いんだよ。だからこんな孤島をつくって、隔離して、おっかなびっくりそいつを試してる」
「あれも何度か夢に出てきたことあったなあ。なんか大っきな宝石みたい」
「ラキエスにはそう見えんのか? おれにはあいつが、でっかい怪獣の卵みたいに見えるな」
「……カイジュウってナニ?」
「ああ、怪獣ってのは、ドラゴンみたいなやつのことな。ラキエスだって
「さすがに竜だけはぼくも視たことないや。でもセメタの聖堂にはね、神話の竜の魂が閉じこめられてるって旧い言い伝えがあって。竜姫に未来が視えるのは、その竜が力を貸してくれているおかげなんだって。……あの大っきな卵から、竜の子が生まれてくるの?」
「いいや? さすがに卵は孵らねえけど、代わりに異世界からラキエスみたいな珍客が迷いこんで来る。だったら、きっといつか本物のドラゴンだって出てくんのかもな」
そんな言いっぷりがおかしく聞こえたのか、この異世界人の少女はクスクスと喉を鳴らした。
本当、この子はどうしてこんなにも〝普通〟なんだろう。
「明日の朝さ、また迎えに来るよ。おれ達、いよいよ交渉現場の本番だかんな。今日は早めにシャワーでも浴びて寝るといい」
風に舞う髪の毛に汗の香を感じてしまって、こんな些細なことにも、隣にいるこの子が同じ世界にちゃんと生きていて、身近な存在なんだって思い知らされる。
おやすみを言うのがまだ照れくさかったのかもしれない。吹き止まない海風のドサクサに、聞いてみたかったことが口をついていた。
「……そういえばラキエスはこれからどうするつもりなんだ? また妖精人形やほかの刺客がきみを狙ってきても、力を貸してくれるんならおれが追い返してやるけど」
握りこぶしまでつくってアピールしてしまったけど、この話題に触れるタイミングを早まったかもって思った。でも絶対に切実な意思確認だから。
なのに彼女は特に答えてくれなくて、沈黙を打ち消す波音がこのまま永遠に続くかのようで。
この子の抱える事情には、なるべく触れないできた。ラキエスについての追及を急いたところで、保護局がしてやれることは少ない。とりあえずは、食って寝る生活を保障することと、刺客から守ってやること。それ以外は、時間をかけて解き明かしていくべきだろう。
だから今は寄り添い、この世界では孤独なこの子の味方であるべきだ。
「…………前に言ったこと覚えてる? タクトをずっと前から知ってた。夢の中のキミはぼくのヒーローだった、って話」
潮風の凪ぎにそう切り出してきたラキエス。組んだ膝に頬を埋め、上目づかいでおれに微笑んでくれる。明滅する灯台が、波に似たリズムで彼女の白磁みたいに青白い顔を照らし出す。
ぶっきらぼうに頷くしかできない。でもこんなドキリとさせられる言葉を肩が触れそうな距離で聞かされては、突っ走らないようにしてきた気持ちがどんどん曖昧に誤魔化されてしまう。
なのにそれは突然のことだった。急に衣擦れの音がしてビックリしたおれに、ラキエスははにかみながらジャージのファスナーを下げて、少しずつ上体をさらけ出していったんだ。
この子の泣き出しそうな顔なら何度か見てきたけれど、そのどれとも違う涙を堪えた笑顔。
茫然と固まるおれの前で、ジャージ下のタンクトップをお腹まで一気にずり下げてしまう。
視界に飛び込んできた、病的なまでに真っ白な肌。けれどもおれには目を逸らす余裕もなく、その余裕すらも消し飛ぶほどのものを見せつけられていた。
いま目のあたりにしているラキエスの裸体は、一瞬でもセクシュアルな気分に届かなかった。ふくよかに双丘を描く乳房に意識を奪われそうになっても、直後にそのすぐ下側――あばら骨から腹部のあたりが赤黒い痣のような模様で覆われているのを見せつけられれば――――。
「…………なんだよ……それ………………!?」
彼女がそう望んでいるのがわかって、おれもすぐに目を逸らすことはしなかった。
まるで乳房もろともに心臓を握りしめるかのように膨れたその部分が、
「これはね、〈竜の瞳〉なんだって。こんなのと一緒に生まれてくるのがぼく達。これが未来を視る聖堂の巫女――竜姫の正体」
竜の瞳なんて呼んだそれを、恐る恐るの手つきで撫でるラキエス。この子の白すぎる肌に、まるで人血で描いたかのようなグロテスクさ。それに紋様自体が鼓動に合わせて蠢いていて、時を刻む秒針みたいに刻々と有り様を変えている。こういう医学的な疾病というよりは、魔法のような力が働いているのが明らかだ。
でも、これはダメだ。我に返らなきゃって理性が訴えた気がして、咄嗟に上着を押しつけてからようやく目を逸らす。
「……困らせてごめんね。キミにはずっとナイショにしとくつもりだった。なんで気が変わっちゃったんだろ。悲劇のヒロインぶりたい気持ちなんか、ぼくにもまだ残ってたんだなあ」
そんな明るい口調で誤魔化せる体じゃなかったはずだ。でも、いま見せつけられたものの意味が、とてもおれには飲みこめそうになくて。
こっちを察してか、ラキエスはジャージを羽織ってはくれたけれど、とても正視できなくて。まだ落ちついて向き合えないラキエスとは、肩を並べて同じ海を見るしかなくて。
「――〈因果確定〉。キミの推測は当たり。
「なることは、ない、って…………は? ………………え、そんな………………ラキエスは」
大人に、なれない? 十五年? 前の子と、何が入れ替わるんだ。
「ぼくのお役目は十五の誕生日まで。残り一か月くらいかな。そのあとは、この竜の瞳が次の子に引き継がれるんだって」
ラキエス・シャルトプリムは、大人になれない。感情の整理なんかつかない間に、理解だけが追いついて。思考が無茶苦茶に混線したせいで、ちっとも呂律が回らない。
「ぼくのはじめた枢機卿院との戦争は、一か月のタイムリミットってワケ。これはヴラッドアリスですら覆えせない絶対確定因果。悔しいけど、こーいうズルはNGみたい。これもあの真祖がぼくに望んだ、
「なんでさ。なんでそんな――そんなさ…………ラキエスが大人になれねえとか、生まれつきだとか……そんな意味不明なルールあんだよっ!」
誰の何に憤りを感じてるのかもわからなくて、闇のような海に吐きだすことしかできなくて。
「わかんない。でも怒ってくれてありがと。あなたは他の子ども達とは違う特別なんだよ、大切なお役目なんだから受け入れなさい――って教えられて、ずっと聖堂の中で育ってきたの。小さいころは、そういうものかなって納得してたんだけど――ぼくは未来を視て外の世界のこと知ったから、そしたらぼくだけ大人にならないのヘンだなって、そのうち気付くじゃん?」
なんてことだ、この子がほのめかした〝役目〟が終わることは、紛れもない死だ。どうして最初から悲劇の選択肢しかないんだって、耐え難い怒りと恐怖心とで心が掻き乱される。
「十五歳までのお役目なのは、たぶんね……竜姫が成長して、子ども以上の知恵を付けるのがみんな怖かったんじゃないかな。だって、ぼくですらこの通り、竜姫の力を悪用して枢機卿院に歯向かおうとしてるんだもん。だから竜姫は最初から大人になれなくして、枢機卿院に従順な次の子にバトンタッチすればセメタは永遠に存続できる。竜を食べて不老不死になった少女だなんてさ、超勝手な伝説にしてくれたもんだよ」
自嘲気味にそう零したラキエスの肩を掴んでいた。
手のひらに伝わってくる体温。これを失うなんて嘘だろう? 項垂れる顔を上げさせ、おれの目を見ろと促す。こうして震えまで伝わってくるのは、自分の役割に納得なんかしてないからじゃないのか。
「だからって、どうしてラキエスがそんなもの背負わなきゃなんねえんだよ」
「背負ってやるもんか、そんなふざけた因果。ぼくはまだぜんぜん諦めてないから」
力強い決意を聞かせてくれたラキエスが、今の言葉は嘘じゃないって白い牙を見せて微笑んでくれた。でも、その笑顔はどこか諦めを含んだ、寂しげなものに見えてしまった。
それを悟られたのか、目線が離れ、おれ達を浮かべる濃紺の海原へと移ってしまう。
「竜姫に視える未来には限界があるの。竜姫が生まれる前にきっかけがある未来だけはダメ。どうしてぼく自身の最期が視えないのかってずっと不思議だったんだけど、竜姫を手懐けたいならやっぱ最初から細工してるよね。枢機卿院がぼくに竜の瞳なんて
「でも、解決策があるんだよな? そいつを体から取りのぞいたりとか、そういうのが」
あの日の接近遭遇を振り返ってみれば、この子は期待を胸に現世界へとやって来たはずだ。だからおれも先走らずに、もっとちゃんと話に耳を傾けてやるべきなんじゃないのか。
「ぼくは諦めなかった。ぼくにこんな
泣きそうなのに泣けない――そんな切なげな目つきで、半分だけ聞き覚えのある名前を教えてくれた。
「ぼくには母親の記憶がない。ぼくを生んで、ぼくに呪いをかけて、そしてすぐに冥界の門を渡ったから。彼女がぼくの夢に現れないようにするためだよ。枢機卿院の命令なのか、本人の意思なのかはわかんないけど。どちらにしても、ぼくの手の届かない場所に母親を引き離した」
何の罪もないのに、生まれながらに課せられた呪い。その鍵を握っているのが母親だなんて。
この子におれは何をしてやれるんだろう。呪いなんていうのなら、沙夜に課せられた呪いですらおれに背負うには重すぎるっていうのに。
でも、おれはラキエスの剣にならきっとなれる。だとしても、何と戦えば呪いを断ち切ることができるのか。
おれが何も言えなかったせいか、ラキエスがこっちにお尻を寄せ、トンと肩を当ててきて。
「ふふん…………そこでキミ――藤見タクトと繋がるわけ」
おれの何と繋がるのか、と馬鹿みたいに口を開けてしまった。
でもそこまでおれは馬鹿じゃない。開いた口を閉じる間に、まだ教えてくれないラキエスの意図が脳裏で繋がって、思わず息をのんでしまう。
「竜姫を選出するのはルメス族から、十五年に一人だけ。ルメスはみんなぼくと同じ紫の髪の毛なの。十年前にキミを助けてくれたルメスの女、ちゃんと覚えてるよね?」
そして、まるで全身に電撃が走ったみたいな勢いで、茫然とおれは立ち上がっていた。
「出来すぎの偶然ってワケじゃないよな。あのひと、ラキエスの母さん……だったのか……」
それを母親と呼ぶにはあまりに若すぎた、追憶の中でおれを運ぶ〝あのひと〟の面影。
確かに同じ淡紫銀の髪色をしていたけれど、数奇なる因果が二人を引き裂いた結果だ。そして引き合わされたおれ達がこうして肩を並べている。
だから出来すぎの偶然じゃない、だってこれは――
「キミとぼくのあの劇的な出会いは必然だって言ったじゃん。会ったこともない、住む世界も違うキミを知ったきっかけはね、ぼくがアールビィを探したからなんだよ。たとえ過去を視ることができなくても、必死にたくさんの未来を視て、捜して、探して、さがして――そしてようやくたどり着いたのがアールビィが救ったキミ。唯一の手がかりで、可能性で、ぼくを救う鍵で、ぼくが大人になるために必要なパートナーこそがキミなんだ!」
心の奥底からおれを奮い立たせる声。この絶望を覆す鍵がここにある。心臓が煩いくらいに高鳴って、おれを期待のまなざしで見上げてくるラキエスに、ちょっと目眩がしてしまって。
肯定代わりに、短い吐息だけ返す。腰が砕けた気分で、もう一度隣に尻を落とす。すると肩に熱と柔らかい重み。彼女からしな垂れかかってきた。
「心配しないでタクト。その人にたどり着けば、ぼくはちゃんと大人になれる。それが、ぼくがこの世界に来た目的。キミと出会った意味。ぼくが果たしたい願い。ぜんぶがキミにある」
希望という言葉を、今ほど強く感じたことはない。そいつを失いかけたあの五歳の夜、希望なんてものを掴み損ねたからおれはあのひとに救われたんだ。
でも、今度は違う。いつの間にか雲が晴れて、月が顔をのぞかせていた。月光を受けきらめく彼女の瞳が、その希望ってやつをちゃんと追い続けてるんだってわかって。
「だからね、ちゃんとぼくを助けてよ、タクト。きみの命はこのおれが守ってやる、ここは第二のラキエスの故郷にしてやる――そう言ってくれたもんね?」
何も言葉が出てこなくなるくらいの、満月みたいに眩しい笑顔だった。
悪魔がまんまとおれをそそのかそうとしている? そんなのとっくにそうなってるし、この子は悪魔なんかじゃない。
「――わあ! あれ、船じゃない? 大っきいし、なんかすっごいキラキラしてる!」
腰掛けたまま脚を伸ばして、相転移炉の遠景に映る貨物船の明かりを指さすラキエス。ぼー、と唸る汽笛信号にビックリしたりして、ただ外の世界を知らないだけのこの子を、子どもみたいな好奇心の塊にしている。
「へへ……なんだか話しすぎ。疲れちった。でも最後にもひとつお願い。今ココでできること」
寄せ合った肩越しに、ラキエスと目が合って。何か言いかけたおれの唇を、人差し指で塞いできた。雲間から覗く月明かりが、わずかに潤む紅い瞳を浮き彫りにしている。
そのゾッとさせられる色彩に、冷静さを取り戻したおれ。
ヴラッドアリスで竜姫の、ラキエス・シャルトプリム。悪魔に魂を売ってまで生き延びようと足掻いて、失うはずの未来を掴み取ろうとしている。誰も知らない絶望を天真爛漫な外面で覆い隠して、その深い奥底をおれなんかが覗いていいのかなんてわからない。
おれの傍には、物心つく前から烏丸沙夜という不可解な存在がチラ付いていた。だから自然と誰かを好きになるなんて感情とは無縁で――考える機会すらないまま育ってきた。
あの恋愛とかいうやつは、遠い物語の中での出来事だって。
なら、こんなおれがそういう物語を築き上げるには、一体どれほどの時間の積み重ねが必要で、どれほど他人の気持ちを振り払えば叶うのだろう。
そんなよくわからない感情が、二人だけの夜を巡り巡っているのだけは肌で感じていた。
もうたまらなくなって、とにかく気まずくて逸らしてしまった視線。それが、逆に肯定の合図だと思わせてしまったのだとしたら。
「ヴラッドアリスがヴラッドアリスであり続けるために、ぼくがぼくとキミとの劇的な物語を形づくるために、絆騎士であるキミの血が必要なんだよ」
差し伸ばされた指先が、ひんやりと頬に触れてくる。
「――わかりやすく言っちゃえば、充電。だからさ、またもらっていいかな、キミの一部を」
ぐいと引かれる顎。鼻息がおれを撫でる。血の色の瞳は、前みたいにおれの意思までは奪おうとせずに、ただおれからそうしてほしいんだって訴えかけてくる。
「わざわざこうしないと駄目なのかよ。こういうのってさ、もっと特別な相手と――」
「――特別だって、さっきキミに伝えたげたばっかじゃん。ぼくのヒーローだもの、全因果最愛の恋人なんだもの、すっごく特別。あの時のぼく達は、特別な始まりを迎えたの」
「だとしてもさ、血なんてただの体液だろ。血なら、どこのだって、誰のだって――」
「ううん、キミのじゃないと駄目。キミにこの牙を立てて、口移しでじゃないと、ぼく達の絆の物語は激しくときめかない。ぼく達ふたりが戦い抜くために必要な絆って、そういう劇的なやつなんだよ」
おれと向き合う甘い表情は、どこか苦しげな声色で上塗りされて。これはこの子が生きるための儀式で、好意とかそういう感情を超えたところにあるんだって伝わってきた気がして。
そうしたらもう、抵抗する気力ごと彼女の熱が覆い隠してしまう。
最初は、唇同士が遠慮がちに触れ合うだけのもので。互いの目蓋が閉じたその果てに、舌の上に鉄の味が滲んで、それを他人の舌が乱暴に嘗め取っていく感触にただ耐える。
現実感が酩酊して、気が遠くなっていく。
やけに近い波音だけがただ、生々しいふたりの吐息を掻き消し続けていた。
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