8月15日の午後12時半くらいのこと
天気がいい。
十年ほど前に、或る界隈で大人気を博した「カゲロウプロジェクト」を代表する楽曲「カゲロウデイズ」の歌い出しである。
今から丁度十年前、私は中学二年生だった。
その年初めて同じクラスになった友人(彼とは小学生の頃に近所のスイミングスクールで知り合い、既に友人関係ではあった)から教えて貰い、初めてそれに触れたことをぼんやりと覚えている。
当時まだスマホも買って貰っていなかった私は、CDを持っていた彼から借りて家のパソコンに取り込み、唯一持っていた文明の利器たるiPodに入れて聴きまくったものである。
以来、毎年夏が来ると、あのフレーズや衝撃の歌詞達が頭から離れないほど染み付いている。
当時は何しろ厨二病真っ盛り。私の厨二病時代の半分はカゲプロで構成されていたと言っても過言ではあるまい。
一方で、今はもう大人である。普通に、ではないにせよ就職し、一社会人として生活を送っている。もしかしたら、初めて聞いたのが今だったらあの頃ほど夢中にはならなかったかもしれない。或いは当時からの厨二病妄想設定を殺さずに小説にし続けている今でもがっつり刺さるかもしれないが。
今では自分しか友人のいない私だが、こんな私にも「夏の思い出」というものがある。あの頃はまだ友達と言える人が何人もいて、一緒になって遊んでいたものだ。秘密基地に集まって、特別何をするわけでもない。それでも楽しかった日々が私にもあった。
思い返せば、私のこれまでの僅か二十余年の人生の絶頂期とは、中学生の頃だった。流石に秘密基地を作ってわいわいしていたのは小学生までだったが、そうしなくなった中学時代はもっと友達が増えて、行動範囲も広がり、皆で何処かへ遊びに行くなんてことはしょっちゅうだった。
学生から社会人に立場が変わると、一ヶ月近い夏休みなんてものは基本的に無くなる。まだ二年前の夏は学生だった私にとって、仕事にも慣れてきて心に余裕が出来るようになった今年の夏は、あの頃を懐かしむ夏となってしまった。我が人生の最も輝かしき時を。
時の流れは残酷だ。少年は大人になってしまった。「少年少女前を向け」と言われていた私達が、いつの間にか言う側の立場になってしまった。
あの頃の私が聞いたらきっと喜ぶだろう。大人への漠然とした憧れを持っていたあの頃の私なら。
けれど、大人になることは簡単だ。正確には、社会的に大人とされる状態になることは至極簡単だ。ただ時が過ぎるままにしていればいい。そうすれば自然に子供として見てもらえることはなくなり、大人として扱われる。
それが今の私だ。
だから私は自問する。お前が憧れていた大人の姿とは果たしてコレだったか、と。
夢を叶えられず、さりとて開き直ることも吹っ切れることも出来ず、無駄に高い自尊心と低過ぎる自己肯定感のためにメンタルをボロボロにし、こんなはずじゃないと喚きながらその日暮らしをするのがお前の憧れだったのか。
当然、憧れは憧れである。現実とは違う。
私は前を向かなかった。常に後ろと下を見ていた。過去にとらわれ、未来を直視せず、自分より下の者を見て安心していた。その直視することを避けていた未来が現在になってようやく、憧れているだけの無意味さと「待て、しかして希望せよ」の真意を悟った愚か者だ。
光陰矢の如し。時は既に遅し。待っていた機会は最早逸した。全てが手遅れになってから気が付くようでは遅すぎる。
新しい時代を作るのは老人ではない、とクワトロ・バジーナは言った。ならばこれからの世界を作る少年少女達にこそ、前を向いてもらわなければなるまい。私と同じ失敗をしてはならない。
私は畢竟二十余年しか生きていない小僧乃至小娘だが、心根が最早老人のそれである。最期の安らかなる希望を待っているだけの生きる屍でしかない。こうして反省を綴っていながらも、相変わらず過去に囚われ続けている亡霊だ。なんなら老人よりたちが悪い。
だからこそ、私のような半端者になって欲しくはない。こんな奴は私一人で十分だ。
明るい未来を目指して突き進んで欲しい。暗い現実から目を背けず、それを打破する道を探して欲しい。過去の栄光に縋って自尊心を保つような、惨めな生き方はしないで欲しい。
そのために、ただ祈るような気持ちで私は叫ぶ。
少年少女、前を向け!
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