Education never ends
私は小学生の頃から、或いはその前から、よく本を読む子供だった。
そんな私に両親は色んな本を買い与えてくれた。大抵は児童向けに編纂された文学作品集だったのだが、その中にポプラポケット文庫の『赤毛連盟』があった。一応児童向けだと思うのだが、恐らく高学年向けで内容の改変もなく、子供っぽい表現もなかったと記憶している。かなり原典に忠実な挿絵がついていたおかげで、私のホームズのイメージはよくある鹿打ち帽とインバネスコートではなく、フロックコートにトップハットという姿だった。
他のどんな本より夢中で読んだ。頭脳明晰で観察力に優れ、どんな謎もたちまち解決する彼の姿に魅了された。そして現在に至るまで、シャーロキアンと自称するに足るだろう愛を注いできた。
私の小説は実際、今とはだいぶ内容の違う『裏面世界』から始まった。
残念ながら推理小説を書く頭はないので、そういう要素をなんとなく入れた、魔術メインの小説になっているのだが、それでも一応はホームズ・パスティーシュのつもりである。
そんなホームズ推しのくせに座右の銘は『モンテ・クリスト伯』から引用しやがった私だが、ホームズの言葉の中にも、私にとって座右の銘に近いポジションのものがいくつかある。その一つがこの話のタイトルにした“Education never ends”である。訳せば「勉強は決して終わらない」だ。短編集『最後の挨拶』に収録された短編「赤い輪」の中で、その事件に関わることで何か有益なことがあるのかとワトソン博士に尋ねられたホームズが答えるやり取りの中で発せられた言葉である。
我々は「勉強」という言葉を聞くと、どうしても学生のやることという印象がある。だからこそ生涯学習なんて言葉が生まれるのだと思うが、一方でその言葉が示す通り、学習・勉強は学生の専売特許ではない。
堅苦しく考えすぎてはいけない。何だっていいのだ。趣味のことでも構わない。好きなことに関する知識を蓄えることだって学習だろう。ホームズとて、彼は確かにそれを仕事とはしているが、かなり趣味性の高いものだ。
知識を蓄えるだけが学習ではない。
私は学芸員の資格を持っていて、博物館で働くことを夢見ていた時期がある。博物館や美術館、総じてミュージアムというものは、根本的には生涯学習施設だ。それもまあ、多分に堅苦しい部類の。
しかし、来場者の内、どれだけの人が何かを学習しようと思って来場しているだろうか。何か目玉となる展示が見たいとか、珍しいものを見たいとか、誰某の絵が見たいとか、そういうのが殆どだろう。
だが、それでいいのだ。何かを学び取ろうと思っていなくても、博物館に行こう、美術館に行こうという姿勢がもう学習への参加なのだ。
何も難しいことはない。それをわざわざ忌避しなければ、勉強することは簡単なのだ。それがどれだけの効果をその人生に与えるかは人それぞれだろう。だが、それが無駄になることはない。だいたい、思わぬところで役に立ったりするものだ。
かく言う私も、受験勉強は大嫌いだった。今でも資格試験のための勉強なんか大嫌いだ。興味がないことを勉強するとか本当に意味がわからないし、その時間でもっと有意義な勉強ができるだろうと思ってしまう。確かにそういう面もある。だが、それが勉強の全てだと思ってしまうのは勿体ないことだ。勉強を苦行か何かのように感じてしまうと、その後「勉強」とか「学習」という言葉に忌避感、嫌悪感を覚えてしまうからだ。
だから、勉強するということを気軽で楽しいものだと思える環境が、今以上に増えることを願ってやまない。
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