神様

 神様はいるのか、それともいないのか。

 我々日本人は、特定の宗教を持たない人が多い。クリスマスを祝った数日後に、初詣と称して神社に行き、仏教式の葬式を行う。アメリカが人種の坩堝なら、日本は宗教の坩堝だろう。

 大抵の人は、神様を本気で信じてはいない。困った時の神頼み、なんて言葉もあるくらいだ。

 ところが我が家では、神様が信じられていた。

 私を含む子供達のためにクリスマスを祝ってはくれていたが、それ以外はあくまで神道に即していたと思う。勿論神職の家庭ではないし、仰々しい神棚があるとか、毎日お祈りをしているとかでもなかった。元々両親とも売建主体の大手住宅会社に勤めていて、地鎮祭やら何やらで神社との関係が多少深かったことがきっかけではないかと考えている。

 そんな家庭で育ったから、私も勿論神様はいると思っている。

 科学の進歩によって、世界を神様が作ったわけでないことは明らかになっている。でもそれはそれ。

 私の小説の根幹にも関わるところだが、神とか奇跡とかそういう神秘というのは、そうだと信じるからそうなると思っている。

 例えばこうだ。先日私は仕事中に一個二百万円くらいする精密機器を載せた棚を倒した。勿論そのまま落下すれば確実に破損するし、普通ならそうなる。しかし実際には、その機材は床面に当たらず無事だった。これは、神様が私の不注意の結果に対して助けを与えてくださったおかげである。一方で、その三日後に会社の駐車場で社有車同士をぶつけた時は、恐らく私の不注意続きを諌めるためにお助けくださらなかった。

 現実的に考えればただの偶然であり、偶々機材は無事で車は無事でなかったというだけのことだろう。そこに神の意思があったと信ずることによって、それは私にとって神様がしてくださったということになる。そして、神に対する感謝の気持ちと、反省の気持ちがそれぞれ生まれるのである。

 別に神様を信じろと言う気はない。信仰というものは誰かに強要するものでもされるものでもない。しかし、神様は確かにいていつも私達を見ているのだと思っていた方が、いくらか自分の行動を省みて正すきっかけになるのではないだろうか。そして日々を生きられることに感謝し、謙虚に生きることすら可能になると私は考えている。

 ここまで読んでもらえばわかるように、私の信仰は頗る利己的なものだ。

 先に挙げた事例とて、結局のところ私の不注意が起こしたものであり、本来であればそこに神の意思など働く余地はない。自分のことを棚に上げて、神様が助けてくれたからどうとか、助けてくれなかったからどうとか、冷静に考えてみれば烏滸がましいにも程がある。

 しかし、それで良いのだ。信仰とは神のためにあるものではない。総じて神とは我々人間が人間のために作り出したものなのだから。それを他人に振り翳して、他人に不幸を振り撒いたりしなければそれで良いではないか。

 私には神様がいる。常に、ではないかもしれないが、私のことを見守っている。そのことに対する感謝の気持ちを忘れなければ、きっと神様は助けてくれる。それを忘れれば、きっと神様は天罰を以てそれを思い出させてくれる。そうして謙虚に生きることこそ、人が幸福に生きる術なのではないかと、私は思う。

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