ひとつ目の願いごと
「どうしたの? ここな。いいことでもあった?」
「んーん。別に普通だけど、どうして?」
次の日の朝、トーストにかじりつくわたしに、ママが問いかける。
「だって今、機嫌いいでしょ? ママにはバレバレだぞ~。彼氏でもできた?」
「まさか。いちばん好きな男の人は、ずっとパパだもん」
彼氏どころか、恋の天使を呼び出すつもりで、まちがって悪魔が来たりとかはしたけども。
「えー? ここなと恋バナするの、楽しみにしてたのに」
「もう。わたし、学校行くね」
いつもよりモコッとふくらんだスクールバッグを持って、そそくさと家を出る。その、悪魔はというと……。
「リル、出てもいいよ」
家が見えなくなったところまで進んで、わたしはバッグの中に声をかけた。悪魔の羽根がついた黒猫のぬいぐるみが眠っている。
今日は目を覚ましたら、リルがこの姿でとなりで眠っていたから、こっそりとバッグに入れて連れてきた。おいてきたって、どうせ昨日みたいについてきちゃうしね。
「リル」
声をかけても、起きない。ツン、とほっぺをつついてみたら、黒猫のまゆがピクっと動いただけで、まだ起きない。
ツンツン。
かわいい。ずっとこうなら、少しは平和なのにな。
「んん……? くすぐったい!」
「わあ!?」
突然、ポンッとぬいぐるみから男の子に変わって、わたしはしりもちをついてしまった。
「あー、よく寝た。ん? 地面で何してんだ、ここな」
目の前で転んでる女の子にかける言葉は、それだけなのだろうか。
「いきなり戻っちゃだめだよ。人に見られたら、どうするの?」
「記憶を消す」
わたしは小さくため息をついて、立ち上がってスカートの汚れを手でポンポンとはらうと、不意にリルから腕をつかまれた。
「リル、なに──」
言い終わる前に言葉をうしなった。
チュッと、リルの唇が、わたしの鼻にキスをした。
「っ!!」
びっくりしすぎて、声も出ない。
「あれ? 雨月さん?」
名前を呼ばれて、さらに飛び上がりそうなくらいびっくりした。最悪のタイミング。登校途中の蒼羽くんと出会ってしまうなんて。
「え、ふたり……なにして……」
「な、なんでもないの! リル、すぐふざけるんだから、もう~。あはは」
変なところ見られた……!
思いっきり棒読みでごまかして、無理やりリルを引きはがす。
「? だれだ、お前」
「こら、リル――、わぁっ!?」
蒼羽くんに不機嫌そうな表情を向けたリルは、なぜかわたしの肩を抱いて引きよせた。
「いとこ同士で、仲……いいんだね」
蒼羽くんは、少し引きつった笑顔を返してくれた。
「じゃ、じゃあ、わたしたち、先に行くね。行こ、リル」
これ以上ボロが出る前に、一方的に告げて、リルの腕をつかんで、蒼羽くんのそばからダッシュで逃げる。
「あ、雨月さんっ……」
蒼羽くんが引き止める声が聞こえたけど、足を止めることはできなかった。
うう、リルのせいで、キスされたところがずっとムズムズする。びっくりした。唇にキスされるかと思った!
「はぁ、はぁ。蒼羽くんから逃げちゃった。もう、さっきのなに?」
「あいつ、お前になれなれしかったからムカついただけ。俺の獲物なのに」
「いやな言い方しないでよ……。だって、友達だもん。なかよくするのは、当たり前でしょ」
学校の裏庭まで逃げてきて、息切れしているわたしとは反対に、リルは涼しい顔をしている。
「リル、疲れてないの?」
「体力ないな、お前。疲れるんだったら、飛んだほうが楽なのに、人間は変な生き物だな」
「人って、飛べないんだよ……」
たぶんこの先、こんなことリル以外には説明しないと思う。
「不便だな」
「そうかな? でも、リルみたいに自分の羽根で自由に飛べたら、楽しそうだね」
わたしは、空を見上げる。そこには、気持ちのいい青空が広がっていた。
*
教室に向かっている途中、いつの間にかリルが姿を消していた。本当に、自由なんだから。
教室に入ると、由夢ちゃんが自分の席でボーッとうつむいて座っていた。
「由夢ちゃん、おはよう。早いね」
「あ、ここな……、おはよ……」
暗い顔で、ため息がまざった声で、由夢ちゃんはすぐにまたうつむいた。
「えっと……、由夢ちゃん、なにかあったの? 今日、元気ないね?」
「大したことじゃないよ。ちょっとね、南くんとケンカしちゃっただけ」
「えっ」
それって、「大したこと」だと思うんだけど。
教室内の南くんを目で探すと、窓ぎわにいた。
チラチラとこちらの様子を気にしていた南くんは、わたしと目が合うと気まずそうな顔で、パッと窓の外に視線を向けた。
南くん、由夢ちゃんのことを見てた?
「由夢ちゃん。南くん、由夢ちゃんと仲なおりしたいみたいだよ?」
「そんなわけないでしょ。南くん、女の子なら誰だっていいんだもん」
「えっ!? そんなことないんじゃない?」
南くんのほうから、由夢ちゃんに告白したはずだし。
「ううん。南くんってね、実は結構モテるんだよ。昨日の帰り、見ちゃったんだ。わたしを家に送ってから、南くんがほかの女の子とふたりきりで会ってるところ」
「家族とかなんじゃない? お姉ちゃんとか、妹とか」
「南くん、ひとりっこ」
「えーと、じゃあ、えーと……」
なぐさめの言葉が、出てこない!
「いいの、別に。元から、好きだったわけじゃないもん。告られたから付き合ってただけだし。ね、ここな。今日は一緒に帰ろうね。最近、全然だったもんね」
「う、うん……」
「やった。やっぱり、女子同士でいるのが一番いいよ」
あっちゃんにも、由夢ちゃんにも彼氏が出来ちゃって、どんどんひとりの下校になるのが心細かったはずなのに、なんだか素直に喜べない。
だって、由夢ちゃんが必死に泣くのをがまんしてるのが、見ていてわかるから。
毎日、南くんとのおやすみ電話を、わたしがさみしいと感じてしまうくらいに、あんなに楽しそうに話していたのに。
自分の席に戻ると、すでに前の席には蒼羽くんがいた。
「おはよう、蒼羽くん。……って、さっき会ったばっかりだったよね」
「そうだね」
と、ひかえめに笑う顔を見て、思い出してしまった。そういえば、変なところを見られていたんだった。
「あの……、雨月さんと、リルくんって」
「ん?」
「おい、ここな」
「わあ!?」
蒼羽くんが、何かを話そうとした時、私の後ろから背中を指でドスッとついて邪魔をしたのは、リルだった。
一体、いつからいたんだか。
「も、もう、リル。びっくりさせないでよ。席に着いてるってことは、今日は授業に出るの?」
「そんなもん、俺には必要ないし。人間に教えてもらうことなんか、ない」
「少しくらい、参加してみたらいいのに。せっかく学校にいるのに、もったいないよ」
「授業に出ろって、それ1個目の願いごとか?」
「そんなわけないでしょ」
ん? 願いごと……。そうだ!
「リル、ちょっとこっちに来て!」
「は?」
わたしは席を立ち、リルの腕を引いて廊下に出た。
窓ぎわに移動して、周りに目をくばって、小声でリルにささやいた。
「あのね、願いごとって、わるいこと……とかでも、いいの?」
「いいぞ。むしろ、そういうのを待ってたんだ、俺は」
「どうして?」
「悪魔だからな。なんだ? 百億円か? それとも、世界中の宝が欲しいのか?」
目をキラキラさせているリルは、今までで一番楽しそうに見える。
「わたしの、ひとつ目の願いごとはね……」
ごくんとつばを飲みこむ。
「由夢ちゃんと彼氏の南くんを、仲直りさせてほしいの」
瞬間、リルの瞳からあからさまにキラキラが消えた。
「は? それのなにが、わるいことなんだ」
「わるいでしょ? 人の気持ちを、魔法で変えてほしいって言ったんだよ」
「自分のために使わねーのかよ。3つしかないんだぞ」
「友達が悲しそうにしてるのは、嫌だから。自分のために、願いごとを使うの」
リルは、心底理解ができないと言いたげな顔で頭を指でポリポリかいて、わたしの左胸に指輪を向けた。
「いいんだな? 3つしかない願いごとのひとつが、それで」
「もちろん。叶えて、リル」
リルは、楽しそうにニヤリと笑う。
「他人のために命けずるとか、お前……おもしれー女だな。いいぞ。悪魔リルが、契約者ここなの願いを叶えてやる」
リルがパチンと指を鳴らす。
「いたっ……!」
リルと契約をした時と同じ。左胸のあざに、チリッとした痛みが走った。
「あ、指輪が……」
リルの指輪の白い石が、あざやかな赤に変わった。
「お前の欲望がひとつ、胸のあざからこの指輪に吸い取られた証だ」
「わぁ、きれいだね」
見たまま、思ったことを言っただけなのに、リルは拍子ぬけしたように、「はぁ?」と疑問をぶつけてきた。
「お前、本当に分かってるか? 俺があとふたつ願いを叶えたら、お前は魂を取られる。死ぬってことなんだぞ。のんきすぎねぇ?」
「でもリルは、早く願いを叶えて魔界に帰りたいんじゃないの?」
「あ、当たり前だろ!」
「もしかしてリル、心配してくれてる?」
「しっ、してねーよ!」
「やさしいんだね」
「してねぇって言ってんだろ」
リルの顔が赤くなった。なんだろう。悪魔でも、この世界の風邪とかひいたりするのかな。
「悪魔に対してやさしいとか、しかも昨日なんかかわいいとか言ってきたよな。そんなこと言う人間は、お前くらいだ」
「そうかな?」
だって、昨日は本当にかわいかったもん。
リルと一緒に教室に戻ると、さっそく由夢ちゃんがかけよってきた。
「ねぇ、聞いてよ、ここなぁ~! 南くんがね」
リルの魔法、効き目はどうだったのかな。
ドキドキしながら待っていると、由夢ちゃんの口元が笑っていることに気がついた。
「昨日の女の子、いとこだったんだって。その彼氏の、誕生日プレゼント選びに付き合わされただけだったんだって。もぉ~、すっごい人さわがせだと思わない?」
「えっと、じゃあ、仲直りしたってこと?」
「うん、ごめんね。ここなにも迷惑かけちゃって」
よ、よかった……! リルがちゃんと、願いごとを叶えてくれたんだ。
「それでね……、ごめん! 今日、やっぱり南くんと帰ることになっちゃって」
「そっか。わたしなら、大丈夫だよ」
「本当にごめんね、ここなぁ~! ありがと!」
「あはは、由夢ちゃん苦しいよ」
由夢ちゃんがぎゅうっと抱きしめてきて、わたしは笑いながら背中をポンポンと叩いた。
チャイムが鳴って、由夢ちゃんは自分の席に帰っていく。
久しぶりに一緒に下校できるの、楽しみにしてたけど仕方ないよね。よかった。無事に仲直りしてくれて。
先生が来る前に、うしろの席に顔を向ける。
「由夢ちゃん、うれしそうだった。リルのおかげだね」
「別に。お前のためなんかじゃない」
「うん。でも、わたしひとりじゃ、きっと何もできなかったから。ありがとう」
わたしのお礼に、リルが目をパチクリさせる。そして、こちらに手を伸ばしてきて、
「え……?」
頬に触れられると思ったら。
「いっ……たーい!」
頬をギュッとつままれた。
「な、なに? なんでつねるの?」
「なんか、いい子ちゃんぶっててムカついたから」
「なにそれ!」
ちょっとドキッてしちゃって、バカみたい。
わたしは頬をふくらませながら、前に向き直る。
うしろから体に手を回されて、おどろいてふり向くと、リルの唇が首すじに触れた。
「!!」
完全に油断していた。
「な、なな……!?」
「お前のせいで、魔力使ったから」
「い、いきなりしないでってば!」
真っ赤な顔を見られたくなくて、またリルに背中を向ける。
「……人間なんか、自分のことしか考えてないはずだろ?」
リルが、わたしの背中にぶつけたひとりごとには、気づかなかった。
次にうしろを向いたとき、リルはもうそこにはいなくなっていた。
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