その日も、僕は学校から帰るとすぐにランドセルを部屋に放り出して、ランニングへ出かけた。

 走りながら、僕は明日の大会に思いを巡らせた。

 磯田君なんかは、


「嫌だなあ、明日は学校休もうかなあ」


 なんて溜息をついてたけど、僕にとっては一年間牙を研ぎ続けた晴れの舞台だ。ようやくという感じだったよ。


 けれど、待ち望んだのと同時に、怖くもあった。

 これで結果を残せなかったらどうしよう?

 これが小学校生活で最後の持久走大会。リベンジの機会は二度とない。

 自力でやれることはやってきた——とすれば、後は神頼みだ。


 僕は、折り返し地点の神社の前で足を止めた。

 そこは小さな山の上にある寂れた神社で、地元の人も寄りつかないような場所だった。

 辺りはもう薄暗くなっていたけど、僕は少し迷ってから、鳥居を潜って石段を上り始めた。


 その神社は低学年の時に何度か、友達と鬼ごっこをしたりして遊んだ場所だったけど、その時よりも更にボロボロになっていた。

 雑草が生え放題の境内に、今にも崩れそうな拝殿。とても神様がいるようには見えなかった。


 来たことを少しだけ後悔しつつも、僕は拝殿の前で目を瞑り、手を合わせた。

 そう言えば、こういう時は賽銭箱にお金を入れなきゃいけないんだったっけ?もっと早くに思いついていれば、家から財布を持ってこれたのに。

 そんなことを思っていた、その時だった。


「よう、人間」


 背後から、声が響いた。

 男のようでもあれば女のようでもある、幼い子供の声だった。

 驚いて振り返ると、そこには奇妙な生き物が立っていた。


 身長は、当時の僕より少し大きいくらい——だから、百五十センチくらいかな。

 丸い顔に、丸い胴体。太い腕に、短い足。全身は茶色い体毛に覆われていて、頭のてっぺんにはピンと尖った小さな耳が二つ突き出していた。

 体と同じく毛むくじゃらの顔には、丸くて黒いつぶらな目と、横一文字に大きく裂けた口があるだけ。


 最初はてっきり、着ぐるみか何かかと思ったよ。

 けれども、大きな口がニヤアと歪んで笑顔のような表情を作ったので、作り物じゃない、れっきとした生き物であることがわかった。

 驚いて尻餅をついた僕をじろじろ眺めまわしながら、そいつは言った。


「怖がるな、怖がるな。別に取って食いはしねえからよ」

「あ、あの……もしかして……」


 恐る恐る尋ねようとした僕の言葉を遮って、そいつは「キキキキキッ」と笑った。


「『神様』ってか?よせよせ、そんな大したもんじゃあねえよオイラは」

「考えが、読めるの?」

「まあ、その気になればな。凄えだろ?」


 そいつは、僕に手を差し伸べながら得意げに言った。大きな手だった。太い指の先の爪は鋭く、手の平には、ぷにぷにとした肉球みたいなものがついていた。

 手を取り立ち上がった僕に、そいつが尋ねた。


「お前、名前は?」 

「小田嶋悠太……友達は、ユウって呼んでるけど」

「そうかい。それじゃあオイラもそう呼ぶぜ。よろしくな、ユウ」

「君の名前は?」

「あん?そうさな、いくつか有るが……カクでいいぜ。一番短いし、呼びやすいだろ」

「カク、か……それじゃあ、カッちゃんだね」

「おっ、嬉しいねえ。これでオイラ達、友達同士ってわけだ」


 そいつ——カッちゃんは、そう言ってまた「キキキキキッ」と笑った。

 その頃にはもう最初の驚きも薄れて、僕は自然とこの状況を受け入れていた。

 よく見ればカッちゃんはゲームに出てくる雑魚モンスターみたいな愛嬌のある姿で、僕の警戒心はすっかり消えていた。

 僕はカッちゃんに尋ねた。


「ねえ、カッちゃん。カッちゃんは何者なの?」

「オイラか?オイラはな、お前らの住んでる世界とは別の世界の生き物さ」

「別の世界?」

「そうさ。お前、ついさっき、そこのやしろに祈っただろ?祀られるもんの居なくなった社ってのは、稀に〝ほころび〟が生じるからなあ」

「〝綻び〟って?」

「まあ、世界から世界へ移動できる穴みたいなもんさ。オイラはそれを潜って、こっちの世界までやってきたってわけだ」


 カッちゃんによれば〝綻び〟の発生は極めて珍しい現象で、彼もこっちの世界に来るのは数十年ぶりとのことだった。


「運が良かったなあ、ユウ。なんせ、お前がオイラの世界に迷い込んじまう可能性だってあったんだからよ。そっちで言う〝神隠し〟ってやつだな」


 カッちゃんの言葉に、僕は思わず身震いした。

 まったく、安易に神様に頼ろうなんてするもんじゃない。

 そんなことを思った矢先だった。


「叶えてやろうか?」


 唐突なカッちゃんの言葉に、僕はポカンとして「え?」と聞き返した。


「ユウの望みさ。それ、オイラが叶えてやろうかって言ってんだよ」

「できるの、そんなこと?」

「まあ、さっきも言ったが、オイラも神様じゃあねえ。あくまで〝できる範囲で〟にはなっちまうがな。オイラは本来〝そっち側〟では好き勝手できねえんだが、ユウが許可してくれるってんなら話は別だ。その代わりといっちゃあなんだが――」

「お賽銭?」

「馬鹿、いらねえよ金なんか。何か、〝そっち側〟の食い物をくれよ。ユウがうまいと思うもんをよ」


 そんなことを言われても、僕に用意できるものなんてたかが知れてる。

 あれこれ考えていると、


「よし——その『ちよこれえと』ってので手をうとうじゃねえか」


 僕の頭の中を読んで、カッちゃんが言った。


「それで、ユウの願いは何だ?」


 僕はこれまでの経緯をカッちゃんに説明した。


「——なるほどねえ。で、その『めだる』ってのが欲しいわけだ。うまいのか、そりゃあ?」

「食べ物じゃないよ。もっと価値のあるものさ」

「はあん」


 カッちゃんは気のない返事をした後で「しっかしよお」と続けた。


「欲がねえよな、お前は。どうせだったら、三等じゃなくて一等をお願いすりゃいいだろうに」

「だって、どうせあの二人には勝てないだろうし」

「じゃあ、本音を言やあ勝ちてえんだな?」

「そりゃ、まあ——ああ、いや、ちょっと待って」


 僕は腕を組んで考え込んだ。

 確かに僕は、神社の神様にお願いをした。けれどもそれは、言ってしまえば心の拠り所が欲しかっただけ。実際に願いが『叶ってしまう』となると話は変わってくる。

 みんなが自力で頑張っている中、一人だけランプの精や未来の猫型ロボットに頼るような、そんな卑怯な真似をしてしまって本当にいいのだろうか——


「ったく、面倒くせえなあ——埒が明かねえよ」


 痺れを切らしたカッちゃんが、僕の頭を両手でガシッと掴んだ。

 抵抗する間もなくカッちゃんの豆粒のような目玉が、僕の瞳を覗きこんだ。その途端、上手く言えないけど、自分の中に——頭の中に何かが無理やり入って来るような、そんな感覚が僕を襲った。


「もうちょっと、奥の方まで覗かせてもらうぜ」


 カッちゃんのそんな言葉が頭の中にこだまする中、僕の意識はゆっくりと遠のいていった。

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