第35話 千年先まで
気がつくと俺は、小麦畑の中に立っていた。
……なんだこの状況は?
書類仕事を終えた後、宮殿自室で寝たはずなのに。
すぐ背後に気配を感じて、振り返る。
修道服姿の女性が、歩いてきていた。
オリビア姫と同じ、緑色の髪と瞳を持つ女性だ。
顔立ちまで似ている。
「危な……! え……?」
緑髪の女性は、ぶつかってきた。
まるで俺のことなど、見えていないかのように。
しかし、スルリとすり抜けてしまう。
何だ?
幽霊か?
いや、この状況はひょっとして――
『そうだ。貴様が夢を見ているのだ。自信なき皇子よ』
また背後――さっきまで見ていた方向から、低くて重々しい声が響いた。
再び振り向くと、そこには巨大な狼の姿があった。
馬鹿な。
そこにはさっきまで、誰もいなかったはず。
山のような巨体なのに、小麦畑に一切影が差していないのも不自然だ。
「
『貴様ら人間は、
巨大狼の口は動かない。
何やら思念波のようなもので、直接俺の脳に話しかけてきているようだ。
「貴方が俺に、この夢を見せているのですか? 一体、何のために?」
『ただの気まぐれだ。誰かに見せたくなったのだ。【
「では、あの緑色の髪と瞳を持つ修道女が……」
『ああ。最初の聖女、クレアだ。特別な力は何も持たないが、聖女と呼ばれるに相応しい生き様だった』
クレアと呼ばれた修道女は、
足元には、黒い犬が寄り添っている。
いや、犬ではなく狼か?
あれはまさか――
『千年前の我だ。神獣であることは隠し、大人しい狼としてクレアの
「何か目的があったのですか?」
『ただ単に、居心地が良かったのだ。クレアからは、いつもいい匂いがした。他人を思いやる、慈愛の心の匂いだ』
急に場面が変わった。
どうやら神獣フェンリルが、見せたい光景を選び出して俺に見せているらしい。
聖女クレアは、心優しき女性だった。
畑で育てた小麦でパンを焼き、村人に配って回る。
怪我人や病人には【治癒魔法】を、魔力切れでヘトヘトになるまで使う。
子供達にせがまれては一緒に体を動かして遊んだり、本の読み聞かせをしてあげていた。
また、非常に勉強熱心だった。
夜は書物を読み漁り、魔法式を研究。
【植物成長促進】の魔法により、村の食料事情を改善できないものかと試行錯誤していた。
行動まで、オリビア姫によく似ている。
千年前の神獣フェンリルは、その姿をいつも静かに見ていた。
時々尻尾が、楽しそうに揺れているのが印象的だった。
ある年、
大勢の村人達が、飢えて死んでゆく。
その
「ごめんね。ごめんね」と、何度も謝りながら。
村人はクレアを恨むどころか、今までのことを感謝しながら旅立って行く。
それでも彼女は、無力感に打ちひしがれていた。
若く、体力のあった彼女は、かなり長く飢えに耐えた。
自分の食料を、村の子供達に回してしまったにもかかわらずだ。
だがそんなクレアにも、限界が訪れる。
栄養不足から風邪を
月夜の晩。
教会のベッドで苦しむクレアを、神獣フェンリルはもどかしげに見守り続けていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……。私、もうダメみたい。ごめんね、ワンちゃん。あなたを1人にさせちゃうね」
聖女クレアは死の間際なのに、自分のことより狼に化けた神獣の心配をしていた。
そんな彼女に、いきなり神獣フェンリルは語りかけたのだ。
『クレアよ。我が名はフェンリル。人智を超えし力を持つ、神獣なり』
「……えっ? この声……? ワンちゃんが、喋ったの?」
『その通りだ。クレア、お前に褒美をつかわそう』
「私、ご褒美をもらえるようなことは、何もしてないよ。誰も、救えなかった……」
『その他人を思いやる気持ちは、我々神獣にとって心地良いものなのだ。力を高める効果もある』
「そっか……。ワンちゃんが心地良くて力も増したなら、良かった……」
『さあクレア、望む褒美を言え。神獣の力なら、お前を死から救うことも容易い』
「私のことは、もういいの……。ねえ、ご褒美をもらえるなら、他のことをお願いしてもいい?」
神獣フェンリルは、酷くがっかりしたように見えた。
恐らく彼は、クレアに生きて欲しかったのだ。
だが彼女自身に拒否されては、どうしようもなかったのだろう。
『他の願いとは、何だ?』
「誰も飢えに苦しまない、
虚ろだったクレアの瞳は、光を取り戻した。
強い意志の光だ。
「私達の後に生きる子供達に、ひもじい思いはさせたくない。千年先まで。ねえワンちゃん。あなたの力で、何とかならない?」
『それはお前1人の命を救うより、遥かに壮大な願いだな』
「……ダメ?」
『……いや。やってみせよう』
神獣フェンリルは、遠吠えをした。
それは力強くも、どこか悲し気な
「あれ? ワンちゃん? あなた何だか、体が透けてるよ?」
『大きな願いを叶えたからな。力を使い果たした。再び力を取り戻すには、この大地と同化して千年ほど眠りにつかなければならない』
「無理させちゃったのね……。ゴメン……」
『構わぬ。千年程度、我々神獣にとっては一瞬だ』
「ふふふ……。神獣って、凄いのね。どうか見守っていてね。私が生まれ育った、この大地を……」
同時だった。
クレアの瞳から光が消えるのと、神獣フェンリルの姿が虚空に溶け見えなくなったのは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。