あの日のこと

あの日のこと

 幼馴染の志保のことが、好きだった。別に深い理由があったわけじゃない。小さい頃から一緒にいて、気が合う女の子。それだけで好きになるのには十分だったのだ。背が高くてスラっとしているところも、笑った顔がとても可愛いのも、ポニーテールが揺らめていているのも、ある意味俺にとってはどうでも良いことだったのかもしれない。


 では、志保は俺のことが好きだったのか? 遠い昔に「好き」とか「結婚したい」とか言われたような気もするが、なんせ子どものころの話だ。今のアイツがどう思っているかなんて、分かりはしないんだ。……ついさっきまで、そう思っていた。


 ほんの数十分前、俺は志保から絶交を告げられたのだ。アイツは「好き」という言葉だけを残して、俺の前から走り去って行った。そして、その瞬間――俺はアイツのことが好きではなくなった。


 なぜ? それを考えるには、中学一年生の頃から思い出さなければならない。中学に入ってから、俺たちの関係に変化が現れていたのは確かだった。中学生というのは、二人で仲良くする男女をからかいたくなる生き物なのだ。俺と志保も例外なくからかいの対象となった。


 俺は周囲から何か言われるたび、この野郎と思って言い返していた。自分が何を言われようがどうでもいいが、志保が何かを言われるのは許しがたい。その一心で、俺は志保を庇い続けていた。


 だが、俺はそのうち違和感を覚えるようになった。……志保は何もしてくれないのか、と。俺はもともと人と何か言い合うのは好きではない。それでも志保のためにと頑張ってきたが、何も報われなかった。俺はいったい何のために頑張っているのだろう、そういった虚無感に襲われるようになった。


 志保のことは変わらず好きだった。しかし、俺の心の中では一つの考えが浮かんでいた。……志保は俺のことが好きではないのではないか? 日を追うごとにその考えは強くなり、いつしか自分の好意まで薄くなっていくように感じられていた。


 そして、さっきの出来事。あの瞬間、俺は志保の好意に初めて気づかされることになった。自分の考えは誤っており、むしろ志保は俺のことを想ってくれていたのだと認識を改めさせられた。……だが、すでに失われかけていた好意がもう一度芽生えることはなかった。俺の「好き」という気持ちは霧散して、今はただこの暑い通学路を一人で帰っていた。


「はあ……」


 絶交と言われたこと自体はショックではあった。好きとか嫌いとかの以前に、長年ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染だ。昔のように仲良く遊んだり、互いの家に行ったり。……そういったことがもう出来ないかと思うと、寂しい気持ちもあった。


「何が『絶交』だよ」


 俺は自分の感情変化を消化しきれず、一人で悪態をついていた。志保のことは好きではなくなったが、幼馴染として絶交されるのは悲しい。ある意味自分勝手で、なんとなく自己嫌悪に陥っているのかもしれないな。


「あっちいなあ……」


 それはそれとして、夏の容赦ない日差しが俺の自己嫌悪を焼き尽くそうとしていた。今日の気温は三十五度を超えており、とても外を出歩けるような状況ではない。持っていた飲み物は全て飲みつくしており、俺の喉はカラカラだったのだ。


「なんか買うか」


 俺は近くの公園に寄ることにした。そこには自販機が設置されており、飲み物を調達することが出来る。スポドリでもお茶でもなんでもいいから、何か飲まないと熱中症になってしまうな。公園の敷地に入り、自販機のところへと向かう。えーと、スポドリでいいか。俺は適当に購入を済ませ、一休みしようと園内の東屋に向かった。


 ……ん? 誰か寝てる? 背もたれに隠れてよく見えていなかったが、東屋のベンチに寝転がっている奴がいるな。こんな暑い日にいったい何をやってんだ――


「えっ!?」


 俺はその正体を見て、驚きの声を上げてしまった。ベンチに横たわって苦しそうな表情をしていたのは――なんと、長袖のワンピースを着た少女だったのだ。まだ小学生っぽいけど、見るからにいいとこのお嬢様だよな。なんでこんなところに……? 俺は怪訝に思いながら、少女のもとに近づいた。


「おい、大丈夫か?」

「あっ……」


 心配になって肩を揺さぶってみると、その少女はこちらに気がついたようだ。どうやら熱中症に近い状態みたいだな。そりゃこんな暑い日に出歩いたらそうなるって。


「随分と具合悪そうだな。救急車呼ぶか?」

「ううん、だいじょーぶ。そこまでじゃないよ……」


 少女はゆっくりと身を起こした。しかし顔色は悪く、ものすごい勢いで汗をかいている。こりゃヤバいかもしれんな。とにかく水分補給させて休ませないと。


「何か飲み物は持ってないのか?」

「持ってない。……お金はあるんだけど、買えなくて」

「はっ?」

「自動販売機って、使ったことないの……」


 自販機を使ったことがない……? いくら小学生でも、流石にジュースくらい買ったことあるだろうに。


「な、なんで?」

「いつもは一人でお出かけしないから。飲み物なんて買ったことない……」

「そ、そうなのか……」


 やっぱりとんでもないお嬢様なのかもしれないな。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。とにかく、この子に何か飲ませてあげないと。


「仕方ない、これやるよ。飲みな」

「え、いいの?」

「別に、飲み物くらいいいよ」


 俺は持っていたスポドリを少女に差し出した。俺も熱中症になりそうなのはたしかだが、この子よりはずっとマシだ。


「ありがとう、お兄さん」

「いいから早く飲めって」

「うん、分かった」


 蓋を開けたペットボトルを手渡すと、少女はそれを受け取ってすぐに飲み始めた。ボトルの持ち方こそお上品だが、その割にみるみる中身がなくなっていく。あっという間に空っぽになり、少女はぷはーと大きく息をついた。


「あー、生き返った!」

「お前はオヤジか」

「いいじゃん、別に!」

「そうかよ、ははは」


 少女はいつの間にか元気を取り戻していた。やっぱり脱水だったみたいだな、飲み物をあげて正解だった。しかしまた、どうしてこんなところに一人でいたんだろう。


「なあ、聞いていいか?」

「なにー?」

「お前、こんなところで何してたんだ?」

「家出!」

「へ、へえ……」


 少女は屈託のない笑顔を見せてきた。この笑顔、なんだか不思議と惹き込まれる。人の目を真っすぐ見て、自分の嬉しい感情を直接ぶつけているというか。さっき俺の心にぽっかり空いた穴を、綺麗に埋めてくれたような感じがする。……っていうか、「家出」ってなんだ?


「家出ってどういうことだ?」

「うーんとね、私って毎日お稽古があるの!」

「お、お稽古?」

「でもさあ、毎日そればっかりじゃつまんないんだもん!」

「……じゃあ、その『お稽古』が嫌で家出ってこと?」

「そう! そういうこと!」

「……おてんばだなあ」


 ルンルンと脚を揺らすご機嫌な少女を見て、俺は苦笑した。お嬢様の割りに随分と砕けた口調だと思っていたが、この性格じゃ納得だな。でも、不思議と嫌な感じはしない。むしろ魅力的だとすら感じる。


「家はどこ?」

「うーんと、港区!」

「み、港区?」

「うん! お屋敷があるの!」


 港区って港区? あのお金持ちがいっぱい住んでるとこ? しかもこの子の家、マンションじゃなくてお屋敷なの? どんだけ金持ちなんだ?


「そ、そうなんだ。で、どうやってここまで来たの?」

「歩いてきた!」

「えっ?」

「電車の乗り方分からないんだもん!」


 自販機も使えなきゃ、電車にも乗れんとは……。世間知らずというか、世間を知らなくても生きて来れたというか。しかしそんな子でも家出したくなるのだから、金持ちというのはよく分からんな。きっと、行く当てもなくふらふらと歩いていたらこんなところにたどり着いてしまったのだろうな。


「で、お前どうするんだ?」

「分かんない!」

「帰らないのか?」

「帰ったら絶対怒られるからやだ!」

「そりゃそうか」


 こんな厳しい家の子が家出なんかしたら怒られるに決まっている。しかし帰らないわけにもいかないだろう。今日みたいな暑い日に出歩いていたらまた具合を悪くするに決まっている。かと言って、家に連れて帰れば俺が誘拐犯になってしまうからなあ。……せめて、自販機の使い方くらい教えておいてやるか。


「おい、ちょっと来い」

「何するの?」

「もうベンチに寝っ転がらないで済むようにしてやるよ」


***


「……で、金を入れたあとにボタンを押すんだ」

「へー、知らなかった!」

「こうすりゃ、ちゃんと飲み物が出てくるだろ?」

「うん、すごーい!」


 俺が試しにスポドリを買ってみせると、少女は喜んでそれを取り出していた。こうしておけば、少なくともこの子が脱水で行き倒れることはないはずだ。


「お兄さん、これ飲まないの?」

「お前が飲んでいいぞ。さっきのじゃ足りなかっただろ」

「うん! 飲む!」


 言うが早いか、少女は瞬く間に蓋を開け、あっという間にスポドリを飲み干してしまった。よっぽど喉が渇いていたんだな。それにしても、いい笑顔で飲むなあ。


「ぷはー!」

「本当にオヤジみたいだな。どうする? せめて駅まで送っていくか?」

「え、いいの?」

「そしたら切符の買い方も教えてやるよ。このまま歩くのも大変だろ」

「お兄さん、やっさしー!」

「そ、そうか?」

「うん! なんかモテそう!」

「……そんなことない」

「ふえ?」


 少女は不思議そうな顔をしていたが、俺はなんだか現実に引き戻された気分だった。モテそう、ねえ。ついさっき好きな女の子に絶交と言い渡されたところなんだがな。


「……俺はモテないよ。それどころか、ちょうど女の子に嫌われたところだ」

「えー、なんでー?」

「……なんでだろうな。とにかく駅まで送っていくよ。電車に乗ったら、ちゃんと家まで帰るんだぞ」

「えー、やだ!」

「やだじゃない、ちゃんと帰りな」

「……あのお家、帰りたくないんだもん」


 さっきまでと一転して、少女の表情が一気に暗くなった。本当に帰りたくないんだろうな。


「そう言われてもなあ。帰れなきゃ仕方ないだろ」

「いっそのこと、他の家の子になれたらいいのに」

「なんだそりゃ」

「だって、そしたら帰らなくていいもん」


 少女は不機嫌そうに呟いた。他の家の子に、か。そんなこと出来るわけないもんなあ。……いや、待てよ。


「……嫁にでも行けば、家を出られるぞ」

「えっ?」


 ふと呟いてみると、少女が目を輝かせたのがすぐに分かった。ワクワクとした表情で、俺の顔を上目遣いでじっと見てくる。


「お嫁さんに行けば出られるの?」

「まあ、昔の考えで言えばそうなるよ」

「ふーん、そうなんだ。でもお嫁さんかあ、なんかいいかも……!」


 少女はニヤニヤと嬉しそうな顔をしていた。俺はよく分からないのだが、今でも「お嫁さん」というものに憧れる女の子はいるものなのだろうか? まあ、少なくとも目の前のコイツはなんだか楽しそうだな。


「嫁に行くってそんなにいいもんなの?」

「うん、素敵だもん!」

「そっかあ」


 それにしても、この子は随分と楽しそうに話すんだなあ。今日初めて会ったというのに、なんだか心安いというか。……お別れしたくないな。


「……俺のとこにでも、嫁に来ればいいのに」

「えっ?」

「あっ」


 気づけば、俺はえらいことを口走っていた。なんとなく思ったことが、ついポロっと口から出てしまったというか。……小学生に求婚するヤバい中学生になってしまった!


「……お兄さん、それ本気?」

「いやっ、その……」

「でも、お兄さんなら――」

「おいっ、お嬢様がいたぞっ!!」

「「えっ??」」


 大声がした方向を向いてみると――そこには、スーツを着た人間の集団がいた。……まさか、コイツを連れ帰りに来たのか?


「お嬢様、帰りますよ!」

「や、やだっ!」

「わがまま言わないでください!」

「放してよお!」


 少女は必死に抵抗していたが、流石に何人もの大人の前では無力のようだ。俺は呆然としてその様子を眺めていたのだが、スーツを着た一人の男がこちらに寄ってくる。


「この度はご迷惑をおかけしました」

「いや、そんなことはないですけど」

「こちら、少ないですがお納めいただければと思います」

「は、はあ……」


 男が封筒を手渡してきたので、思わず受け取ってしまった。……手触り的にお金だよな。しかも結構入ってるし、いくらなんでもこれは――


「放して、放して!」

「いい加減にしてください!」

「やだあっ!」


 俺は封筒を返そうとしたのだが、少女の叫び声を聞いてハッと顔を上げた。遠くの方を見ると、既に少女が公園の外に連れ出されようとしている。


「ちょっと、待ってくださいっ!」

「な、何をするんですか!?」


 目の前の男を押しのけ、俺も公園の外へと走っていく。しかし少女はずっと遠くに連れていかれており、今にも視界から消えようとしていた。


「おにいさーん……!」


 叫び声も虚しく、少女の姿は陽炎の向こうに消えていく。俺はただ立ち尽くし、その光景を眺めることしか出来なかったのだった。



◇◇◇


 新作を公開しました。 よければお読みください。

 「古傷で引退した元英雄の俺、拾った少女に癒やされて再び空を舞う」

 https://kakuyomu.jp/works/16818093082777810883

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