第13話 岡本真司の休日
関東は梅雨入りして久しいが、今日は珍しく晴れ間が広がっていた。朝から自室の机に向かって勉強を続けていたのだが、こんな日に外出しないというのも勿体ない気がする。
「ねえ、ちょっと真司ー」
「なにー?」
母親に呼ばれたので、俺は階段を降りて居間へと向かう。何の用かと思ったら、おつかいを頼みたいらしい。
「湯沸かしポット燃えちゃったでしょ? いい加減新しいのが欲しいんだけど」
「ああ、電器屋まで行って買ってこいってこと?」
「そう、そういうこと。お釣りはお小遣いにしていいから、お願いできない?」
「分かった、行くよ」
電器屋まで行くとなると電車に乗る必要があり、正直面倒くさい。けど、せっかく外出の理由を得たところだしな。ここは親孝行といくか。
俺は服を着替え、家から出て歩き出した。中等部時代だったら、今日みたいな休みは間違いなく部活に行っていたんだけどな。今はただの帰宅部員だしなあ。俺は外の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、駅に向かって歩を進めていった。
「一番線ご注意ください、電車が……」
ホームで待ちながら、周りを見渡してみる。日曜日ということもあって、余所行きの格好をしている人が多いみたいだ。これから街中に遊びに行くのだろう。たぶん、湯沸かしポットのおつかいに行かされているのは俺くらいのはずである。間もなくやってきた電車に乗りこみ、近くの空席に座った。
「え~、次は~……」
車窓に流れる景色をぼんやりと眺めてみる。たまには一人で外出するのもいいもんだな。最近は身の回りでいろいろと起こっていたし、こんな日があってもいいよなあ。
「ご乗車ありがとうございました。新宿に着きます、お出口は右側です……」
そうこうしているうちに、電車はターミナル駅へと滑り込んでいく。ドアが開くと俺はゆっくりと席を立ち、ホームに降り立った。えーと、電器屋はどっちだったかな……。
***
「えーでは、三百円のお返しです! ありがとうございましたー!」
「ど、どうも……」
目当ての商品を買い、俺は顔を引きつらせながら釣銭を受け取った。何が「お釣りはお小遣いにしていいから」だよ、三百円しか残らねえじゃねえか!! どおりでやたら細かい金額を渡してくるなあと思ったんだよ!!
「お客様、どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもありません……」
店員さんに心配されたので、俺はなんとか平静を装う。くそう、これじゃ割りに合わないな。俺は母親に一杯食わされた悔しさを噛み締めながら、出口を探して歩き回っていた。ふと耳を澄ましてみると、店内には新商品の宣伝放送が流れている。
「新型テレビなら白神電機! ご自宅がまるで映画館に!」
「白神通信のお得なプラン! 携帯料金が今の半額に!」
白神、白神と連呼されるのを聞くと、雪美がとんでもないお嬢様だということを思い知らされる。なぜあんな人間とお見合いを組まされ、一緒に昼飯を食べる関係になったのか。よく考えれば不思議ではある。金持ちの考えってのは分からないねえ。
俺は電器屋を出て、近くの喫茶店に向かった。電気ポットなんか持っていたんじゃ、どこかに遊びに行ったりも出来ないしなあ。三百円じゃコーヒー代になるかどうかも怪しいが、せめてこれくらいはね。
「いらっしゃいませー!」
「一人なんですけど」
「ではこちらにどうぞー!」
店員に通されたのは、店の隅のテーブル席。きっと大荷物を見て案内してくれたのだろう。こういうさりげない優しさが嬉しいね。三百円で新宿までおつかいに行かせるどこかの母親にも見習ってほしい。
間もなく注文したコーヒーが届き、俺はちびちびと飲んでいた。今の時刻はちょうど午後三時。小腹が空く時間なのか、店内は多くの客で賑わっていた。
「本当ー!?」
「りなちゃんすごーい!」
近くのテーブル席には中学生くらいの女の子たちが何人か座っている。そうだよな、この年頃だとこれくらいのテンションだよな。普段から雪美とばかり話しているから、女子中学生とは冷静沈着なものだと思い込んでしまっていた。
「彼氏とどこまでいったのー!?」
「えー、秘密だよお」
「いいじゃん、教えてよー!」
……隣で聞いていると気まずい会話である。なんだかコーヒーの味まで苦く感じてしまうな。店も混んでいるし、ここはさっさと飲み干して――
「そっちこそ、好きな人いないのー!?」
「いないよ!」
「えー、嘘でしょー?」
……好きな人、好きな人ねえ。俺は浮かせようとした腰をもう一度下ろし、考えを巡らせていた。
ラブレターの件があったとき、俺の頭に思い浮かんだのは三人。雪美、志保、そして美保ねえだ。しかし――俺はその中の誰も好きではない。では、他に誰か好きな相手がいるのか? それもノーだ。
俺は改めて席を立ち、伝票を持ってレジへと向かう。相変わらず右手に抱えたポットが重い。
「コーヒーですね、四百円です」
「……はい」
結局足が出てしまった。ため息をつきながら支払いをして、店を出る。すると雲一つない青空が広がっており、日差しが容赦なく俺のことを突き刺してきた。周囲を見回してみると、皆暑そうに手で自らを扇いでいる。
「……もう夏だなあ」
俺は梅雨明けの予感を覚えながら、駅に向かって歩き始めた。アスファルトが直射日光に熱され、遠くの景色がゆらゆらと揺らめいている。
「……どこにいるんだろうな」
あの日、はち切れんばかりの眩しい笑顔を俺に向けてくれた少女。彼女は陽炎の向こうに消えていったまま、あれから一度も相まみえることはなかった。たしかに、俺に好きな人はいない。しかし――あの少女の笑顔だけは、心のどこかに残り続けているのだ。
***
俺はもう帰ろうとしていたのだが、欲しい参考書があったのを思い出し、書店に向かった。やっぱり新宿の本屋っていうのは大きいねえ。えーと、参考書コーナーはどこかな……。
苦労して目的地にたどり着き、本棚を物色する。お、あと一冊じゃないか。人気の本らしいから、まだ在庫があってよかった。俺はその本に手を伸ばし、取ろうとしたのだが――隣から、同じ本に手が伸びてきた。
「すいませっ」
「ごめんな――」
……横を見た瞬間、時間が止まったような気がした。そこにいたのは、バレーボール部のジャージを着た志保。まさかこんなところで出会うとは思わなかった。
「し、真司じゃないの!?」
「俺だったら何が悪いんだよ!?」
「謝って損したなって思っただけよ!」
「俺なんてもう百円損してるんだぞ!」
「はあ?」
「すまん、こっちの話だ」
どうやら、志保も同じ参考書を探してここにやってきたらしい。わざわざ部活帰りに新宿まで来るなんて不思議だったが、地元の本屋には置いていなかったそうだ。
「……で、どうすんのよ」
「別にいいよ、お前が買っていけよ」
「はあ!? あんたこそ必要でしょ!?」
「俺は別の本屋で探すよ、どっかにはあるだろうし」
「その大荷物でまだ歩き回る気!?」
「キレながら気遣うなよ」
あーだこーだと言い合っていたら、周りの客からの視線が集まっていることに気がついた。いつまでたっても埒が明かないし、弱ったなあ。
「もーいいよ、じゃんけんで決めよう」
「はあ?」
「譲り合っても時間の無駄だよ。さっさとしようぜ」
「……分かったわよ。なら、本気でいくわ」
「おっ、やる気だな。いくぞ、さーいしょは――」
「パー!」「チョキ!!」
……どうやら俺が勝ったらしい。子どもの頃から、志保とじゃんけんをすることは何度もあった。そう、こいつが「最初はパー」を繰り出してくることも――予測の範囲内なのだ。
「あっ、あんたズルい!!」
「お前が言うか」
「……えへへ」
「……はは」
結局、俺がその参考書を買うことになった。志保はというと、代わりに別の参考書を買うことにしたようだ。新宿まで来たってのになんだか可哀想だな。レジで会計を終え、ようやくこれで家に帰れると思ったのだが、店員に引き止められた。
「お客様、ただ今福引キャンペーンを行っていまして~」
「へえ」
「よかったらどうぞ!」
「じゃあ、是非」
そして、店員にくじの入った箱を差し出された。今日は三百円でおつかいをさせられる……なんて不運な出来事があったからな。何か当たるかもしれん。気合いを入れて箱に右腕を突っ込み、適当なくじを引いてみると――
「おめでとうございまーす!!」
「へっ?」
「三等、ビッグぬいぐるみでーす!!」
「ええええええ!!!??」
店員の指さす先にあったのは、レジ奥のカウンターに鎮座する巨大な熊のぬいぐるみ。……おいおい、ただでさえ大荷物なのによお。
「ではお客様、包装するのでしばしお待ちを――」
「そのぬいぐるみ、後ろで並んでる背の高い女子高生にあげといてください」
「へっ?」
「『参考書のお礼』って伝えといてください。では」
「ちょっと、お客様!?」
そう言って、俺はポットと参考書を持って足早に本屋から出て行ったのである。ああ、愉快な休日だったなあ。早く帰って、新しい参考書で勉強でもするかねえ。そんなことを考えながら、本屋から轟く志保の大絶叫を聞いていたのだった――
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