第10話 返事

 雪美が文芸部に入ってから何週間か経ち、六月になった。もうすぐ梅雨ということで、窓の外ではしとしとと雨が降り続いている。家の食卓で朝食をとっていると、向かいに座っていた母親が口を開いた。


「真司、お見合いはどうするの?」

「へっ?」

「あのお嬢様とのお見合いよ。いい加減、向こうにお返事しないといけないのだけど」

「……そっか、そうだよね」


 そう、俺はすっかり返事のことを忘れていたのだ。「断らなければ」とは思っていたのだが、雪美につきっきりでつい後回しにしてしまっていた。


「もちろん受けないのよね? 流石に高校生じゃ早いわよねえ」

「ああ、うん。断っていいよ……」

「じゃあ、お母さんから電話しておくから」


 そう言って、母親は食器を持って台所へと向かった。きっと、今日にでも白神家に電話をかけるのだろう。


「真司、お茶でも飲む?」

「うん」

「じゃあ淹れるわね」


 母親は急須に茶葉を入れ、お湯を注いでいた。そうだ、これでいいんだ。雪美のためにはお見合いなんて断った方がいい。……けど、断ったら雪美はどうなる? 考え込んでいると、目の前にトンと湯呑みが置かれた。


「お茶、入ったわよ」

「ありがとう母さん」

「何か悩んでいるの?」

「……いや、別に」

「あら、そう」


 考えを巡らせていたのが母親にも伝わってしまったらしい。断った方がいいとは思っている。……思ってはいるのだが、何故か心のどこかに引っ掛かる部分があった。


「……ごめん母さん、断りの電話は待ってくれないかな」

「えっ、受けるつもり?」

「いや、そうじゃないんだけど。……ちょっと考えたいんだ」

「真司がそう言うなら待っておくわ。それより、そろそろ行かないと遅刻するわよ」

「ヤバっ、行ってくる!」


 俺は時計を確認すると、慌てて鞄を持って家を飛び出した。返事、返事かあ。俺はいったい何を迷っているんだろうな……。


***


「あの、一体どうされたのですか?」

「へっ?」

「なんだか今日は上の空ですから。……何か考え事でもあるのですか?」


 その日の昼休み、雪美にそんなことを尋ねられた。俺は相変わらず雪美と昼食をとっているのだ。もう雨は上がっており、晴れ間が広がっている。


「いや、別に」

「嘘はよくありませんよ。私に隠し事をしているのではありませんか?」

「してないって」

「いずれ私とは結婚することになるのですから。お互いのことはよく知っておくべきです」

「……雪美には勝てないな」


 結婚か。まさにそのことで悩んでいるわけなんだがな。ここは雪美にも関わる話だし、思い切って打ち明けるとするか。


「実は、そろそろお見合いの返事をしないといけなくてな」

「返事……ですか?」


 俺の言葉を聞き、雪美は意外そうに目をパチクリさせていた。え、そんなに変なこと言ったかな?


「私と真司さんは、もう結婚するものだと思っておりましたが……」

「いや、俺はまだ返事をしていないんだ」

「そうでしたか。……もちろん、お受けいただけるんですよね?」

「実は、それを悩んでいたんだ」

「へっ?」


 雪美の気の抜けた声なんて初めて聞いた。どうやら本気で結婚しないといけないと思っているらしい。


「お見合いの時にも言ったけど、雪美は無理して結婚する必要はないんだ。まだ若いんだから」

「でも、私は真司さんを」

「俺は正直、結婚なんてまだまだ考えてない。雪美だってそうだろ?」

「……嘘つき」

「へっ?」


 雪美はボソッと小さな声で呟くと、弁当箱を閉じてベンチから立ち上がった。


「きゅ、急にどうした?」

「……いえ、なんでもありません。今日はこれで失礼いたします」

「ちょ、待ってよ」


 俺の制止も聞かず、雪美はすたすたと校舎の方へと歩いていってしまった。俺は慌ててパンを口に押し込み、後を追いかける。えーと、どこに行ったんだ――って、あそこにいるじゃないか。よく見ると、誰かと話しているみたいだな。


「雪美ちゃーん、もうお昼ご飯終わったの?」

「え、ええ。江坂さんもですか?」

「私は今から!」


 俺はそっと柱の陰に隠れ、その様子を伺っていた。あれは……たしか文芸部員の江坂さんだな。雪美とは同級生で、部活でもよく話しているらしい。何はともあれ、雪美とちゃんと話さないと。


「おーい、雪美」

「し、真司さん……」

「いきなりいなくなってびっくりしたぞ」


 俺は柱の陰を出て、雪美に声を掛けた。江坂さんもこちらに気づいたようで、ペコリと頭を下げる。


「お、岡本さん! こんにちは!」

「そんな礼儀正しくしなくていいよ、江坂さん」

「いえ、とんでもないです!」


 なんだか江坂さんは緊張しているようだ。時々校内でもすれ違うから、てっきり顔馴染みくらいにはなれたかと思っていたけど。でもまあ、中二の女子から見た高二男子って怖いよな。


「じゃあ私、今から食堂に行くので!」

「行ってらっしゃい」

「江坂さん、また部活で」


 どうやら江坂さんと雪美はたまたま廊下で会っただけみたいだな。こうして、俺は雪美と二人きりになってしまう。どうしたものかと思っていると、先に雪美が頭を下げてきた。


「さっきは申し訳ありませんでした!」

「え?」

「その、つい動揺してしまいまして……」

「いやいや、気にしてないよ。こっちこそ、適当なこと言って悪かったな」


 俺も雪美に謝り、頭を下げた。それにしても、普段冷静な雪美がこんな風になるなんてな。……やはり、お見合いを断ると親御さんがまずいんだろうか?


「えーと……やっぱ断ると雪美が怒られちゃうのか?」

「そ、そんなことはないのですが……」

「じゃあ断った方がいい?」

「それは駄目ですッ!」

「うえっ!?」


 珍しく雪美が大きな声をだしたので、俺は驚いてしまった。「そんなことはない」とは言っているけど、この反応じゃ本当かどうかは疑わしい。


「わ、分かった。とにかく、すぐには断らないからさ」

「はい。良いご返事をお待ちしております」

「……そうか」


 俺は頭を悩ませながら、今日のところは雪美と別れたのだった。雪美のためには断ってあげたい。が、断ると雪美が親に何を言われるか分からない。……八方塞がりじゃないか。


 それに、俺にはもう一つ考えていることがあった。……心のどこかで「断りたくない」と考えている自分がいたのだ。別に雪美と結婚したいなんて思っていない。そのはずなのになあ。


 午後の授業を受けながら、俺はずっと雪美について考え込んでいた。俺にとって雪美とは何か。無理やりお見合いさせられたフィアンセ? 守るべき年下の女の子? 皆が注目する恋人? ……わからない。


「……えーでは、岡本! この問題、分かるか?」

「はい、結婚です。ん?」

「????」


 クラス中の人間が首を捻っているのがはっきりと分かった……。


***


 答えが出ないまま、午後の授業が終わった。やれやれ、今日は帰るとするかね。俺は鞄を引っ提げ、昇降口に向かって歩き出す。


「岡本、またなー」

「おう、また明日」


 周囲のクラスメイトたちと挨拶を交わしながら、自分の下駄箱へと辿り着いた。さてと、上靴を脱いで……って、うん? 何か入っているな。


「手紙……?」


 そこにあったのは、オシャレな柄をした封筒。変な物が入っていないかと訝しんだが、その様子はない。まさか、まさかね。俺は唾をゴクリと飲み込み、封筒を手に取る。そーっと封を開け、中の紙を取り出すと――



岡本真司さんへ


突然このような手紙を差し上げてしまい、申し訳ありません。

お伝えしたいことがあります。

明日の放課後、校舎裏に来ていただけないでしょうか。

よろしくお願いします。



 ……予感が的中した。これって、これって――


「ラブレターじゃねえか!!!??!?」


 俺の叫び声が、校舎中に鳴り響いた――

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