第9話 姉と妹、そして少女

「ごめん。……美保ねえとは付き合えない」

「……そうか」


 中等部を卒業する頃、俺は美保ねえにはっきりとそう告げたのだった。美保ねえは素敵な女性だ。背も高いし、美人だし、そのうえ頭も良い。……けど、付き合えないんだ。


「やっぱり志保のことが好きなのかい?」

「いや、そうじゃないんだ」

「ほう。では誰が好きなのかな?」

「……うまく言えない。美保ねえに言う義理もないでしょ?」

「それは、そうだが……」


 俺の言葉に対し、美保ねえは黙り込んでしまう。この人はいつも余裕ぶっているが、今日だけは違うみたいだ。


「……じゃあ、そういうことだから。またね、美保ねえ」

「ま、待ってくれ……!」


 美保ねえは俺の制服の袖を掴み、なんとか引き止めようとしてきた。いつもいろいろなことを教えてくれて、年上らしくリードしてくれていた美保ねえ。……こんな姿を見るのは初めてだった。


「……離してよ、美保ねえ」

「私じゃ駄目な理由くらい、聞いてもいいじゃないかあっ……」

「美保ねえ……」


 俺は――初めて美保ねえの涙を見てしまった。美しい顔をくしゃくしゃにして、俺に縋るようにして泣いている。……俺まで泣きそうになってしまう。


「ごめん、本当にごめん。……いつかきっと、話すからさ」

「そうかい。……悪かったね」

「ありがとう、美保ねえ」

「最後に一つだけ言わせてくれないか?」

「なに?」

「私は君のことが大好きだ。……これからも」

「……そっか」


***


 俺と雪美は手を取り合ったまま、廊下の先の方を見つめていた。美保ねえはその長い脚を前に動かし、俺たちの方へと近寄ってくる。


「真司さん、どちら様ですか?」

「松崎美保っていうんだ、あの志保の姉貴だよ」

「じゃあ、あの方も真司さんの幼馴染ですか」

「ま、まあそうなるな」

「……そうですか」


 雪美は睨むようにして美保ねえのことを見つめていた。……この松崎姉妹に対する敵意はいったい何なんだろう? 志保にもなんだか当たりが強かったような気がするけど。


「それで、いったい何をしているんだい?」

「部活を探してるんだよ」

「部活?」

「この子に合う部を探しているんだけど、なかなか」

「初めまして、白神雪美と申します。以後お見知りおきを」

「ああ、噂はかねがね。真司くんのフィアンセだろう?」

「ちょっ、美保ねえ」

「はい。その通りでございます」


 雪美ははっきりとそう言って、改めて美保ねえの目をギロリと見た。それに対し、美保ねえも鋭い眼光で雪美を見据えている。……胃が痛くなるからやめてくれ!


「美保ねえ、俺たちまだ部活を探してる途中なんだ。じゃあね」

「ちょっと待ってくれよ。うちの部には来ないのかい?」

「えっ?」

「忘れたのかい? 私は文芸部の部長じゃないか」

「……そういや、そうだったね」

「文芸部……ですか?」

「おや、興味があるかい?」


 さっきまで怖い顔をしていた雪美が、「文芸部」という単語に反応した。もしかして興味があるのか? 美保ねえもいることだし、文芸部ってのは悪くない選択肢かもしれないな。


「雪美、行ってみるか?」

「はい。お願いします」

「分かったよ、連れて行こう。……ところで、いつまでそうしているつもりだい?」

「「うひゃあっ!?」」


 慌てて繋いでいた手を離した俺と雪美であった。


***


「さ、入りたまえよ。ここが我が部の部室だ」

「ありがとう、美保ねえ」

「失礼します」


 美保ねえに連れられ、俺たちは文芸部へとやってきた。中に入ると、そこにはテーブルの上で文庫本を広げる数人の部員たち。たしか文芸部も中高が合同で活動しているんだったかな。


「今の部員数は六人ってとこだ。これでも部誌を発行したり、文学賞に投稿したりもしているけどね」

「へえ、そうなんだ。雪美、どう?」

「……本を読むのは嫌いではありませんし、いいかもしれません」

「そうかい。そこの本棚から好きなのを読んでみても構わないよ」

「ありがとうございます、松崎さん」


 雪美は近くの本棚の前に立ち、興味深そうに本を選んでいた。その間、俺は美保ねえと会話を交わす。


「久しぶりだねえ、真司くん」

「そうだね」

「それにしても、いったい何だって部活なんか探していたんだい?」

「あの子、クラスで馴染めていないみたいなんだ。せめて部活で気の合う仲間がいるといいかなって」

「……なるほどね。相変わらず世話焼きなんだねえ」


 美保ねえはニヤニヤと笑っていた。この人も昔から変わっていない。いつも笑みを浮かべていて、こちらのことを全て見透かしているかのような表情をしている。


「それより、志保とはどうなんだい?」

「……分かってるくせに。変わらないよ」

「そうなのかい? 最近の志保は様子がおかしいように見えるんだがねえ……」


 志保の様子がおかしい? いったいなぜだろう。別に何か変わったことなんて――


「えー、そんな本まで読んでるのー!?」

「はい。家の書庫にはいろいろな本があるものですから」

「いいなー、羨ましい!」


 その時、雪美が部員と話している声が聞こえてきた。どうやら、会話相手は中等部の女子生徒らしい。タメで話しているのを見るに、同級生だろう。


「おや、もう友達になったみたいだねえ」

「本当だ、雪美があんなふうに話してるなんて初めて見たよ」

「君の狙い通りかい?」

「うん。……ありがとう、美保ねえ」

「なに、こちらとしても新入部員が来るに越したことはないからねえ」


 そう言って、美保ねえは近くの棚を漁り、入部届を取り出した。そのまま雪美の方に歩み寄ると、ボールペンと一緒にそれを差し出したのだ。


「白神くん、入部するかい?」

「はい。お世話になります」

「じゃあ、これに記入を」

「承知しました。ありがとうございます」


 やれやれ、これで一件落着だな。俺はホッとして胸を撫で下ろす。……というか、俺も入部すればいいんじゃないか? そうした方が雪美も安心だろう。


「美保ねえ、俺も入部していいかな?」

「えっ?」

「いやあ、その方が雪美にもいいかなと思って」

「真司くん、君はアホかい?」

「へっ?」

「君は白神くんに友人を作ってほしいんだろう? 君がいたら、彼女は君を頼るに決まっているじゃないか」

「……たしかに、そうだね」

「君は優しい。……が、時には彼女自身に任せてみるのも優しさだろう」


 俺は美保ねえの言葉に納得し、じっと雪美の方を見つめた。今日の様子を見る限りでは大丈夫そうだが、全く心配がないというわけではない。けどまあ、頑張ってもらうしかないか。そんなことを考えていると、美保ねえが静かに口を開いた。


「それに――君には、入るべき部活が他にあるんじゃないのか?」


 俺は自らの胸を撃ち抜かれたような気がした。美保ねえの言葉はそれくらい核心を突いた発言だったのだ。鼓動がみるみる速くなるのを感じたが、俺は必死に取り繕う。


「……なんのことか分からないね」

「仲間たちは君のことを待っているんだろう? 行ってあげたらどうなんだ」

「美保ねえ、それ以上言ったら――」

「あの、記入いたしました」


 その時、俺たちの間に雪美が割って入ってきた。雪美も俺たちの会話にただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、怪訝そうな顔をしている。しかし、美保ねえは何事もなかったかのように入部届を受け取った。


「これで白神くんは文芸部員だ。ようこそ、我が部へ」

「はい。ありがとうございます」

「あいにく、今日はそろそろ終わりにしようと思っていたんだ。明日から放課後に来てくれ」

「毎日は難しいかと存じますが、可能な限り参ります」

「よし、これから頑張ってくれたまえ」


 この後、雪美は美保ねえから活動についての詳しい説明を受けていた。俺は適当な本を読んで暇を潰しつつ、その様子を眺めていた。お、終わったみたいだな。


「もうそろそろ迎えの車が来ますので、私はお先に失礼します。松崎さんに真司さん、ありがとうございました」

「雪美、また明日な」

「部室で待ってるよ」


 こうして、雪美は先に帰っていった。他の部員たちも次々に部室を出て行ってしまい、俺は美保ねえと二人きりになってしまう。なんだか嫌だな、この感じ。


「俺も帰るよ」

「待ちたまえよ。まださっきの話は終わってないだろう?」

「俺が何部に入ろうが勝手だろ。美保ねえには関係ない」

「おやおや、珍しくお怒りだねえ」


 怒るとも。俺がどうして帰宅部員なのか、美保ねえは知っているはずなのに。……あの喪失感を忘れたことなんて、一度もない。


「とにかく、俺は帰る。雪美をよろしく」

「ああ、大切なフィアンセ様だ。丁重に扱うよ」

「あのさあ」

「ふふ、気をつけて帰るんだよ」


 半分苛立ちのような感情を抱えつつ、帰ろうとしてドアに手をかけた。しかし、まさに外に出ようとした瞬間――美保ねえは俺にこう言い放ったのである。


「君の好きだった人間が誰なのか、分かったような気がするよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る