第3話:前世の記憶

 ソノラ・セレニティには前世の記憶があった。

 前世、彼女は日本という国でブラック会社に勤務する不運な社畜だった。毎日仕事のストレスで眠ることが出来ない日々。

 だが、あるものに出会い、彼女の人生は大きく変わった。


 それは、大手動画サイトに大量に投稿された「ASMR動画」。

 つまりは、音を聞いて実際に耳かきされたり、すぐ傍で囁かれたかのようにゾクゾクする感覚を体験できる動画のこと。


 前世のソノラは数多のASMR動画を毎日視聴した。全く眠れずに布団の中で号泣していた日々が嘘のように、動画を視聴している内にいつの間にか眠っているのだ。


 そのうち彼女はASMRの魅力にどっぷりと浸かることになる。そしてついには彼女自身が「愛澄あすまいち」(※ASMR→アスマー→あすまと漢数字の一)という配信者としてASMR配信や動画を投稿するようになったのだ。

 ボーナスで買った高級ダミーヘッド型バイノーラルマイクの「ノラちゃん」と共に数年活動をし──ついに、彼女は登録者数二百万人超の大人気ASMR配信者になっていたのである。


  不眠症の辛さは痛いほどよくわかる。だからこそ、今のライゼルをソノラはどうしても放っておけなかった。前世の社畜時代の自分と重ねてしまった。


「陛下、これをお耳につけて下さいますか?」

「これは……」

「私手作りのイヤフォン型の粘土細工です。こうして耳につけてください」

「い、いやふぉん? よ、よくわからんが、分かった……」


 明らかに怪しい提案、しかも今日出会ったばかりの王妃候補の言葉に素直に従う炎帝。ソノラはクスリと微笑んだ。

 ちなみにフランには部屋を退出してもらっている。やけに満面の笑みの彼女が部屋を去っていったような気もするが、今はどうでもいい。


(なんだ、こんな怪しい提案を試してくれるだなんてすっごく優しい王様じゃない。やっぱり噂は当てにならないわね。せっかくこうして提案に頷いてもらったんだから、陛下を後悔させないようにはりきっちゃいましょう!)


 ライゼルがイヤフォン(型の粘土細工)をつけて、ソノラのベッドに横になる。

 それを確認すると、ソノラはイスに座り、テーブルの上にあるものを置いた。人間の頭部を模した粘土細工だ。これもソノラお手製のもので、前世で愛用していたダミーヘッド型バイノーラルマイク「ノラちゃん」の模型である。

 ソノラはダミーヘッドの耳に触れ、己の魔力を通す。バチッと静電気のような感覚が指先に走った。


 ──そして。


「ッッ!?!?!?!?!!」


 次の瞬間。ビクンッッとライゼルの身体が大きく跳ねた。耳を抑え、彼は真っ赤な顔でソノラを睨みつけていた。


「そ、ソノラ嬢! い、いまっ、貴様、何をっ! 耳に指を……!?」

「驚かせてしまい申し訳ございません。ですが実際に陛下の耳に指を入れたわけではありませんよ。陛下の耳につけている粘土細工には私の音魔法の魔法陣が施されています。また、こちらの頭部の模型にも同じ魔法陣があります。これによってこの模型と陛下の耳がリンクして、この模型の耳を私の指が引っ掻いた音や、息をふきかける音が直接陛下に聞こえるようになっているんです。例えば、こんな風に……」


 まずは優しく、指先でダミーヘッドの耳の中を引っ掻いてみた。指耳かきというものだ。


 耳かきASMRにはステンレス耳かきや竹耳かき、梵天やベビー綿棒等様々な種類があるが、その中でも指耳かきは柔らかい指の腹と固い爪で織りなすカリカリ音が絶妙。その上、高速で動かしやすいというメリットもあり、ソノラのお気に入りのASMRだった。


 カリカリカリカリ……。ソノラ自身も音を確認するためにダミーヘッドの耳とリンクさせたイヤフォンを耳につける。そうすると、固い粘土細工を引っ掻く爪の音が聞こえてきた。


(いつかはシリコンの疑似耳で耳かきをしたいけれど、固い粘土細工を引っ掻く音もやっぱり素敵ね……! 高速指耳かきが好きなのだけど、陛下はASMR慣れしていないでしょうし、最初はゆっくり──って!)


 ソノラは目を丸くする。ポカンと口を開けたまま。

 何故なら、ベッドの上では口を押さえて、ビクビクと身体を震わせるライゼルがいたからだ。その指の隙間から、屈強な男性のものとは思えない甘い喘ぎ声が漏れてしまっている。

 炎帝。彼にこそ、その二つ名が相応しいと先ほどは思ったが、今の彼は一体どうだろうか。


(さっきは初体験で驚いただけかと思ったけど……。もしかして陛下って耳の感度がすこぶるいいんじゃ!?)


 つい興味本位で指の動きを速くしてしまう。上下にカリカリと先ほどよりも速く動かせば、ライゼルの身体の揺れもそれに連動して大きくなる。


「ん、ん、あぁっ! ……くッッ! なん、だ、こ、れは……!! 確かに触れられていないのに、耳の中を掻かれているような、鼓膜を優しく撫でられているような……!!」


 思わずうつ伏せになり、枕を抱きしめるライゼル。ソノラは慌ててそんな彼に駆け寄った。


「陛下、陛下! 申し訳ございません! い、嫌でしたか……?」


 熱に染まった赤い頬。少しだけ潤った緋色の瞳。ベッドの上で魚のように跳ねたせいで乱れた服。先程までの炎帝とは思えない姿にソノラは思わず唾を飲みこんでしまう。

 しかし、ソノラとてここまで反応してしまうライゼルに強制はしたくない。ASMRが苦手な人間も勿論いるというのは分かっている。だが。


「──ッッ! い、いい!」

「陛下、ご無理はなさらずに。これは私の我儘ですから」

「いいと言っているんだ。つ、続けてくれ……。もう少し、ゆっくり指を動かしてくれると助かる……。慣れれば、心地いい、気がするのだ」

「わ、分かりました」


 本当にいいのだろうか。というか、どうして自分は炎帝を喘がせているのだろうか。

 そんな疑問がソノラの中で浮かんだが、ライゼル自身から頼まれてしまえば、やるしかない。


 再び、指耳かきを続ける。今度はもう少しゆっくりと。

 触れるか触れないかの優しい力で、のの字をダミーヘッドの耳の中で描いてみる。ぎゅうっと熱を感じる耳を塞ぐ音と、じゅわっと指が離れてその隙間へ空気の動く音が交互に耳の中に響いていく。

 この音の交差がたまらないのだ、指耳かきは!


「……ッッ……」


 先ほどよりも跳ねなくなったが、ライゼルは以前と口を手で押さえている。

 そんな彼にやはりソノラの好奇心が疼いてしまう。つい、ソノラはダミーヘッドの耳元に口を寄せてしまった!


「──ふぅ……」

「!? ~~~~ッッアァッ!!」


 耳の奥へ熱を込めた息を吹きかけたのだ。そうすると、今度は一メートルほどライゼルの身体が飛び跳ねた。常人離れした反応に思わず腹を抱えて笑いたくなってしまったが、なんとか我慢する。


「そ、ソノラ嬢……! もしや、楽しんではいまいな!?」

「そんなことないですわよ、陛下。もう息は吹きかけませんから、どうぞ力を抜いてくださいませ」


 ポーカーフェイスで指耳かきを続ける。ライゼルは少しの間ソノラを疑わしげに見つめていたが、次第にソノラの指かきの音に集中していき、こちらを気にする余裕がなくなる。ガリッと、たまにダミーヘッドの耳の壁をほじくるように指を動かすとやはり声が出そうになるものの、だんだんとライゼルの反応は落ち着いていく。


 そして──


「……、……すぅ……」


 指耳かきを始めてから半時ほど経った頃だろうか。ライゼルの寝息が聞こえてきた。

 ソノラはゆっくりとライゼルの耳からイヤフォンを取り、彼の身体に掛布団を掛ける。


 炎帝、ライゼル・ドミニウス・モルドラック。

 恐ろしい二つ名を持つ彼だが、その寝顔は幼い少年のようにも見えた。


 ソノラはふぅ、と胸を撫でおろし、相棒のダミーヘッドの頭部を撫でる。

 任務完了ね。そう呟きながら。


 しかし、彼女はこの時気づいていなかった。

 どんな理由があるとはいえ、国王であるライゼルが王妃候補のソノラの部屋で一晩を過ごすことにどんな意味があるのかを……。

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