第37話

 僕たちはホテルに帰ると、それぞれの部屋で休憩をしていた。


 窓から見える空は夕焼けで夜が近づいている。


「そろそろバーに行こうと思うんだけど、ティファはどうする?」


「記憶のロックが解除されるきっかけだった、この本を読んでいても良いですか?」


 ティファは机に置いてあった本を手に取って答える。


 その本は小鳩老人から頂いた例の本である。


「別にいいよ」


「最初から最後まで読んでみたかったので嬉しいです」


 ティファはキュッと胸の前で本を抱いて嬉しそうにさせた。


「そんなに読みたかったんだ。それならしばらくバーにいると思うしゆっくり読んだらいいよ」


「ありがとうございます、陸さん」


 ティファは喜びながら僕をバーへ送り出してくれた。


 バーに行くと、一人見覚えのある髪の女性がカウンターに座っていた。一メートルの赤茶色のストレート髪。


「あれ、もしかして惠谷さん?」


 僕が声をかけて振り返ったのは、予想通り惠谷ジュンであった。


「あら美能さんじゃない」


 髪を揺らしながらグラスを手に持っている。


「髪の毛を見てすぐに気が付きました」


 惠谷ジュンの美しく手入れがされた髪の毛を見ながら僕は言った。


「そのはずですわ。だってこの立派なロングヘアーは私の自慢ですもの」


 惠谷ジュンは右手でグラスを持っていたので、持っていない左手で自分の髪の毛を軽く梳きながら自慢げに答えた。


「惠谷さんってお酒とか飲まれるんですね」


 酒を飲むことに性別なんて関係ないのだが、僕は酒を飲まないティファばかり見てきたから、ちょっとした偏見で、女性がアルコールを口にしているのが新鮮に見えてしまった。


「二人で何か話しましょうよ」


 惠谷ジュンからの提案だ。


「良いですね。あ、マスター、何でもいいんでおススメを」


 惠谷ジュンの隣に座ったついでにマスターに伝える。


「ライムはいけますか?」


 マスターに聞かれたので僕は何となく「多分大丈夫です」と答えておいた。


 僕は惠谷ジュンと何気ない会話をしてグラスが置かれるのを待った。


そしてマスターがチョイスする味にも期待しながら。


「どうぞ、モスコミュールです」


 マスターが音を立てずグラスを置いた。


 僕は何となく格好つけて慣れた素振りで一口飲む。


 …………。


 どうやら僕はライムがあんまり得意でないようだ。


 しかめっ面になるのを必死に耐えて僕はマスターに一言言った。


「独特な味ですね」


「結構飲みごたえがあって爽やかですよね」


 マスターに共感を求められた。


 なので、僕は飲みきらないといけないと責任感を感じて一気にモスコミュールを飲み干した。


「美能さん、美味しいカクテルを一気に飲むのは輩だけですわ。大人はもっと嗜むように頂くものですわ」


 惠谷ジュンに注意された。


 酒を飲める年齢だとしても惠谷ジュンの方が僕より遥かに若いだろうに。


「そう言えば惠谷さんっていくつです?」


 僕が聞くと、惠谷ジュンはフフッと不敵な笑みをこぼして言った。


「私……? ここだけの話、三十ですわよ」


「さ、三十!?」


 僕は驚いた。


 惠谷ジュンの顔立ちや服装は三十歳とは思えない程とても若く見えるから理解が追い付かなかった。ギリギリ予想出来て二十一歳。初対面で年齢を公開しなかったら、この人が三十歳とは誰も思うことはないだろう。


 ただのロリババアだったなんて……、もっと若いと想像していたから、なんだかがっかりだ。


「僕より年上だなんてビックリ過ぎます」


 僕の言葉を聞いて惠谷ジュンはもう一度フフフっと笑った。


「ちょっと、怖いんでやめてくださいよ」


 僕は冗談交じりで伝える。


「すみません、反応が面白いものだからつい。美能さんはいくつですの?」


「二十八ですよ」


「そんなに変わらないじゃないですか。まあ、私の中では年齢なんてどうでもいいのですけどね、フフフ」


 そう言いながら惠谷ジュンは携帯電話を操作して国崎れれみの曲を聴きだした。


「相当気に入ったようですね」


「どこが好きとかはよくわからないのですが、落ち着くので何度も聴き返したくなるのです。中毒性があるといったところでしょうか」


 曲を聴く惠谷ジュンはノリノリである。


 ノリノリになりながらカクテルを嗜んでいる。


「この歌を歌う国崎れれみさんはもう現代にいないと考えると切なくてしょうがなくなるのは僕だけですか?」


 アルコールと曲を楽しんでいた惠谷ジュンに向けて僕は言った。


「私もそう思いますが、今の現代に歌を残してくれただけでもありがたいことと思いますわ」


 惠谷ジュンはなんとかプラス思考で解釈しようとしている。


 それを聞いて、僕は思った。僕の考えはマイナス思考過ぎたかもしれない。


「それにしても以前の僕は未来人の存在なんて考えもしませんでしたね」


 僕が未来人の話をしだすと、惠谷ジュンは口に人差し指を強く当てて僕に訴えた。


「しっ、その話はやめてくださる? もう未来人と言う言葉を聞くだけで私の頭は狂ってしまいそうなのですよ」


「すみません……。それじゃあ米田さんの話でもしましょうよ。それなら嫌じゃないでしょう?」


 僕が提案すると惠谷ジュンは人差し指を下げて表情を緩ませた。


「よねくんの話なら楽しそうでいいですわね」


 惠谷ジュンが喜んでくれたので僕は安心した。


「惠谷さんは米田さんのこと、実際、どう思っているのです?」


 僕の質問に惠谷ジュンは頬を赤らめた。


「いきなりですわね」


 僕も直球過ぎたと思ったが、惠谷ジュンはその質問を真面目に受け取って恥ずかしそうにしながら答えた。


「紳士的でとても良い人ですわ。人とお付き合いしたことはないのですが、私はきっと、よねくんに好意を抱いているのでしょうね」


 恥ずかしさを紛らわすためか、惠谷ジュンは何度もグラスに口を付けた。


「とてもお似合いだと思います」


他人の恋愛を聞いてこんなにドキドキするとは思わなかった。


 酒の場という力もあるとは思うが、僕たちは大胆すぎる話をしている。


「実はよねくんからデートのお誘いを受けているのです。でも調査の兼ね合いもありますし迷っているところなんですよね」


「それなら直ぐに引き受けるべきですよ。調査は順調に進んでいるのですから、一日休暇を取ったってなんてことないんです」


 僕は何故か急ぐように伝えてしまった。


「それなら、ちょっと連絡でもしてみましょうかしら」


 両手で携帯電話を握りしめながら惠谷ジュンが言った。


「どうぞどうぞどうぞ」


 僕は惠谷ジュンと米田さんの恋愛が成就することを願って電話の話し声を静かに聞いて待つことにした。


「もしもし? こんな時間に電話なんて申し訳ないんだけど、この前言っていたデートの件で話をしたくてつい電話しちゃったわ」


 惠谷ジュンの声色が妙に女らしくなっている。


 僕と話しているときの声のトーンとは全然違うので僕は静かに驚いていた。


「今度のデートね、是非、一緒に行きましょう。それだけを伝えたかったのよ。うん、それじゃあ、楽しみにしてるわね」


 緊張していたのか惠谷ジュンは電話を切った瞬間大きな息を漏らした。


「心臓が壊れるかと思いましたわ」


 目を見開いてごくっと喉音を立ててカクテルを水のように飲む惠谷ジュン。


「聞いていて僕もドキドキしちゃいましたよ」


「でも本当に良かったわ。デートをすることになるなんてすごく楽しみだわ」


「良かったですね」


「私のことなのに一緒に喜んでくれるなんて美能さんって案外優しい方?」


 今まで優しいと思われていなかったことがショックである。


「僕の売りはいつも優しさだったんですけどね」


 苦笑しながら僕は伝えた。


「そうです、ティファさんと美能さんはどうなんですの? いつになったら恋愛に発展するのです? もしかしてもう既に……?」


 待て待て、惠谷さん、妄想しすぎですよ。


「僕たちの間に恋愛要素はありません」


「え? そうですの……?」


「はい、だってティファはアンドロイドですし」


「そう言えばそうでしたね。でも極論を言うとアンドロイドと人間の恋も私はアリだと思いますけれどもね。どうなんでしょう?」


「ティファに好意を抱いてもティファが恋愛感情を持ってくれることはないと思いますよ。ただ機械のごとくあるものをあると伝えて、見えるものを見えると伝えるだけ。感情も感じたことを伝えることは出来るかもしれませんが、それ以上の恋愛などと言う難易度の高い、人の醜さが混じった思考を理解するという複雑な作業は、アンドロイドには出来ないと思うんです」


 僕は言い終えて、グラスがカラになっていることに気が付いた。


「マスター、やっぱり今度はいつものレモンチェロで」


 僕はカラのグラスをスッと押してマスターに返した。


「確かに恋愛は難しいものですわ。でも好意を抱くことは自由ですのよ。恋が叶ったときは嬉しいですけど、叶う前の想い馳せる瞬間もまた一興、楽しいものだと思うのですよ」


 僕はそれを聞いて、うーん、とうなった。


 そう、それは未だに涼香を忘れられないと思う自分が存在するからである。


 僕の心が揺らぐ。


 涼香はいつか戻ってくるのかもしれない。待ち続けることは胸が張り裂けそうになるほど苦しいけど、僕はその瞬間をも緊張しながら期待しているのかもしれない。絶対会えないとは限らないから、期待をするということ自体考え込まなければ、そこまで辛いものではないのは事実である。


 僕は惠谷ジュンに涼香の存在を伝えるべきか否か迷っていた。


 だが、僕の困った表情に気が付いた惠谷ジュンが僕に訊いてきた。


「もしかして、他に好きな方でもいらっしゃるのですか?」


 僕は見透かされたと愛想笑いをして正直に伝えることにした。


「心に決めていた人がいたんです。でも彼女は突然消失してしまって、僕は未だに彼女が戻ってくるのを待ち続けているのです。そして、偶然にも偶然に、その彼女とティファは見た目が瓜二つなんです」


 それを聞いた惠谷ジュンは口を開けて相当驚いていた。


「それは……偶然が過ぎますわね」


「そうでしょう? 僕の人生を操作する神様がいたとしたなら、そっくりな二人を僕に教えてどうしたいんでしょうかね。僕は困るばかりだというのに」


「私なら、もういっそのこと恋心をシフトしてティファさんだけを想う方が楽ですわ。私なら、ですけどね」


「楽だから良いってわけではないじゃないですか」


 僕は新しく置かれたグラスを触りながら言う。手触りだけでさっきのグラスと形が違うというのがわかる。


「やっぱり僕は楽な方を選ぶというわけにはいきません。一度しかない人生ですが、待ち続けて再び会えると信じて人生を賭けてみようと思います」


 僕はきっぱりと答えた。


 人生は賭けである。


 それは夢の賭けでもあれば恋愛の賭けでもある。そしてそれを纏めるのが人生と言うのだろう。


「そうですわね。その方が男らしくてカッコいいと思いますわ」


 惠谷ジュンの応援が僕の胸に響く。


 それからは、僕たちは話題を変えて何気ない会話を楽しんだ。


 惠谷ジュンは火照った頬で「そろそろおやすみなさい」と、微睡んだ眼で言った。


 僕も良い感じに気持ちよくなったことだし、惠谷ジュンと一緒にバーを後に部屋へ戻ることにした。


 部屋へ戻ったらきっとティファは眠っていることだろう。


 僕はティファの寝顔を想像しながら部屋の扉を開けたが、珍しいことにティファは起きていたようだ。


「なんだ、まだ起きていたの」


 スタンドライトの明かりだけがティファの後頭部を照らしていて、部屋の電気はついていなかったので僕は手探りで電気をつけた。


「おかえりなさい。つい読み込んでしまいました」


 電気がついてようやく僕に気が付いたようだ。


「てっきり眠っているものだと思ったよ。で、本は読み終えた?」


 僕が聞くとティファは満足そうに答えた。


「今ちょうど読み終えたところです。とても興味深い内容でした」


「良かったね。それで、何か新しい事でもわかったりした?」


 それを聞いてティファは複雑な表情を浮かべて僅かな声量で言った。


「理解しなければならないこと、知ることは知ったのですが、私はなんだかとても複雑な気持ちになりました」


「一体、何を知ったんだ?」


 聞いてはみたものの、ティファは話したくないようで顔を逸らす。


「調査のために必要なことかもしれないじゃないか」


「…………そうですよね……そうだとわかってはいるのですけれど……ごめんなさい、伝えるまでもう少し待ってくれませんか」


 僕はティファが言葉を詰まらせる理由が理解できず、話を逸らそうとするティファに対して少々苛立ってしまった。


「お願いですので、今日は何もなかったことにして眠りにつきましょうよ」


 ティファが僕の顔色を窺ってなるべく穏やかな口調で言った。


「……わかったよ。ティファにも事情っていうものがあるみたいだし、今日はこれ以上聞かないよ」


 ティファは安心したのか僕より先にベッドに入って直ぐに目を閉じた。


 その寝顔を見ていつもの寝顔があると嫌でも安心してしまった僕は、仕方なく電気を消してゆっくりと眠りにつくことにした。


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