第3話 旅支度
アレスは腕と足の怪我のためしばらく安静を余儀なくされた。その間に花弁運ぶ暖かい春風は少しずつ湿り気を帯び、一族が居を構える草原に梅雨がやってきた。
その日は朝になると雨が止んでいた。ツキツキと痛む足の傷をさすりながらアレスは布団を抜け出すと弓を持ちテントの外に出た。夜通し降っていた雨が草木からきらきらと滴り落ちる。
アレスはひとつ大きく伸びをすると草原の遠くを見つめて指笛を鳴らした。すると見つめた先から一頭の栗毛の馬が駆けてきた。馬がアレスの横を通りすぎようとしたとき、手綱と立て髪を一緒に掴むと同時にアレスは空に舞い左足から鎧に足をかけて走る馬に跨った。
「ナル!いい子だ!」
アレスは馬上で体制を整えるときゅっと手綱を張り脚を入れた。アレスからの合図でナルはさらに加速した。一族のテントから数百メートルほど離れたところに森が見えた。2人はそのまま森へ入って行った。
アレスが目を凝らすと白く細々とした木々の間を野生化した豚が群れを成して走っていた。
(どこかの一族の家畜か、方舟から逃げる時に置いていかれたのか…。2頭だけ頂こう。)
アレスは手綱を右にひくとナルの進路を変え、走る豚の群れの横にピタリと着くように促した。背から弓を、矢筒から矢を2本取り出すと一本を咥えてもう一本を弓につがえた。そして弦を引きながら豚に狙いを定めた。弦を引く手をそっと離す矢は空気を切り裂きながら豚の心の臓に突き刺さった。すかさず咥えていたもう一本の矢をつがえるともう一頭の豚を射た。アレスは手綱を引きナルの速度を緩めると横たわる豚のそばに降りた。地に足がつくと足の傷が痛んだのか少し顔を歪めた。軽く太ももの傷跡をさすりながら豚の横に正座し、両の手を合わせお辞儀をした。そして腰に携帯していたナイフを取り出すと慣れた手つきで豚を解体し始めた。
アレスが2頭の豚を解体し終える頃には太陽が頭上に登り、葉から溢れた陽の光が森を明るくし始めた。滴る汗を腕で拭いながら解体した肉をタジの葉(抗菌作用のある大きな葉)で丁寧に包むと大きな麻袋に詰めていった。
ひと通りの作業が終わり、アレスは立ち上がるとぐぅーっと背を伸ばしながら木に近づいて根に腰掛けた。そして、首にかけたタオルで汗を拭いながらキラキラと光る木の葉を眺めた。
(前に来た時はもっと大きな木があったんだよな…。こんなに陽の光もささなかったし。)
若い木々が生い茂るこの森は7年前にアレス達一族がこの近辺で方舟の襲来を受けた時に死んでしまった森だ。その後、一族はこの地を発つ際にファルカタという木を植えていった。
アレスは目を瞑り木々をすり抜ける初夏の風を感じていた。風で揺れる葉が擦れ合う音、リスが木を駆け上る音、遠くの川のせせらぎ、その川で跳ねる魚の水音…。一度失われたものだが7年の月日を経て再びアレスの耳に届いた。そして数ある音の中で一際騒がしい音がアレスに届いた。アレスは目を開けると森の入り口方向を見つめた。
「誰か来たな…。」
遠くから草をかき分けアレスの方へ向かってくる馬がいた。
「おーい!!アレス!遅いから迎えにきたよ!」
声を張り上げて馬上で両手を振っているのはエニだった。
2人は馬を引きながら森を出た。森を出た先は一面の草原とその奥に大海原が広がっていた。馬を木に繋ぎ、2人は草原に寝そべった。アレスは目を瞑りながら話し始めた。
「この森さ、7年前に方舟にやられたんだ。あの時は僕も子供で訳もわからずに母に手を引かれながら一族と逃げたんだ。やっと一族がこの森から安全なところへ移動しきった直後に森が枯れたんだ…。あっという間だったよ。それにとても怖かった…。あの青白い光が僕の日常を奪ったんだって実感したんだ。」
アレスは目を開けて体を起こした。そして横で寝そべるエニを見つめた。エニもそっと体を起こし膝を抱えるとアレスを見た。
「エニ…。僕は君と出会ったあの日も迫ってくる方舟の青白い光の恐怖を感じていた。でも、その時僕が見た光は恐怖するものじゃなかった。君が放ったあの光だよ。色は同じだけど、命を奪うものではなかった。それに母が言っていたんだ。僕たちが倒れていた場所は一箇所だけ小さな森になっていたって。もしかして、いや…あれは確実に君の力によるものなんでしょ。」
そう話すアレスにエニは決心したように話し始めた。
「私は2000年以上前にこの地上で生きていた生き物を模倣して作られた人造人間なの。私の母、ミレト様はもともとは地上の人ですごい科学者だった。それでウラノスにその能力を認められてアケメネスに来たの。そして私たちを作った。」
驚くアレスの顔を見て、エニは顔を膝に埋めながら話を続けた。
「私たちに不思議な力があるのは本当よ。それも悍ましい力…。方舟が放つあの光は私たちのエネルギーを使っているの。光に触れたありとあらゆる命のエネルギーを吸収して特定の場所にそのエネルギーを移したり、自身に溜め込むことができるの。」
エニの肩が小刻みに震えていた。
「私たちが…私があなたの大切な場所を、日常を奪っていたの。私にはそれを止めると言う考えさえなかった…。地上の人がどんな生活を強いられているかなんて考えもしなかった。ただただ自分に任された重要な仕事だと思ってこなしていた。無知な自分が本当に情けなくて恥ずかしい…。」
声を漏らして泣くエニの肩にアレスはそっと手をのせた。
「それでも君は来てくれた。このままじゃダメだって思ってくれたんだ。僕はそれだけでもとても感謝しているんだよ。ありがとう、エニ。今まではこのままずっと逃げ続ける人生を送るのかなって、同じ一族で生まれる子供達もそうやって生涯を終えていくんだろうなって思ってたんだ。でも、君がきてくれたおかげで僕は未来を明るく感じることができたんだよ。ねえエニ、僕たちで地上を守ろう。」
「うん、うん!」
エニはアレスの言葉にひとしきり頷き、涙を拭うと自身を奮い立たせるように拳をぎゅっと握りしめて海を見つめた。
それから1週間後、アレスとエニの旅立ちの日となった。
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