第2話 少女 エニ

 アレスが目を覚ますとそこはテントの中だった。床にはまだ荷解きが終わっていない箱が数箱置かれていた。自身の周りだけしっかりと荷解きが済まされていた。

 ウォン!ウォンウォン!!

 目を覚ました主人に気がつきテンが勢いよくベッドに飛び乗った。

「テン!あはは!やめろよ、くすぐったいだろ!」

 主人の目覚めに嬉しさを隠せないテンはブンブンと音を立てながら尾を振り、アレスの顔を舐めた。

「アレス!ああ、良かった!テングリよ、感謝いたします。」

 テントの奥から目の周りを赤くしたマラルが駆け寄ってきた。そしてアレスの頭を愛おしそうに抱き寄せた。気恥ずかしそうにアレスは母の顔を見つめ俯いた。

「母さん、ごめん…心配かけたよね。」

「本当に心配したわ。ごめんなさいね、アレス。私たちがもっとしっかり方舟の動きを見ていれば…。」

 マラルは息子を再び抱き寄せた。

「そんな、母さんたちのせいじゃないよ。方舟があんなふうに動くだなんて誰にも予想できないよ。今までだって追いかけてくるような素振りはなかった。」

 実際、アレス達一族が今まで観測してきた方舟の動きは下にある動植物の動きに関係なく、一定の地点に来たら動きを止めて青白い光を放つ、というものだ。今回のように人や生き物を追いかけるような動きを一族は見たこともなく、また他の一族から伝え聞いたことすらなかった。

「そういえば、女の子がいなかった?銀色の髪の子…。」

 慌てる息子を見て、マラルはそっと微笑んだ。そして奥の部屋を指差すと少し困ったように笑った。

「大丈夫、彼女は無事よ。あなたより先に目を覚ましたの。ゆっくりしててって言っても"手伝えることはありませんか"ってじっとしてないのよ。なんだか、悪い気はするけど今は荷解きした後の服を畳んでもらっているわ。」

 少女が気になったアレスはゆっくりと起きあがろうとした。しかし腕や足がズキンと痛み、思わずうめき声をあげると勢いよくベッドに仰けた。

「まだ動かないほうがいいわ。あなた、腕と足を撃たれてたのよ。」

 マラルはそっと布団をアレスにかけると横になるように促した。

「で、でも、僕はあの子に聞きたいことがたくさんあって…」

 再び、起きあがろうとすると部屋の奥から少女が来た。そして、アレスの顔を見ると手に持っていた衣類を落とし駆け寄ってきた。

「ア、アレス!よかった。あなたが無事で…。あなたにもしものことがあれば、あの方がどんなに悲しむか…。」

 少女はアレスの胸に飛び込むと涙を流した。

「君は…誰なんだ?どうして僕のこと…。」

 戸惑うアレスの手を少女は両の手で掬い上げるときゅっと握りしめて微笑んだ。

「私、エニといいます。母からの指示で地上に参りました。あなたに力を貸しなさいと。」

「地上に来た?ど、どこから…?」



 コトッ。マラルはベッド脇の小さなテーブルに茶の入ったコップを三つ置いた。

「お茶を淹れたから、ゆっくり飲みながらお話を聞かせてね。」

 マラルが微笑むとエニはこくりと頷き、コップを持ち上げゆっくりとお茶を飲んだ。そして、ふうっと小さく息を吐くとひとつひとつ言葉を慎重に選ぶように話し始めた。


「私は空の国アケメネス、皆さんでいうところの方舟から参りました-


-アケメネスは雄大な自然を誇る天空の楽園です。そこには王であるウラノスが数多の息子・娘達と暮らしています。私もウラノスの娘の一人でした。ですがある日、母であるミレト様から私含める12人の娘達はとある進言を受けたのです。それはこのままではアケメネスによって地上は滅ぶ、それを防ぐために地上に住まうある少年に力を貸しなさい、といった内容でした。そして、母は私以外の11人の娘達に私を地上に逃すように伝えました。11人の姉と母の尽力あって私のみが地上に逃げ延びることができました…。

 母の推測通り、そのときアケメネスの下方にはあなた方のテントがありました。ですが、私はアケメネスからの落下で気を失ってしまい…。さらには追っ手によってアレスを危険に晒してしまいました…。本当にごめんなさい。」


 コップに添えているエニの両手はぷるぷると震えていた。テーブルに数滴涙が落ちた。マラルはエニの背をさすりながらハンカチを手渡した。

 アレスはエニをじっと見つめて尋ねた。

「話してくれてありがとう。でも分からないんだ。どうして君のお母さんは僕のことを知っているんだ。僕は赤ん坊の頃からずっとこのテントと共に遊牧民として生きてきたんだ。空の上の人が僕を知る機会なんて。」

 戸惑うアレスにエニは困ったように、そして言いにくそうにマラルを横目で見た。

「マラルさん、アレスにまだ話していないことはありますか。」

 マラルはエニからの言葉に少し戸惑ったが、ゆっくり目を閉じ一息つくと、再び目を開け口を開いた。

 「アレスには私が育ての親であるということは伝えています。ですが、生みの親がどこの誰であるかは伝えていません。エニさん、貴方がここにいらっしゃったこととアレスの出生は強く関係しているのですね。」

 マラルは何かを察したようにエニに言った。そして、こくりと頷くエニに微笑むと涙ぐみながらアレスをじっと見つめた。

 「アレス、私はあなたの父親とは会ったことがあるの。彼は自身を狩人だと言っていたわ-


-私達一族はその日も方舟の襲来で豊かな地を後にしようと荷をまとめていたの。テントもほとんどたたみ終わって、あとは族長の合図を待つだけになっていた。そこに1人の狩人が赤ん坊のあなたを抱えて現れたの。彼は全身傷だらけで、その時すでに息も絶え絶えだった。周りの皆んなはそんな彼を見てひどく怯えてたわ。そして一番近くにいた私のもとに彼が近づいてきたの。彼の顔は額から頬にかけて酷い傷がついて目を開けるのもやっとな状態だったけど、その目をしっかりと開いて私の顔を見て彼は言ったわ。『この子を守って欲しい。自分にはもうその力は残っていない。この子は必ずこの星を守る力を持っている』と。私の腕にあなたを抱かせると彼はそのまま倒れて息を引き取ったわ。そして、他の人には見せていないのだけど…。」

 そういうとマラルは腰に下げている巾着から鈍色のネックレスを取り出してテーブルの上に置いた。

「これって…。」

 アレスはネックレスを見ると声を詰まらせた。そのネックレスの中央には方舟を示唆するような島の絵が彫られていた。

 「あなたの父親が握っていたの。これを見た時に思ったの。きっとあなたの生みの親のうちどちらかが方舟の人なのではないかって。でも、一族のみんなにこれを見られては、方舟を嫌悪する皆んなからあなたを守ることはできないと思って今まで隠してきたのよ。」

 ネックレスをそっとアレスに差し出すとマラルは微笑んだ。

 「一つだけわかって欲しいことがあるの。私があなたを引き取って育てようと思ったのはこの星を救うためではないわ。私の腕の中に収まったあなたが私の指を握ってきたのを見て"生きたい"という意志が強く伝わってきたの。それがとても愛おしくて…。」

 アレスの手を握りマラルは涙を流した。その手を握り返すとアレスはマラルの目を見つめ、

「僕は母さんが育ててくれたから今生きていられる。そのことに対する感謝はこの話を聞く前と後で何も変わらない。本当に感謝しているんだ。ありがとう…。」

 アレスは深く頭を下げた。

 「エニさん…。僕の生みの親はアケメネスの人間なのですか。」

 俯いたままアレスは尋ねた。エニは唇を噛み締めて頷いた。

 「そうなんですね。それでは僕は愛する家族を守るためにも、そして生みの親の意志を継ぐためにもここを発つ必要がある、そういうわけですね。きっとあなたはミレト様という方から何か策を授けられているのでしょう。アケメネスを滅ぼすための…。」

 アレスはマラルの手をぎゅっと握り強い眼差しでエニを見つめた。

「ええ。ミレト様はいくつかの地上の国や集落の名前をあげ、そこを経てアルケメスを滅ぼすために力を蓄えるようにと進言されました。」

 エニはアレスを見つめ返すと数歩下がって床に座ると頭を伏せた。

「お願いです。私とともに来てください、アレス。この世界は間違ってます。緑は…生命は生まれ出でたその地に足をつけていなければなりません。そうでなければどんどん命の形が歪んでしまう…。私には伝わってくるんです。この星の命は確実に歪みつつある。う、うう…。お願いします。力を貸してください…。」

 エニは額を床に強く押し付けながら肩を震わせていた。床に染みる涙を見たアレスはベッドから足を降ろし、そして自身も床に座った。足の痛みを押し殺すかのように強く拳を握りしめた。足に巻かれた包帯には赤い血が馴染みはじめていた。

「エニさん、顔をあげてください。僕も母と一族をこのまま方舟の恐怖に晒し続けたくはありません。それに最近は方舟が過ぎた荒野の緑地化もどんどん遅れています。いずれ、この星の命は吸い取られてしまう…。それは僕も感じていました。」

 アレスは光さすテントの入り口から草原を見つめた。外から春の風が入り込みアレスの髪を撫でた。

「行きます。きっとあなたの力になります。一緒にアケメネスを滅ぼしましょう。」

 アレスの言葉を聞き、エニははっと顔を上げた。その瞳には光に照らされた少年が映った。

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