第11話
「憶えてないわ」
「沙由里?」
夜中に窓から星空を見て呟く沙由里。大事な事は必ず私の目を見て話す女性だった。
「君が受けた臨床試験だろ?」
そう…彼女は憶えていた。知っていた。言わなかったのは無事、戻ると決心していたからだ。たった1人で背負ったんだ…
「そうだろ?沙由里…」
開いた大扉の先にある暗がりへ、深町は言葉を投げ掛けた。
「何…⁉︎この匂い」
レイナは思わず鼻を手で覆った。嗅いだ事の無い異臭、無数の気配。深町がパネルに手をかざすと薄暗いグリーンのライトに、それは照らし出された。
粘着質な光沢を浮かべる巣に思えるものが金属板の淵へ纏わりつき、1m程の見た事も無いムカデに似た夥しいものがせわしく動き回る。羽の無いそれは地を這いずり回り、羽のあるそれは、高さ70m以上はある空間へヴォンヴォンと音を立て、ゆっくりと宙を舞っている。飛ぶものの中には、ドクドクと脈打つ楕円体が幾つか連なった、卵のようなものがへばり付いた蟲もあった。
GM9と刻印された金属板、夥しい蟲、そして…
「何なの…⁉︎あれ…」
震える手で美雪が指差す先に、それはあった。
眼球の成れの果てか、充血しているようにも見える6つの眼のような赤黒い球体は左右対照になっていない。剥き出しの鋭利な歯は右下から崩れ、黄色い粘液のようなものを垂れ流し、ヌタヌタと滑りを放つ肉塊から浮き出て走る、血管のようなものが全身を不規則に脈打つ。所々、紅く流血する箇所には蟲が集り同じ様に身体を脈打たせ、点在する腫瘍の様な隆起の中では何かが蠢いていた。
プレートにはSAYURIの刻印。
「う、嘘でしょ…あれ、まさか…⁉︎」
美雪の声が震える。深町は応えた。
「沙由里だよ」
荒い息遣いが聞こえる。あの冷静なレイナからだ…理知的だからこそだろう。普段、冷静なのも、この残酷な現状も、受け入れ過ぎるのだ…しかし。
「落ち着くようにとは言わん…だが説明させてくれ」
「これっ!!」
打ち消すように美雪が叫んだ。
「戻るのよね…これ…⁉︎」
SAYURIを指差して絞り出すような声で美雪は言った。
「美雪?」
「こんな化け物に私達になれって言うの⁉︎」
呼び掛けるレイナを無視して叫ぶ美雪。レイナは俯くユッコに一瞬、目をやると、射る様な視線を美雪へ向けた。
GM9エリアに鋭い音が響く。レイナの左手が、美雪の頬を打擲していた。
「ユッコの前で、何て事言うの⁉︎」
美雪はその場で腰が砕けたように尻餅をつくと啜り泣いた。
「イヤよ…ユッコママを返してよ…私…」
レイナはそれを聞き、憐憫の目を美雪へ向ける。知っている…美雪はユッコママが大好きだった。私達とユッコママの間にあるのは、溢れる笑顔の思い出ばかりだった。
深呼吸をするレイナ。
「おじさま…説明して頂きます」
決然とした口調でレイナは深町へ言った。
「もちろんだ…」
そう言うと深町はスーツの懐から、奇妙な円筒状の機械を取り出し、GM9システムの方へ歩いてゆく。悲愴な表情をした美雪が座り込んだまま呼び止めた。
「おじさん、危ないわ!蟲…」
「大丈夫。これらは、まだ我々を認識できないんだよ」
深町はGM9と刻印された金属板の先にある、システムの前まで行くと持っている機械を挿し込んだ。
すると、0と1で青く表記されたホログラムが目の前に開き、瞬く間にGM9エリア全体へ拡がってゆく。
「これは…」
GM9エリアを見上げ、声を洩らすレイナ。
「これはGM9が管理している重力波を二進法で表したものだ。主要都市は皆、このように数値化されて管理されているんだ…阿頼耶識を制御するために」
レイナが聞き返す。
「阿頼耶識を?」
「そうだ。例えばだが…判らないね?未来、大切なものがどうなるのか…宝物も…人も」
悲しそうにSAYURIを見つめる、深町の目を見た美雪は、自分の友人家族は最も深刻な被害者だとわかり、涙を溢し呟いた。
「ごめんね、ユッコ…」
「よく聞いてて、ミユ。ここからは私、よく解らなかったから…」
隣のユッコが俯いたまま静かに言った。ホログラムの前で深町は続けた。
「この世界の全ては、確実性と不確実性の2重構造だ。存在や法則といった確実性、その動態や相互作用といった厳密にはコントロール不能な不確実性…数値化して予測する事は不可能だ。だが重力はどうだ?最も抵抗の弱い方向へ流れるという、不変の法則に従い数値化を行えば、複雑な演算が必要になるが、確実な予測が出来るんだ」
「ちょっと待って」
左手で頭を抱えるレイナが、右手を力なく前に出して言った。
「全ての存在が持つ重力…それを数値化して未来を予測出来る。そういう事かしら?…でも人にはそれぞれ意思があるわ。それに…それと阿頼耶識って何の関係があるの?」
-気付くのが早い子だ…複合的な人の意思を演算処理すると、システムに損傷をきたす…それを許せばだが。今は掻い摘んで説明せねばなるまい。
「確実に予測出来た未来の分しか、阿頼耶識には入れないんだ。解りにくいかも知れないが、レイナ君、例えば君が今後、影響を受ける全ての事は現在に内在しているんだよ。それが形を変えて、今後の君に影響を与えるんだ。それは音楽だったり食べ物だったり、もちろん引力、重力もそうだ。だが人の持つキャパシティでは予測が出来ない。しかし、もし重力演算により確実な予測が出来れば、それは人の持つキャパシティを超えて、内在する現在を知る事に繋がる。阿頼耶識とはその果てに在るものなんだ。つまり阿頼耶識とは…」
「現在にある…」
レイナが呟いた。
「流石はレイナ君。そして、それは物質ではない。存在が持つ不確実性の集合、それこそが阿頼耶識…存在理由の深淵、人で云えば無意識の奥に存在するものだ。もちろん物質にも影響を及ぼす。しかし物質から阿頼耶識に干渉するためには特殊なプロセスが必要なんだ。それを経ない限りは力学的に不可逆、つまり現界に比例し物理世界を滅ぼすという性質である阿頼耶識が、物質に対し1方的な上位の関係性を持つ事になる…これだけでも危険だが、問題はそんなところでは無い」
GM9専用回線が鳴っていた。深町がスイッチを押して応答する。
「RAKILLか、どうした?」
「RAKILL⁉︎」
深町の言葉にレイナが声を上げる。RAKILL。先日の第3副都心で起きた記憶改竄事件における首謀とされる、都指定のサイキック犯罪組織。何故、深町と話している?目の前に相手の映像が映し出される。不良っぽい少年だ。ユッコ達と同い年くらいだろうか。
「ダメだな!第3副都心のやつとはワケが違う。これは止められないぜ。とっとと避難しな」
「そうか…」
深町が呟いて回線を切る。直後、GM9システムに青白い光が明滅し始めた。
「時間切れだ」
明滅する光の中、深町が言った。
「時間切れって何?ちょっと待って!」
美雪が叫んだ。
「私、全然わからなかった!それにユッコママは⁉︎ユッコママについて教えてよ!」
叫ぶ美雪に、深町は申し訳無さそうに頬を緩めた。
「済まない美雪君…優子。私は仲間を地上に置いて来ているんだ。戻らなくてはならない」
「仲間って⁉︎おじさんRAKILLなの⁉︎」
レイナも叫ぶ。
「…彼らは実は犯罪組織では無いんだ。だが私が置いてきた仲間というのは警察仲間の事だ。彼らを見殺しには出来ん。優子…」
深町は歩み寄ると娘の頬に優しく手を当てた。
「パパはもう戻れないかも知れない。こんなお別れで済まないが出来るだけの事はする。そして戻って来れたら一緒に元の世界に戻そう…生きて戻るよ」
エリアを重低音が支配したかと思うと急激に高くなり始め、断続的だった明滅が継続し強力になってゆく。
『GM1~9、Satelite Memory Systemへアクセスが完了しました。連携を開始します』
警告アラートがエリアに響く。
「生きていれば全てが解る時は必ず来る。みんなで生きて戻るんだ。あの非常口の先に乗って来た車がある。自動操車で行き先は多摩…ママと3人で住んでいた自宅に設定してある。行きなさい!」
「えう、あ」
戸惑うユッコに深町は力強い声で言った。
「約束だ、パパも必ず行く。パパが戻った時、優子が生きていなかったら私はどうしたら良い?ママも泣いてしまう」
「マ、マ…?」
「そう!ママも戻る」
ユッコの目に光が戻り始めた。深町は顔を綻ばせた。
「行くんだ」
深町の言葉にユッコは戸惑いながらも頷き、美雪とレイナの手を引いて言った。
「みんな…行くよ!」
美雪とレイナも1瞬、戸惑いを見せたが、嬉しそうに顔を見合わせた。走りながら美雪が言う。
「うん、行こう!…ユッコ、私もおじさんの言った事、良く解らなかったけどユッコママの事、絶対に諦めないよ!」
レイナが言う。
「ええ、行きましょう、一緒に。どこまでも!」
2人に目を向けるユッコ。みんなが私と一緒に戦ってくれる。目に、表情に光が戻った。
戦うんだ。私と一緒に戦ってくれる、みんなのために。
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