根拠のない恐怖
火龍からの撤退――すなわち、ダンジョンからの脱出を拒んだテナに、キャルが誰よりも目を輝かせる。
「いい方法、思いついた?」
そう問われて、テナは首を振った。
「わからないけど……このまま背を向けたら怖い……気がする」
首をかしげるキャルを押しのけて、今度はミリアが尋ねる。
「何か、根拠があるの?」
「ない……けど……」
震えるテナの肩にミリアが手を置いた。
「こういう時、根拠のない恐怖が冒険者を襲うことがあるわ。あたしだってある――」
「アタシはないよー♪」
「――うるさい。それでね、あんたの怖い気持ちは分かるけど、今はきっとそれを超えないといけないんだと思う。このままじっとしていても、状況が良くならないことに変わりはないからね」
「うん……」
ミリアは優しく諭すように言ったが、テナは震えたままだった。
ミリアの言うことは正しい。確かに、今の状況は『絶対に勝てない我慢比べ』を強いられている。だが、我慢比べから逃げたらどうなるのだろうか。それこそ、火龍の思うつぼかもしれない。
もちろん、ミリアもそういったことを考えていないわけではないだろう。我慢比べをするよりはましな選択をする……妥当な判断のはずだ。同じ歴戦の猛者であるウォロクが異論を挟まないのが何よりの証拠。
「にゃぅ……」
テナはすっかり意気消沈していた。尻尾もだらりと垂れ下がっている。そんなテナを見て、俺も怖くなってきた。
逃げることが怖いわけじゃない。
テナの恐怖を無視することが怖いのだ。
「あの、俺も逃げたくありません」
口をついて言葉が出た。
「……あのねぇ、あんたにはテナを励ますことを期待してるんだけど?」
「俺は今まで、テナが本気で怖がっている時に励ましたことはありません」
「「おいおい」」
ミリアが呆れた声を出す。あとウォロクも。
だが、引き下がるわけにはいかない。
「テナが本気の時は、一緒に怖がるって決めているんです」
「怖がりが増えてどうすんのよ……」
ミリアが肩を落とす一方で、キャルはうきうきした様子で身体を揺らしていた。
「これで決まったねー! ……おろ?」
キャルが急に歩き出したかと思えば、意識を失っている冒険者たちに近づいていく。
「う、うぅん……」
あ、ひとり意識が戻っ――
「えい」
――たかと思えば、キャルにあごを殴られて再び気絶した。
嘘だろ。ミリアとウォロクの方を見たが、二人とも頭を抱えていた。テナは「にゅん」と目を丸くしていた。
キャルは言う。
「動けない人に意識があっても意味ないよん♪」
「いや、ぜったい多数決を崩されたくないからですよね」
「動けないのはほんとでしょー?」
どういうことだろうか。
ミリアの方を見ると、「龍に
『龍に睨まれた』とは、龍と相対して動けなくなってしまうことを言う。龍に睨まれた冒険者は、立ち上がることすらままならないのだとか。
「よくあることよ」と言って、ミリアは物憂げな表情で瞬きする。
ミリアに比べて、キャルの嬉しそうな顔といったらないな……。
ミリアは文句を言わないが、ミリアとウォロクはA級冒険者だ。そもそも多数決なんて無視してもいいくらい、自分たちの言葉に重く価値を置いていいのはずだった。
それをしないのはきっと、パーティ全体の意思統一を優先する方に価値を置いてくれたからなのだろう。もっと言えば、俺とテナの言葉に価値を置いてくれている。
であれば、俺たちもミリアたちと同じ価値の分だけ働かなくてはならない。
「俺はテナのことも、ミリアさんのことも信じています。だから、逃げて戦うという選択をしましょう」
「キャハハ! おもしろくなってきたー!」
「キャルさんはあんまり信じていません」
「えーひどーい」と言いながら、キャルはおかしそうに笑っていた。
ミリアは「逃げて戦うって……そう言われてもね」と言って、呆れながらも考えてくれているようだった
「キャハハ! ミリアってば、ネリスがいないから怖いんでしょー?」
キャルが茶化すように言う。だが、ミリアは少しも苛立つ素振りすら見せなかった。
「……怖いわよ。あたしが死んだら、誰がネリスの背中を守ってくれるの」
「アタシー♪」
「ばか。絶対死んでやらないから」
「そうこなくっちゃねー♪」
さて……無責任にも『戦う』と言ってしまった以上、俺も考えなくてはならない。
戦うにしても、こちらの死角は無数にあって、相手の死角は一つもない。逃げるにしても、背後を突かれて一瞬で壊滅……そんな未来が待っている気がする。
あるいは、A級冒険者たちだけなら生き残れるかもしれないが、この人たちがそういうことをしないのは既に知っている。
ウォロクは短い付き合いだが、真っ先に他の冒険者を助けに行こうとした
「キャルさんはなんか違うけど」
「?」
考えろ……圧倒的に不利な状況を覆す、逆転の一手を。
「……………………」
待てよ――
「――あの、物凄く言い方が悪いんですが、ミリアさんとウォロクさんはどうしてあの龍を倒せなかったんですか?」
「ほんとに言い方が悪いわね……」
「本当に言い方が悪いのう……」
「ごめんなさい」申し訳ないが、この言い方の方が良い気がしたのである。
「じゃが、答えてやろう。単純な話、隙が全くないんじゃ」
「そうね、自分自身が致命的な一撃を喰らわないために、大技を全く使ってこない」
「その上、マグマの中を移動しながら徹底的に死角を突く動きをしよる」
「相当戦い慣れしてる……あの感じ、多分何人も冒険者がやられてるわ」
大技を使ってこない……戦い慣れしている……。
「どうすれば、龍は大技を使ってくると思いますか?」
俺はふと、闇のダンジョンで戦った闇の龍……『断末魔の
「そうね……あの龍が隙を見せるとすれば、それはあたしたちが龍に対して絶対に攻撃できない位置にいる時……でしょうね」
ミリアが首を横に振ると、ウォロクが「そんな時は訪れないっちゅー話だの」とあごひげを触る。
本当にそんな時は訪れないのだろうか。
今なお震えて立っているテナを見て、俺はテナが感じた恐怖の本質について考える。
テナが恐れたのは、敵に背を向けること。撤退、逃げだ。
逃げるということはすなわち、この領域内からの脱出――それが意味するのは、領域と領域を挟んだ通路を通ることを意味する。
(……ダンジョンの通路に逃げ場はない)
俺は嫌な想像をしてしまった。
巨大な火龍の
そして、この想像が現実になる気がしてならなかった。
「俺たちが通路に中間あたりに入った時、龍は大技――ブレスを吐いて来ると思います」
だとすれば、道は一つしかない。
「だからこそ、通路に入りましょう――」
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