09【全ての始まり】

 


「ね、どうして空って青いのかな」


 別に、それほど意味のある質問ではなかった。

 暇で暇で仕方なくて、気を紛らわせようと思って、なんとなく言ってみただけの質問だった。


「……ねー、聞いてるー? ねーえー!」


 一面の麦畑が広がる田舎町。

 その風景で最も目立つ木の下で、椅子に座り、足をブラブラさせ、退屈ですと言わんばかりに顔をしかめてみせる少女。

 そんな彼女に、


「モデルは動くな」


 黒一色の服に身を包んだ少年が、その若さからは想像できないほど固い口調で言い据えた。

 彼の視線は、椅子に座る少女ではなく、目の前に置かれたキャンバスへ向かう。

 片手には絵筆。もう片方の手には、絵具を乗せた木の板。

 体の線は細く、外見だけは華奢な少女にも見える少年。


 しかし顔が特徴的だ。視線一つで相手を射殺すかの如く吊り上がった目尻。若いくせに眉間に刻み付けられた彫刻のような皺。口は不機嫌そうにひん曲がり、表情は曇りっぱなし。喜怒哀楽の喜と楽だけ綺麗に抜き取ったような印象。

 少なくとも、幸せそうな顔には見えなかった。


「貴様は黙って座っていろ。それがモデルの仕事だ。自分の絵を描けと申し込んできたのは貴様だろ。違うか」


「そーですけどー!」


「なら口を閉ざせ。そして動くな。気が散る」


「あーあー! 止められるもんなら止めてみろーい! あふぉーい!」


「…………」


 動かないどころか、少女は椅子の上に乗って踊り始めた。

 狭い足場でなんとも器用。どこの民族舞踊かと思うほど独特なダンスを披露しつつ、「あそーれ! ほーい! ぶえい!」……それは何の掛け声なんだ。


 しかし少年は我関せず。動くなと言っておきながら、彼は動く少女などお構いなしに黙々と絵を描き続ける。

 もはやモデルである少女を丸ごと無視して、勝手に人物画から風景画にシフトしたようだった。


「……、」


「…………」


「……ねー、ボク踊っちゃってるんですけど」


「それがどうした」


「いやツッコめよ!」


 少女は軽々と椅子から飛び降りながら、


「つまんねー! 石かキミは! そんなブアイソーはツラしちゃってさー!」


 少年の隣までタタタタと駆け寄ると……あろうことか、描画の最中だというのに少年の顔を両手で挟んでムニムニ揉み回す。


「うわっ! 顔かたっ! うそでしょ!? キミこれ大丈夫!? 顔! 凍っちゃってない!?」


「……黙れ」


「えー! ぼくと同い年の男の子とは思えないよこれ! カッチカチじゃん!」


「……黙っていろ」


「───えい!」


 後から聞けば、どれだけ表情が固いか気になったらしい。

 しかし、それを確かめるにしたって、もっと色々手段があっただろう。

 よりにもよって……殴らなくても。




 ゴンッッッ!! と。

 グーで殴られた少年の顔から、とんでもない音が鳴り響いた。




 その瞬間、少女は小さく「あ、やべ」と。そんな声など掻き消すほど大きな音を立てて、少年は椅子もキャンバスも引っ繰り返しながら地面を転がっていった。入れ過ぎなのだ、力を。

 しん……と静寂。

 地面に倒れた少年は、そのままピクリとも動かなくなる。


「あわわ……あわわわわわ……っ」


 今さらになって少女が震え出した。

 やっちゃった、本気で殴っちゃった。───いくら後悔しても時間は戻らない。


「…………」


 何も言わず、少年はスクッと立ち上がる。

 そして倒れた椅子を起こし、キャンバスを乗せていた台を丁寧に元の配置に戻していく。

 痛みを感じているとは思えないほど、とても滑らかな動きだった。


「……ほっ……」


 それを見て少女は一安心。

 なーんだ、大丈夫か。そんな風に思った次の瞬間だった。




 バッッッガァァァァァン!!!!!! と。

 少女の殴打とは比べ物にならないくらい、とんでもない爆音が炸裂した。




 相手が女の子だろうと容赦なし。少年は大きなキャンバスを両手に持ち、そのまま全力フルスイングで少女の顔面に叩き付けていた。

 呆気ない結末だった。

 少女の体は二メートルくらい後方に吹っ飛び、力なく地面を転がっていく。

 しん……と静寂。

 倒れた少女は、そのままピクリとも動かなくなる。


「ふんっ」


 気が晴れたのか、荒い鼻息と共に少年はドカッと椅子に座る。さっさと絵に戻ろうとして……これは自業自得、さっき少女を殴ったせいで、キャンバスに大穴が空いていた。

 仕方ない。今日はやめよう。

 そう思い、椅子から立ち上がろうとしたところで、


「ちょいやさー!」


「ごっ!?」


 少女のスライディングが見事に決まり、少年はすごい勢いで真横に倒れた。地面に側頭部を強打する。


「な、何するのさー!」


「それはこっちの台詞だ馬鹿が!!」


 真っ赤な鼻先を両手で押さえる少女と、揺れる頭に眉間を歪ませる少年が全力で叫び合う。


「どーかしてるよ女の子の顔を殴るなんて! サイテーだよ! バーカ! ボクお嫁に行けなくなっちゃったらどーすんだ! 責任とれんのキミ!?」


「貴様こそ何のつもりだ!? 座れと言えば座らず! 動くなと言えば動き! 挙句の果てに暴力か!? 何故だ! どういう事だ! 脳まで腐って落ちたのか!? 猿でももっと慎みがある!」


「さ、サルだあ!? それがか弱い美少女に言うセリフ!? あんな思い切り殴っといて!?」


「か弱い美少女!? どこにいるんだそんな生き物! 私は見た事も聞いた事もないな!」


「んなっ!」


「今まで貴様の機嫌を損ねぬようと、過度に美化して描いた絵が仇になったようだ! ふん! これからはより忠実に、粗暴に歪む貴様の顔面をそのまま描いてやる!」


「言ったなこのヤロー!!」


「文句でもあるのか猿女!!」


 互いに、幼い頃から知り合う仲だからこそ容赦のない殴り合いが始まってしまう。

 雲一つない、鮮やかな青が冴え渡る快晴の日。

 少女の家の裏庭での出来事だった。







       《center》※※※※※※※※※※《/center》







「ねーねー知ってる知ってる知ってる!? 『錬金術』だって! 最近発見された魔術らしいんだけどね! げんそはいれつ? を変えて、金属とか作るんだって! よく知らないけど! すごくない!? 素晴らしい発見だよこれは! 新たな歴史の幕開けだ!」


「……動くな」


「なんだよー! せっかくボクが話題を振ってあげてるのに! キミも少しは相手に話を合わせる事を覚えたらどーかな! そんなんじゃモテないよ!?」


「…………」


 さすがに限界が来た。

 絵を描く手を止めて、少年は目頭を押さえて「ふう……」と。

 怒りを抑えるみたいに、深く息を吐く。


「……学び舎へ入れば少しは慎ましさを学ぶだろうと期待した私が馬鹿だった」


「はあー!? なにそれー!」


 椅子の上でいつものように足をブラブラさせていた少女が、怒って立ち上がって少年に詰め寄る。

 ───魔術学校だったか。

 全く興味のない少年にはよく分からなかったが、なんでも彼女の父親はこの辺りではそこそこ名の知れた魔術師らしく、そのツテで、彼女はこの国一番の魔術学校に入学する事になったのだ。


 実際に入校したのが、約三ヵ月前。

 キャンバスを少女に叩き付け、喧嘩して終わってしまったあの日の、その次の日の事だった。


「心からの私の感想だ。そして予想もできた。貴様は今後、何一つ学ぶ事なく魔術の道を諦めるだろう」


「なっ! なんでそんなヒドイこと言うの!?」


「魔術の道とて結局は研究の道だ。貴様のような落ち着きを知らん奴に務まるとは思えん」


「たあ!」


「ぐ!?」


 ついでに言うなら、そうやってすぐ短気を起こして、何かあれば迷う事なく暴力に頼るような奴も、絶対研究には向かない。

 キャンバス越しに、少女のチョップが少年の脳天へ落ちた。


「なにさ! ちょっとぐらい気をつかってくれたっていいじゃないか! ボクだってそーゆーの言われると傷付くんだぞ!?」


「傷付けられたのは私の方だ!」


「ボクだって傷付いたよ! もっと優しくしてくれてもいいだろ!?」


「その言葉! そっくりそのまま返してやる!」


 とまあそんな感じで、いつも通り喧嘩になる二人。

 しかし今日は用事が用事なので、殴り合いだけはせず、散々口汚く互いに罵り合った末に、


「…………」


「…………」


 最後は二人して沈黙だった。

 少女はムスッとしかめっ面。分かりやすくそっぽを向き、静かに椅子に座る。

 少年は元から気難しそうだった顔をさらに難しくさせ、今回は無事だったキャンバスに、しかめっ面の少女の姿をそのまま絵にしていく。


 ……そもそもは三ヵ月前、少女が「これからは頻繁に会えなくなるから」と、画家を目指す幼馴染の少年に自分の絵を描いてほしいと頼んだのが始まりだった。

 で、三ヵ月前は喧嘩で終わってしまい、少女は魔術学校に行ってしまった。

 一年に数回だけ取れる休みを利用し、こうして彼女が帰ってきて、あの日描けなかった絵をもう一度描いてほしいと依頼してきたのが今日だ。


「……ぶすー……」


「随分と不細工なふくれっ面だ。ああ、元からか」


「んだとこのっ……あ……」


 咄嗟に言い返しそうになったのを抑え、少女は何も言わずに椅子に座る。

 いつもとは違うその様子に、少年は「?」とキャンバスの脇から少女を覗き見る。


「……今ボクはキミを無視しています……」


「動かないのならば非常に助かるな。そのまま永遠に無視をしていてくれ」


「……謝ってくれるまで何もしゃべりません……」


「モデルは静かな方がいい。協力的で実に結構」


「っ!」


 ムカついたのか何なのか、少女は椅子の上に立ち、無言で踊り始めた。

 黙々と絵を描く少年と、しかめっ面で黙ったまま派手に踊る少女。

 実にシュールな絵面が出来上がる。


「……はぁ……」


 気が散る。

 踊っていては真面な絵も描けないし。

 しかし謝るのは気が引けたから、少年は、


「……空気中の粒子が、」


「?」


「太陽の光を散乱させているらしい」


 突然何かを語り出した少年に、思わず少女は踊るのをやめ、振り向いていた。


「そもそも太陽の光というのが曲者で、あれは複数の色を合わせた光のようだ。白一色ではなく、赤、橙、黄、緑、青、紫など多岐に渡る。色の三原色と似た原理だ。それが人間の目には捉え切れんという話らしい。その中でも青の光が特に───」


「え? ちょっと……?」


「……? なんだ、貴様が知りたがっていた事だろう」


「知りたが……え? ボク、なんにも言ってないけど……空気の何が、とか。……待って、キミなんの話してんの?」


「何を言っている。貴様が尋ねたのだろう。三ヵ月前、なぜ空は青いのかと」


「……さんかげつまえ……?」


 少女は目をパチクリさせる。

 そんな彼女の様子に、少年は気付かないまま口を動かし、


「どうだ、教えてやったぞ。少しは感謝をしたらどうだ。ちなみに言うが、この話はどんな教本にも載っていない。私が個人的に、私の手法で得た情報だ。その労力を考えれば、貴様が私にどれだけ感謝しても足りな」


「いや、ていうか」


 少女は少年の言葉を遮って、


「そんな三ヵ月前の話とか、ボク、覚えてないんだけど……」


「……は?」


「え、てことはキミ、ボクがずーっと前に、なんとなーく言ったことを、ずーっと覚えて調べてくれてたって、こと……?」


 その瞬間、少年は自分の犯した最大の過ちに気付いたらしい。

 気難しそうな顔を真っ赤に膨れ上がらせ、今にも弾け飛ばんばかりの恥を無視やり抑え込み、キャンバスの壁に己の顔を隠す。そこで黙々と絵を描くフリをする。


「……あああああああああええええええええええええ!?」


 それと反対に、少女の顔は満面の笑みだった。


「うそ、そうなの? そうなの!? え、え、え!? キミ、ボクが言ったことをずっと覚えてて、しかもボクのために! ボ、ク、の、た、め、に! 色々頑張ってくれてたってこと!? この三ヵ月!? うそー!!」


「───っ! ──────っ!!」


「なんだーい少年、嬉しいことしてくれるじゃーん! あははははは! ボクのために! なんとボクのために! おっほー! どうしたんだーい? ボクと会えないからってそんなに寂しがらなくてもいーんだよー?」


「黙れ!!」


「ねーねーもう一回聞かせてくれよ! 空が青い理由! 自分で調べたってホントに!? すげーじゃん! 天才だよキミ!」


「黙れ!! また殴られたいか!!」


 怒った椅子から立ち上がる少年だったが、一度調子に乗った少女はもう止められない。


「恥ずかしがんないでよー! ボク今すっごい嬉しいんだ! んはは、そっかー! ボクってばキミにそんなに大切に想われてたのかー!」


「ええいクソ!」


「うわ!?」


 いっそ力づくで口を塞いでやろうと襲い掛かる少年から、少女はひらりと身をかわす。


「なになに追いかけっこ!? ちっちゃい頃依頼じゃん! いひひ! 捕まえられるもんなら捕まえてみんしゃーい!」


「貴様ぁ……!! 私を馬鹿にするのも大概にしろ!」


「やーだねー! いい話のネタゲット! 学校の友達に言っちゃおー!」


「この……っ!!」


 その日は珍しく、殴り合いではなく逃走劇が繰り広げられた。

 麦畑が鮮やかに彩られる秋中旬。

 少年の家の裏庭での出来事だった。







       《center》※※※※※※※※※※《/center》







「……なんだそれは」


「いやー、ドジっちゃって」


 顔に包帯を巻いた状態でやって来た少女に、少年は面食らっていた。

 額と、片目と、首にもビッシリと、白い布が肌を覆うように巻き付けられていた。


「やっぱキミの言った通りだわ。ボクって研究に向かないみたい。演習室でね……何間違ったんだろ、今でもよく分かってないんだけど。魔術の実験でちょっとミスって、そのままボン! って」


 ボン! のタイミングで手を広げ、少女は爆発のジェスチャー。

 つまり、魔術の研究の最中に派手なミスをやらかして、爆発だか何だかに巻き込まれて怪我をした、という事らしかった。


「……ふん。だから言ったのだ、魔術の道を諦めると」


「ちょっとー、まだ諦めてないんですけどー」


「そのうち諦める事になる」


 諦めた方がいい。そんな怪我をするくらいなら。

 ……とは、さすがに言えなかった。

 少年はそのまま何も言わず、地面に置いた画材一式を再び肩にかけ直し、少女に背を向ける。


「ちょっとちょっと! どこ行くのさ!?」


「帰る」


「なんでー!? 来たばっかじゃん!」


「……はあ」


 鉛のように重い溜息だった。

 少年はいつも以上に険しい顔で振り向きながら、


「……一年ぶりに帰省し、また絵を描いてほしいと手紙を寄越したのは貴様だ。私はこれでも忙しい。街からここへ来るだけで半日掛かりだ。だが馴染みの知り合いの頼みだからと思いこうして来てみれば……なんだそれは。その包帯まみれの面のために、わざわざキャンバスと絵具を使い潰せと言うのか?」


「うっ……いつにもまして辛辣……」


「馬鹿にするのも大概にしろ。これでも私は絵描きとして名が売れ始めたばかりだ。妙な絵でも描いて気概を損なったらどうする」


 自分でも、なぜこんなに厳しい言葉が出てくるのか分からなかった。

 ただ、怒っていた事は確かだ。

 何に怒っていたのかは分からないが。


「ふん。つまらん事に時間を使った」


「あ! 待って待って待って! せっかく来たんだから話そうよ! 次は何年後になるか分かんないんだからさー!」


「何を話せばいい。貴様の知能に合わせた話題には心当たりがないが?」


「ぐっ。……ホンっト、しばらく会わないうちにチョー性格悪くなったよね」


 ぐぬぬぬ、と唸り、らしくもなく真剣な表情で腕を組み、考える仕草の少女。

 せめてどんな言葉が出て来るのかだけは聞いてやろうと、少年は怒ったまま彼女の顔を睨み付ける。

 その包帯まみれの顔を。

 包帯の内側に、どんな傷が広がっているのかを嫌に想像しながら。


「あ! じゃあこうしよう!」


 彼女は閃いたみたいに、


「ボクはこの一年、キミがどういう風に過ごしてたのか聞きたいな!」


「……は?」


「だってー! ボクは何度もキミに手紙を送ってるのに、キミからは時々しか返してくれなかったじゃんか! 恥ずかしいから言うのヤだったけど、しっかり寂しかったんだぞ!」


「手紙を書く間もないほどに多忙だったのだ」


「ボクだって忙しかった! でも頑張って書いた! だからほら! ボクにも聞かせてよ! キミの話!」


「……ふん」


 どうせ、今から戻ったところで都市への馬車はなくなっている。

 ならば実家に戻るしかないが、あの家にはもう一年近く戻っていない。あの家を管理する親族もいない。虫と埃でいっぱいになっているかと思うと戻る気が失せる。


 仕方なしに、少年は椅子を広げ、そこに腰を下ろす。

 お、やった! 少女もそう言うと、持ってきた椅子に座る。


「何から聞きたい。答えてやる」


「うわ、何も聞きたくなくなる……。でも、今日はお言葉に甘えさせていただきましょう」


 その日は珍しく、絵を描かずに、二人は話し合っていた。

 話し合ったとは言っても、少年が勝手に一人で喋り、少女はそれを聞いているだけだった。


 少年の語る話は難解を極めた。


 太陽の光がどうとか、屈折がどうとか。水の成分だの、薬品の化学式だの。

 星の動きの規則性。動物と植物の相互作用。質量を持つものなら誰もが持つ万有引力。地面の内側がどうとか。夜空に浮かぶ月がどうとか。……魔術を使わずに空を飛ぶ方法に至っては、少女は最初から最後まで何一つ理解できなかった。

 理解できなかったけれど、ずっと嬉しそうだった。

 少年が語る自然科学の知識は、少女には一つも分からなかったが、それでも楽しそうだった。


「そういう研究者になったら?」と少女は言った。

「絵を描く気が起きない時の暇潰しだ」と少年は答えた。

 しかし、不思議な事が一つ。

 少年が話した内容の中には、ただの一つも、絵についての話は無かった。


「つまりこの式はだな」


 何分……。

 いや、もしかしたら一時間は話し続けていたか。


「確実に解が0になるのだ。凡俗共には理解の及ばぬ話だが、この等式はこれまで見てきたどの数列よりも美しく、小さい世界に収まった無限の大宇宙のように」


「あはは」


「……? どうした。感激こそすれ、笑うような話ではないが」


「ううん、違うの。なんかちょっと……久しぶりに楽しかったから」


「…………」


 少女の、おそらく無意識に言ってしまったであろうその言葉に、少年は何も言えなかった。

 久しぶりに楽しかった? なんだその言い方は。

 その言い方じゃあ、まるで。

 まるで。


「おい」


「え?」


 魔術学校は大丈夫なんだろうな?

 ……そんな簡単な言葉が、どうしても言えない。

 言えないのは、そこに巨大な闇が広がっているような気がしたからだ。

 言ってしまったら最後、見なければよかったものを見てしまいそうで。


「……なんでもない。この一年で間抜け面に磨きが掛かったなと思っただけだ」


「えー! なにそれー!」


 だから、何も言わなかったし、何も訊けなかった。

 でも、どうだったのだろう。

 仮に訊いていたとして、自分に何ができたのだろう。


 ───何ができた?


 空を青さを解明できる程度の知識で。

 自然の摂理を理解する程度の頭脳で。

 一体、何が。







       《center》※※※※※※※※※※《/center》







「やだ! やめてよ!」


「黙れ! 座ってろ!」


 取っ組み合い、なんて言葉が似合わないほど一方的だった。

 ここまで年齢を重ねれば、やはり男なのだ。純粋な力で女性に負けるはずがない。


「嫌っ、やだ!!」


「大人しくしていろ!!」


 青年は、幼馴染の女性の服を思い切り引っ張り、無理やり脱がせようとする。彼女は叫んで必死に抵抗する。

 一見すれば、暴漢に襲われる女性の図。

 だけど違う。

 違うのだ。


「あの日! 一年前! 貴様が包帯を巻いて帰ってきた時! 何かは察していた! そして今だ!」


 女が息を飲むのが分かる。


「騙せると思ったのか!? 隠し通せると本気で思ったのか!?」


 ついに青年の方が力で押し切った。

 女性の手を払い除け、彼女の衣服を力任せに引き千切る。

 その。

 中から現れたのは。


「やだぁぁああああああああああああああああああ!!」


 彼女の細い腕のどこにそんな力があったのか、青年の体は壁際まで一気に押し飛ばされた。

 でも、もう遅い。

 見てしまった。視界に入れてしまった。

 彼女の衣服の内側を。

 本来そこには、健全な女性の裸体があるはずの場所に、代わりにあったものを。


「いや、嫌っ、嫌……! 見ないで……!」


 何年も誰も住んでおらず、ボロボロに寂れてしまった女性の家の中での出来事だった。

 彼女は露になってしまった体を抱いて、壁の隅に丸まって、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、意味も分からず謝って、泣いていた。


 青年は、ゆっくり立ち上がる。

 壁の隅で泣き喚く女性に近寄る。

 そこにあったのは、


「……貴様……」


 そこにいたのは、


「……なんだそれは……」





 明らかに他人の体、明らかに人間じゃない生物の体を、何十、何百、何千、何万、何億と、もはや肉片単位で継ぎ接ぎされて、歪に、グチャグチャに、もはや人体の形を保てないほどに歪んでしまった体だった。





 いいや、それだけじゃない。

 見るからに生物とは思えないものまで捻じ込まれている。

 あれは結晶か? ゴツゴツした表面を持つ透き通った何かが、彼女の胸に、腹に、脇腹に、青年からは見えないがもしかしたら背中にも、ガラスの破片のように突き刺さっていた。


 グジュジュジュジュ!! と、何かが脈動する音が聞こえる。

 彼女の体からだ。


 幾億もの肉で継ぎ接ぎされ、もはや首から下の元の肉体など微塵も残っていない女性の体が、正確にはその肉片それぞれが、別個に脈動していた。

 一人の体の、一つの体の動きではなく。

 肉片それぞれが動く。

 その時だった。


「な」


「ひっ!?」


 少女の腹から、腹の内側から、肉片と肉片の間をこじ開けるようにして何かが這い出て来た。

 見た事も無い魔獣だった。

 小さい身体に何百という眼を敷き詰めた、嫌悪感を催す化物が。


「や……やだ! いや!!」


 狂ったように喚く女性は、手に持ったナイフで、這い出て来た気色の悪い化物を突き刺した。瞬間、「ギィ!」と情けない声を上げて、腹から出て来た魔獣が即座に息絶える。

 そのままズルリと彼女の腹から零れ落ちて、血を撒き散らしながらドチャ!! と床に落ちる。


「……な、……ぁ……」


 動けなかった。

 何も言えなかった。

 恐ろしくて、足が竦んで、どうしようもなかった。


「……誰、が」


 だが、そんな恐怖はすぐに塗り潰された。

 もっと強大な感情が青年の頭まで埋め尽くした。

 凶悪極まる『怒り』が。


「誰がそんな事をしたあ!!!!!!」


 歯の根が噛み合わなくなるほどの怒りを自覚して、青年は家を震わすような声量で叫んだ。

 でも、女性は顔を隠して泣いているだけだった。


「言え! 言え!! 誰だ!! 誰にやられた!! なにっ……何をされた!? なんだこれは!? なんで……こんな、馬鹿な事があり得るか!! あの学校で!! 魔術の学び舎で!! 何が!!」


 叫びながらも、青年の頭脳は彼本人の意思とは無関係に回り出していた。

 今の彼女の肉体、数年前の少女の肉体、魔術学校、彼女の身に起きた事、目の前にある光景、こうなってしまった理由、目の前の光景から逆算し得る可能性、過程、結果。それら全てが一瞬のうちに青年の脳を駆け巡る。


 その時、ふと気付いた。

 ある可能性に。


「……父親は……」


「っ」


 言った瞬間、彼女の肩が跳ねた。

 もはや、それで決定したようなものだった。


「何をしている……貴様を魔術の学び舎に送った、あの父親は……」


「…………」


 女は無言だった。

 その無言が全ての答えだった。

 元々常人とは桁違いに高性能だった青年の頭脳が、勝手に全ての辻褄を合わせていく。

 そして、理解してしまった。

 理解したくもない事を。


「……どこにいる……貴様の父親は、今……」


 女は首を横に振るばかりで、何も答えない。

 吐瀉物でも吐くように泣きながら、彼女はもう、何も言わない。


 ただ、一言。

 一言だけ。


 ゆっくり、両腕で覆い隠していた顔を覗かせて、涙で塗れた顔を曝け出して。

 そして、一言だけ。





「……たすけて……」





 その瞬間から、青年の記憶はない。

 ただ気が付いた頃には。


 青年の目の前には、まるで投げつけたトマトのように全身を液状化させて壁一面に塗りたくられた、彼女の父親の、死体とも言えない残骸だけが広がっていた。







      《center》※※※※※※※※※※《/center》







 彼女の体は、魔術師としてあまりに有能過ぎたらしい。


「くそ!! くそ!! くそォ!!!!!!」


 異次元世界から引き出せる魔力の量。魔力を変換するための体内器官。それら全てが規格外の性能を誇っていた。

 話によれば彼女の父親は、彼女の事を「魔術師になるために生まれてきたようだ」と称していたという。

 それほどのレベルで、彼女は肉体的に、魔術との相性が良かったらしい。

 だから、


「それだけの理由で……!」


 なのに、


!? ! !!」


 彼女の体を、余すところなく検査した。

 正式な医療機関など頼りにならない。すでに医療分野にすら魔術の手が及んでいる。バレたら何をされるか分からなかった。

 足りないものは一人で何とかした。

 独学に得た医療知識を活用し、独自に備えた医療器具で、独力で彼女の体を調べ尽くした。

 そして、自身が会得した医療技術が、実は一〇〇〇年先を行くオーバーテクノロジーであった事など最後まで気付かず、青年は一つの結論を得た。




 彼女はもう助からない。

 後は死を待つのみの体だった。




「ふざけるなァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 自分で仕上げたはずのレポートをばら撒いた。手術道具を力任せにぶん投げた。一人用の机、その上に置かれていたもの全てを怒りのまま薙ぎ払った。


 ……魔力を引き出す異次元世界との経路、『ガフの扉』。

 それが開きっぱなしになり、閉じる事ができなくなっていたのだ。


 結果として、彼女の肉体は常に魔力に満たされ、魔力に晒され続ける事となった。それが駄目だった。魔力に晒され続けた彼女の体は、異次元の物質に変質しかけていたのだ。

 細胞一つ一つが、組織一つ一つが、臓器が骨が皮膚が血液がホルモンが、人体を構成する何もかもが、異次元のエネルギーである魔力の影響で、『別の何か』に置き換わろうとしている。


 そのうち、彼女は完全な異次元生命体に生まれ変わるだろう。

 単純な変化や進化とは意味合いが違う。

 今ある彼女の思考や自我は、完全に消滅するだろう。

 つまりは。

 行き着く果ては、ただの『死』だ。


「ふざけるな!! 馬鹿にするな!! 人間を!! 人の命を!! この世に生み出された奇跡の結晶を!! なんだと思ってるんだ!? ふざけるな!! ふざけるな!! クソ共が!! 何が神秘の力だ!! 魔術師が!! クソがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 人体実験。

 彼女の通っていた魔術学校では、秘密裏にそんな事が行われていた。


 被験者は彼女だけではない。他にも何十人……いっそ一〇〇人に達するほどの少年少女が犠牲になっていた。

『ガフの扉』を構成する人体部位はどこなのか。魔力の変換を行う器官はどこなのか。魔術師を魔術師たらしめる部分はどこなのか。

 そんな研究が、文字通り、人間を使い捨てにしながら行われていた。


 目的は『世界最強の創造』。

 誰よりも強い魔術師を、この世の何よりも強い人間兵器を、自分達の手で作ろうとした。


 だから、彼女の体に埋め込んだ。

 魔術の才能を持つ他の人間の肉片を。人間の潜在能力を引き出せる動物や魔獣の部位を。魔術の性能向上を引き起こす特殊な結晶や岩石までも。元々魔術の才に溢れていた彼女の体をさらに最適に作り変え、人工的に『世界最強』を作ろうとした。


 普通に、常識的に考えれば……成功するはずもない、実験とも呼べないほど乱雑な実験。

 しかし、魔術師共は本気だったのだろう。

 本気で馬鹿だったのだろう。


 科学に親しみがない故に科学的な思考ができず、正しい準備のもとで実験をする事もできず、ともすれば幼い子供だって上手くいくはずがないと分かるような事でさえ、奴らは気付けなかった。こんな馬鹿みたいな実験で、本気で上手くいくと思っていた。


 その証拠に。

 青年が魔術学校から奪ってきた実験資料には、馬鹿正直に、こんな風に書いてあった。





 実験は『失敗』 被験体の変質が開始

 原因:不明

 新たな実験体の補給を求む





 言葉も出なかった。

 失望を通り越して絶望した。

 こんな訳の分からない奴らが、こんな訳の分からない技術が。

 魔術が。

 こうしてこの世を覆い尽くしているという事実に、もはや吐き気すら覚えた。


「ふざけるな……!」


 もう。

 二本の足で立つ力も出せない。


「ふざけるなぁ……!!」


 膝を折り、机に寄り掛かるみたいに、青年はその場に崩れ落ちた。

 この世界で最も愛した女性を実験動物にした、魔術師への憎悪だけが燃えていた。







      《center》※※※※※※※※※※《/center》







「ボクの絵、描いてくれない……?」


「…………」


 ベッドの上で寝たきりの、痩せ細った女性のその言葉に、男は口を閉ざした。

 あれから二年。よくもった方だ。

 本当だったらあの時、彼女は一週間足らずで完全に体が変質し、意思も自我も『異次元の何か』に塗り潰されて死ぬはずだった。それをここまで蘇らせた。男の手腕あっての事だ。

 あるいはこれは、彼女を苦しめる期間を、単に延ばしただけなのかもしれなかったが。


「……絵筆など、もうしばらく握っていない」


「でも描けるでしょ? キミなら」


「描く気が起きればな」


「んはは。三日前もそう言ってたよ。覚えてる?」


「覚えていないな。不要な事は忘れた方が脳にも良い」


「とか言っちゃって、ボクが三ヶ月も前に言った事とかは覚えてるんだもんなー」


「……なんだそれは。いつの話だかまるで分からんが」


 嘘つき、と彼女は小さく笑う。

 笑ってはいるけれど、その笑みには力がなかった。

 昔ならもっと、暴れるように笑っていたのだろうか。

 でも、もう、その影もない。

 少女だったあの頃の面影など、影も形も残っていない。


「でも、結局あの頃……ボクの絵、最後まで描けなかったじゃん」


「馬鹿を言え。何枚も描かされた」


「ずっと小さい頃の話じゃん。魔術学校に行ってからは全然描いてないよ」


「……そんな下らん事をよく覚えているものだ。わたしの話はまるで覚えとらんクセに」


「だってキミの話、難しいんだもん」


「貴様の頭が低能なだけだ」


 言い合って、罵り合って、でも、喧嘩なんかできそうもない。彼女の体は、骨が透けて見えるんじゃないかと思えるぐらいに細くなってしまっている。

 口だけしか、動かない。


「……描いてくれない? ボクの絵」


「ふん、そんな痩せ細った姿をか? 笑わせるな。そんなもの描く価値も」


「誤魔化さないで」


 痩せた女性の、弱り切った生き物の、まるで沈む寸前の夕日のように輝く瞳に。

 男はやはり、何も言えなかった。







      《center》※※※※※※※※※※《/center》







 男の頭脳と技術をもってしても、彼女の体を元に戻す事はできなかった。

 彼女の肉体を複製し、それを移植する事も考えたが、彼女の体はもはやその程度で治療できる段階を超えていた。

 だから男は、彼女を『あのグチャグチャの体』のまま延命させる事しかできなかった。

 元に戻せない。あの頃のようには戻れない。時間は先にしか進まない。このまま腐るように死んでいくしかない。

 そんな地獄を味わうくらいなら。

 味わわせるくらいなら。

 せめて。







     《center》※※※※※※※※※※《/center》







 筆を持つ。木の板に絵具を出していく。

 台を立て、キャンバスを立て、そこに筆を押し当てる。

 目の前には、椅子に座った一人の女性。

 椅子に『座る』というよりも、人形のように椅子に『置かれた』女性。

 もう自分一人の力では立つ事もできない、痩せ細った一人の女。


「……なんだ、すごく上手じゃん」


「描き始めたばかりで何を言っている」


「だって手の動き、あの頃と全然変わってない」


 男の手は滑らかにキャンバスの上を走り、静かにモデルの輪郭をなぞっていく。


「……ね」


「モデルは黙っていろ」


「いいもん、騒いじゃうから」


 騒げるものなら騒いでみろ。

 騒いでくれるなら、騒いでくれ。

 あの頃みたいに。

 あの頃と同じように。


「……ね、ボクの絵、描いたらさ」


 黙々と男は筆を運ぶ。

 彼女の声など聞こえないみたいに、無心に、ただひたすら絵具をキャンバスに塗りたくる。


「ボクの絵を描いて、それを……んー、そうだなー……。部屋とかに飾ってくれたらいいや。で、飾って、ボクがそれを見て、満足したら」


 描く。描く。描く。描く。描く。描く。

 描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて描いて。

 今、目の前にいる女性の、何もかも全てを写し出すように描いて。


「そしたら」


 そして。


「ボクのこと、殺してくれる?」












      《center》※※※※※※※※※※《/center》












 絶叫があった。

 この世を壊し尽くさんばかりに放たれた咆哮には、計り知れない絶望が詰め込まれていた。



 絶叫しながら男は、床に倒れた女性にまたがって、その首を両手で力いっぱい握り潰していた。



 最後の願いだった。男の手で殺されたいと、彼女は言った。男の手の平の温もりを感じながら、男の顔を見ながら、ゆっくり死にたいと言っていた。

 何も言えなかった。

 その願いを否定できなかった。その望みを拒絶できなかった。

 結局最後まで、男は彼女に、何一つ大事なものを伝えられなかった。


 もう息をしていない女を見て。

 自分の手で殺した彼女を見て。


 数年前まで、元気に殴り合って、追い駆け回して、言葉を投げつけ合っていたはずの、誰よりも愛していたはずの女性を見て。

 男の中の『何か』が。

 静かに、確実に、粉々に砕け散った。


「魔術師共がァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 溢れる憎悪。止まらない怨嗟。大事なものを奪い去った奴らへの復讐心。

 全てを壊し尽くしてやると誓ったあの日。

 そこに何もかもを縛られて、ただ魔術を叩き潰す事だけを心に決めたあの瞬間。


 だけど、本当の始まりはどこにあった。

 魔術という文明、そしてその文明を支える何もかもを否定すると固く誓ったその決意は、どこからやって来たのか。


 自然科学。この世界を満たす奇跡。

 そこに美を見出したのは、そこに男が手を伸ばしたのは。

 本当の出発点は、どこだった?




「ね、どうして空って青いのかな」




 ある日、一人の少女が、一人の少年に、そんな風に尋ねたのだ。

 別に、大して意味のある質問じゃなかった。

 暇で暇で仕方なくて、気を紛らわせようと思って、なんとなく言ってみただけの質問だった。



 だけど、あの日の少年にとっては。

 それが全ての始まりだった。





 

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