08【空の色】



「ね、どうして空って青いのかな?」


 あれは、誰の言葉だったか。











      ※※※※※※※※※※











 鉄を舐めたような味が口の中を埋め尽くしていた。

 本当に口の中に鉄があるわけではない。血中のヘモグロビンを構成するタンパク質の一つに鉄分が含まれているという、ただそれだけの話。

 理屈では分かっていても、その味に生理的な嫌悪感を覚える。


「ご、ぼ……っ」


 仰向けに倒れたまま、男はせり上がってくる血液を吐き出した。

 このままでは血の塊が気道を塞ぎ、窒息してしまうかもしれない。せめて体を横にしなければ。

 頭では理解しているのに、体が全く言う事を聞かなかった。


「げほっ……ぐ、ぶ……!」


 何一つ通用しなかった。

 理論も理屈も理想も、己を構成する何もかもが有象無象のように踏み潰された。

 その現実が、男の心を食い破っていく。


 ……何年かけたと思っている。


 これだけの技術を開発するのに、これだけの準備を整えるのに、一体どれほどの時間と労力を注いだと思っている。

 数十年も燃やし続けた憎悪。薪をくべ続けた復讐心。その全てを抱えてここまで来て、ようやくここまで辿り着いて。

 それが、こんなにも呆気なく。

 こんなにも、あっさりと。


「ぐっ……!」


 もはやそこにいたのは、偉大な科学者でも、魔術の敵でもなかった。

 好き放題に痛めつけられ、血を流して倒れているだけの、憐れな老人だった。

 そんな男に向かって、




「おい」




 全身血まみれで、立ち上がる事もままならない相手に向かって、




「立て。やっと燃えてきたとこだろぉが」




 ───どうしてそんな事が言えるんだ。


 仰向けになって倒れる男を、上から覗き込むように一つの顔が現れた。

 魔術師アーサー。

 神を殺した世界最強の少年が、血まみれの男を見下ろしていた。


 彼は笑っていた。

 心から、楽しそうに。


「起きろ。おい。おーい」


 彼はしゃがんで、倒れた男の頬をペチペチ叩く。

 しかし科学者の男の反応は芳しくない。アーサーの姿が見えているのかいないのか、瞼をピクピク痙攣させながら、細く小さく息を荒げているだけだった。


 その様子を見て。

 しっかりと、相手がどんな状態が認識しておいて。


「なに寝てンだ。まだ終わンねえだろ」


 そんなもの関係ないとばかりに言葉を叩き付ける。


「太陽ぶつけて、水ぶっかけて、凍らせて地面ぶち割って突き落として、次はどぉすンだ? ン? 見せてくれよ。お前の次を」


 頭がおかしいのか? 相手が今どんな状況か、正しく認識できていないのか?

 あるいは、認識してなお、「その程度なんて事ない」と本気で思っているのか。


「もっかい地面ン中埋まンのも悪かねえが、何度もやると飽きるしな。逆に上に行くのもいいかもな! でも上に行き過ぎると空がなくなンだよ。知ってたか? あれはつまンねえわ」


 アーサーは一人で喋り続ける。


「まあ見た事なけりゃ何でもいいわ。見た事あンのぁ無しな。つまンねえから。て事で、未知なるスゲーやつドバッと頼むわ」


 最初から、相手の返事など待っていなかった。

 自分の中だけで物事を完結させて、それを相手に強要する。相手が拒絶する可能性すら考慮しない。たとえ拒絶されても、力づくで実現させる。それだけの力を持っている。


 何者からも影響を受けず。

 逆に自分は、自分以外の全てを望み通りに突き動かす。

 徹底的な『個の力』。その極致。


「なに苦しンでンだ。楽しめ。そンで楽しませろ、俺を。それができねえってンならお前……期待外れだぞ」


「…………っっっ!!」


 ───ふざけるなァ!!!!!!

 ───何が期待外れだ猿如きが!!!!!!


 本当なら、感情が爆発するままに叫びたかった。溢れてやまない憎悪と復讐心を、そのまま絶叫にして吐き出してやりたかった。

 でも、血の塊が喉を塞いで言葉が出ない。

 心はこんなに暴れているのに。この世を焼き尽くさんばかりに燃えているのに。

 体も、口も、喉も……動かない。


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 そんな男を、アーサーはぼんやりと見下ろしていた。

 あれだけ楽しそうに笑っていた顔は、すっかり無の表情に変わっていた。

 面白そうでも、悲しそうでもなく。まるで暇潰しにアリの行列でも眺めているような顔で。


 そういう顔で、科学者の男を見て。

 倒れる男から、自分の望む反応が返って来ないと知って。


「……はああぁぁぁぁぁ……」


 昂っていた感情が、急に冷めたようだった。

 アーサーは溜息を吐くと、さっさと立ち上がって男に背を向ける。

 見逃すとか、そっとしておくとか、そういう動きではない。

 これは、相手への興味を失った動きだった。


「ンだよ、俺だけかよ盛り上がってンの。下ンな。……下ンねえし、カッコ悪ぃ」


 言いながら、アーサーは歩き出す。

 吐き捨てられる独り言が、どんどん遠ざかっていく。




 世界最強が、その場から立ち去っていく。




「ぐっ……!」


 血を、吐いてでも。


「く……そ、がぁ……ッ!!」


 科学者の男は、体を動かそうとした。

 もはやそこにあるのはただの意地だった。ここまで決定的に敗北してなお、男は自分の負けを認める事ができなかった。


 負けた事実を受け入れれば、己の中の『何か』が終わる。

 そう思った。


 具体性も何もない、不明瞭極まる感情のはずなのに、論理の追究を主とする科学者の男は、なぜかその『何か』を無視できなかった。

 消えてしまう。自分の中で大事にしていた『何か』が。

 だから男は全力で目を開ける。うっすらしか開かない目蓋の隙間から、去っていく少年の背中を睨み付ける。


「何やってンだ俺。まーた成功できねぇでやンの」


 つまらなそうな声が、どんどん遠ざかっていく。

 自分から離れていくその怪物に、何か言うつもりだったのか。科学者の男は無意識に唇を震わせていた。


 恨み言でも、怨嗟の言葉でもいい。とにかく体が動かない代わりに、何かを叫んでいないと気が済まなかった。

 だから、血でいっぱいの口を、大きく開きかけて。

 そして。




「はぁーあ、『失敗』だ」



























      ※※※※※※※※※※








 アーサーの、その言葉を聞いた瞬間。

 男の中の『何か』が、唐突に沸騰した。









      ※※※※※※※※※※



























 ザリ、と。


「あ?」


 何かが地面を擦る音。

 アーサーもそれに気付いたようだった。足を止め、興味を吹き返したみたいに振り向いた。


 見れば、科学者の男が懸命に、産まれたての子鹿のような危うい動きで立ち上がろうとしているところだった。

 しかし、やはり体が言う事を聞かない。

 立ち上がろうとしても、すぐに膝を折ってしまう。


「ふぅっ……ふう……!!」


 でも、倒れる事だけはしなかった。

 膝だけで体を支え、震える体をなんとか起き上がらせる。

 惨めでも無様でもいい。倒れなければそれでいい。

 自分がこれまで築き上げてきたものを、『失敗』の一言で片付けるあの怪物を前にして、倒れる事だけは自分自身が許さなかった。


 息も絶え絶えになりながら、男はボロボロの白衣の懐に手を伸ばす。

 衣服の中から、黒一色のキューブを取り出す。


 ───格納装置『聖櫃』。


 宙に放られた小型のキューブは、立体パズルのように形を組み直され、人間の背丈ほどの大きさになって男のすぐ脇に直立する。

 男は震える拳で、ドンッと『聖櫃』の表面を叩く。黒一色のモノリスの表面が開き、中から『木製の杖』が飛び出してくる。


 ───地殻兵器『地獄の窯』。


 杖には『スイッチ』の役割しかない。真の地殻兵器は、カルドキア一帯の大地にばら撒いた極微小のナノマシン。それを杖のスイッチで活性化させ、地殻変動を起こすのが本来の使い方だ。

 地上を思うがままに操作し、一度はアーサーを奈落の底に叩き落した科学兵器。

 だが。


「……くそ……くそ……っ!!」


 杖の上端のスイッチを何回も押すが、うんともすんとも言わなかった。

 カチカチカチカチと、スイッチを押す虚しい音だけが響く。

 杖の問題ではなく、ナノマシンの方が完全に機能を停止しているのだ。

 大地は、一ミリも動かない。


「くそ!!」


 叫んだ勢いのまま杖を投げ捨てた。

 地殻兵器を諦めた科学者の男は、体から血を撒き散らしながら、バッ! と右腕を振り上げた。


 ───力学兵器『裁きの彗星』。


 その起動を指示する合図。

『聖櫃』内から呼び出そうとしたわけではない。力学兵器はすでに予備も含め、全てを取り出し切っている。だからほとんど賭けだった。まだ生き残っている機体はどこかにないかと、僅かな希望に頼っての行動だった。


 だが、何も起こらなかった。


 アーサーに斥力の鉄槌が降り注ぐ事もなければ、男の周囲に金属の円盤が飛んでくる事もなかった。

 代わりに、バギンッ!! という硬い音が上空から鳴り響いた。

 しばらくして、小さい物体が二、三と空から落ちてくる。

 猟銃に撃ち落された野鳥のように、その物体はボトボトと地面に上に落ち、バラバラに砕けて転がっていく。


 男の周りに残骸となって散らばる金属塊。

 ……壊れた力学兵器だった。


「──────っっっ!!」


 賭けだったとは言え、それを見た瞬間に強烈な怒りが湧き上がった。

 男は再び『聖櫃』を叩く。

 同時に、口の中で何かを呟く。

 直後にモノリスの表面が開き、掌サイズの『紫のカプセル』が飛び出してきた。


 まだ見ぬ最先端。

 究極に達した科学知識から、破壊的な側面だけを抽出した悪魔の代物。




 ───化学兵器『最後の晩餐』。




 男はそれを手に取ると、無造作にアーサーへ投げつけた。

 少年の足元まで転がった『最後の晩餐』は、次の瞬間、バフン!! と恐ろしい勢いで体積を爆発させ、辺り一面を『紫色の霧』で覆い尽くしていく。


 簡潔に言えば『毒』。

 それも、魔術師にのみ絶大な効果を発揮する神経毒。


 別世界から取り出した魔力を特定の形に練り上げる際、魔術師の体内では、各臓器が特殊な収縮運動を繰り返す。その運動を強引に阻害し、魔力の性質転換を失敗させ、最終的には魔力の暴走を誘発させる。毒を吸い込んだ魔術師をピンポイントで殺害する、凶悪な致死性兵器。


 毒の調合が極めて難しく、今日の作戦までに『試作品』しか作れなかった。

 さらには実験段階で、この兵器は酸素と結合する事で毒性を変化させ、非魔術師まで死に至らしめる可能性が示唆されていた。

 毒を含んだ空気はどこまで広がるか分からない。最悪、この星に住む全生命体を殺し尽くす事もあり得た。だから安易に使用できなかった。


 しかし、今の男には、そんな冷静な判断能力など残っていなかった。


 正真正銘、『最後の手段』が放たれた。

 いくら世界最強と言えど、アーサーとて一人の魔術師。

 そして、相手が魔術師なら確実に殺せる毒物の猛威が、静かに、盛大に放たれた。

 勝負の結果なんて、最初から分かり切っていた。




 直後に『何か』が起きた。


 空気中に蔓延する毒の霧もろとも、周囲の空間が数ミリメートル程度の小さな球体型に圧縮された。




 圧縮された空間は───そしてそれに巻き込まれた『最後の晩餐』は、さらに小さく、より小さく、小さく小さく小さく圧縮され、最後はブツンッ!! と何かが途切れるような音と共に、完全にこの世から消え去った。

 見えないほど小さくなった……とも違う。

 想像を絶する圧力に小規模なブラックホールが発生し、そこに飲み込まれた……でもない。


 やはり、原理も理屈も一切が不明。

 正体の一端すら掴めない謎めいた現象。


 そして、その後には何も残らなかった。

 最初から毒なんて放たれていなかったかのように。

 一人の少年が、何でもなさそうな顔で立っているだけだった。


「……はンっ」


 世界最強アーサーには。


「いいな、それ」


 毒薬一滴すら届かなかった。


「光に、水に、凍らせて地面割って叩き落して……次は毒か。そう来たか! あークソもったいねえ事した! 毒浴びンのなンか初めてでよお! 『魔力回路』なンざ弄られた事もねえ! ビビッて潰しちまった! クソ! 初めてだったら味わっとくべきだろぉがよ! あーあ何してンだ俺! 下ンねえって話じゃねえぞ!」


 何から何までどうしようもなかった。

 そもそも化学兵器が届いていなかった事も。

 届いていなかったはずなのに、それが『魔力の変換工程』に影響を与える毒物だと見抜かれていた事も。

 挙句の果てに、それを「浴びてみよう」なんて思われていた事も。




 そして何より。

 おそらくアーサーには通用しないだろうと、心のどこかで確信していた自分自身も。




「はンっ! 俺もまだまだ未熟で下らねえ! よし決めた、次の目標は毒にもビビらねえ精神力だ! 小さな事からコツコツとだな!」


 すでにアーサーは、自分を襲った化学兵器の事など完全に忘れ去っていた。

 それはほんの数秒前、彼自身が恐怖を感じて即座に叩き潰した科学の真骨頂だったというのに。世界最強をそうまでさせた、唯一無二の驚異だったというのに。


 終わってみればこの程度だった。

 過ぎ去ったものに何の感想も無かった。

 少年はただ一人、新たな目標が出来た喜びをしみじみと噛み締めていた。


「……な……」


 そんな現実に、科学者の男は言葉を失っていた。


 ───その程度?

 ───その程度の反応しか得られないのか?


 この毒薬を作るだけで何年かかったと思っている? 毒薬の調合にどれだけの時間を費やしたと思っている?

 ゆうに八年はかかった。

 そもそも最初の発見は偶然で、それを再現可能な理論と化学式に落とし込むまでに三年半は要した。そこから実験を繰り返し、ようやく出来たものが、化学兵器『最後の晩餐』だ。


 それだけではない。



 光学兵器も、衛星兵器も、気象兵器も、地殻兵器も、力学兵器も。

 アーサーに叩き付けた全ては、長い時間をかけてようやく形にできた、血と信念の滲んだ奇跡の産物なのだ。


 にも拘らず……これだけ?

 長年の研究を、長年の信念を、己の人生を余すところなくぶつけて、浴びせて、それが……これだけ?


 未熟? 次の目標? なんだそれは。

 それじゃあまるで───





 科学わたしたちが、魔術きさまらの踏み台みたいじゃないか。





「……ぁ……な」


「あ?」


 科学者の男が、何かをボソリと口にする。

 独り言レベルの声音が聞こえなかったのか、アーサーは眉をひそめる。


「ンだよ、何か言ったか。……それとも次があンのか? はっ、お前も存外そそらせやがる」


「……ふ、……」


 どこまで馬鹿にするつもりなんだ。


「やっぱ道ってのぁ誰かと一緒に歩くのが一番だな。一人で歩いてちゃつまンねえ。雑草しか話し相手がいねえ」


 どこまで見下すつもりなんだ。


「そら、俺は準備万端だぜ? さっさと見せろよ、お前の次を」


 どこまで嘲笑うつもりなんだ。


「どうした? 来いって」


「ふざ……るな……」


「だぁかぁらぁ、聞こえねえっつってンだろさっきから」


「ふざけるな……!」


「あぁ? ンだよ、ぼそぼそぼそぼそ。ハエかお前。デッケェ声でちゃきちゃき話せや」


「ふざけるなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 いきなり声が爆発した。

 今までの中で、最も巨大な絶叫だった。


「ふざけるな! ふざけるなっ、ふざけるな!! 馬鹿にするなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 口の中に溜まった血を吐き捨てながら、男は叫ぶ。

 体の痛み。失血による眩暈。絶対的な敗者の立場。それら全てを男は完璧に忘れ去っていた。


「何度もぉ……! 何度も、何度も! 何度も何度も何度も何度も! 何回!! 貴様らはあ!! 私を馬鹿にすれば気が済むんだ!?」


 込み上げる怒りをコントロールできなかった。


「いつまで踏みつけるつもりだ! その汚い足で! 私たち科学を!! 神秘の力だと!? 魔術だと!? 聞くに堪えん妄言をグチャグチャとぉ!! あんな異物が! 病原菌がなんだ!? 貴様らなんぞただ糞を撒き散らすだけの病原菌だろう!! 殺処分だそんなもの!! この世界を満たす原初の神秘を忘れた糞尿まみれの病巣が!! 世界を穢すな!! 世界を蝕むな!! 私を馬鹿にするなああああああああああああああああああああああ!!」


 自分を否定する奴が許せない。自分を拒絶する奴が許せない。自分を認めない奴が許せない。自分を理解しない奴が許せない。自分を見下す奴が許せない。自分を踏みつける奴が許せない。自分を嘲笑う奴が許せない。自分を馬鹿にする奴らが許せない。


「貴様らがこの世に生まれ落ちた瞬間から今に至るまで! 常に肺で取り込んでいるものはなんだ!? 酸素だ! この世界のものだ! 初めて見た光景は! その瞳に取り込んだ光は!? その耳で捉えた音!! 肌で感じた空気の質感!! 両親の手!! 誰かの温度!! 全てこの世界のものだ!! そもそも貴様らが生れ落ちる前はどこにいた!? 母の胎内だ!! 命の内側だ!! この世界で、長く、長く長く長く長く長く長く長く長く年月を重ね!! 絶滅と適応を繰り返し!! 偶然の奇跡の末に生き残ってきた生命の!! 自然が生み出した奇跡の結晶の内側で生まれ!! 育ったはずの体で!! どの口が!! どの手が!! どの面を下げてこの世界に異物を持ち込んだ!? この世界に異物を撒き散らした!? 自分自身の世界を己の手で穢しておいて!! 何様のつもりで科学を侮辱する!?」


 目の前の少年が許せなかった。

 自分を否定する魔術、その頂点に立つ存在が許せなかった。

 そして。

 そんな奴に手も足も出ない自分も許せなかった。


「神秘など!! 初めからあったのだ!! この世界そのものが大きな神秘だったのだ!! それを!! 貴様らはあああああああああああああああああああ!!」


 泣き喚く子供のような、悲痛というよりも憐れな絶叫だった。

 だって……誰が聞くんだ、そんな叫び。


 魔術が台頭する時代。魔術が常識として成り立つ世界。そんな中で、誰がこの男の言葉を真摯に聞き、頷いて、賛同してくれるのだ。結局は多数派が行き先を決める世界で、一人孤独な人間の言葉など、誰がわざわざ聞くというのだ。


 この叫びを。この嘆きを。

 一体、誰が。


「貴様らが『生きるために』とロクな頭も回さず!! 当たり前のように吸っては吐き! 奪っては食べ! 際限もなく飲み込んでいるものはなんだ!! 酸素は、肉は、草は、水は!! どこで発生し、どこで育ち、どこから沸き上がるものか知ってるか!? 全てこの世界だ!! この世界のものだ!! 貴様らが常日頃!! 魔獣や肉食獣に襲われないのは何故か分かるか!! 生態系の輪が!! 奇跡のような美しさで回っているからだ!! 神秘とはこの世界の事だ!! 散々この世界の神秘に頼り、縋り付き! 貪り喰らう身の上で!! よくも馬鹿にできたものだ!!」


 意味なんて、あったのだろうか。

 誰にも聞き入れられず、誰にも受け入れられず、誰にも認められない心の言葉。

 そんな言葉を、吐き出す意味なんて───


「自分が何に生かされているのかも分からんクズの分際で! 糞を吐くだけのその口で!! 私を馬鹿にするな!! この世界を侮辱するなああああああああああああああああああああああああ!!」


 意味なんて無くてもよかった。とにかく己の中に燻り続ける憎悪を吐き出さなければ、今度こそ心が死んでしまうと思った。

 もう自分でも自分の感情を止められない。一度溢れ出したものは止まらない。

 叫ぶ。男はひたすら叫ぶ。

 その叫びを、


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 アーサーは、笑顔で聞いていた。


「他所から持ち込んだ偽りの神秘にうつつを抜かし! 自分の住む世界への理解を諦めた猿が! 最も身近にある美に気付けぬゴミクズ共が!! よくも私を嘲笑っ





「なに苦しンでンだ? お前」





 刺し込むように放たれたその言葉に。

 男の言葉が、詰まる。


「……なんだと……?」


「なに苦しンでンだっつってンだよ」


 アーサーは、やっぱり笑っていた。


「そうじゃねえだろ。苦しンでどぉすンだよ。意味ねえだろ」


 男の姿を真正面に捉えながら、そんな風にアーサーは言う。


「笑え」


 言う。


「喜べ」


 う。


「楽しめ」


 う。


「そして俺を笑わせろ、喜ばせろ、楽しませろ。そうじゃなきゃ意味がねえ」


 言って、謂って、云って……そして少年は両手を大きく広げた。

 自分の存在を、見せびらかすみたいに。


「俺の名前はアーサー。神を殺した魔術師だ」


 今さらするまでもない自己紹介。

 知らない人間などいないほど、知られ尽くしたその名前。


「で? お前は?」


 今度は、問う。


「お前はなンだ?」


 小さく肩を竦めながら、彼は笑ったままで男に問う。

 男の名を。男の存在を。

 もしもそれを尋ねたのがアーサーでさえなければ、ただ互いに自己紹介をするだけの、なんでもない日常の一幕に見えただろう。

 だけど、科学者の男には。


「……ふざけているのか?」


 奴の一挙手一投足が、自分を馬鹿にしているような気がしてならなかった。

 なに苦しんでいるのか、だと? 誰のせいだと思っている。

 笑え? 喜べ? 楽しめ?

 笑わせろ? 喜ばせろ? 楽しませろ? ……何を言ってるんだ?


 ───私の言葉を聞いておいて!!

 ───意味がないだと!?


「馬鹿にするのも大概にしろ!! 私の名など聞いて、一体何が」


「お前の名前なンざ聞いてねえし興味ねえ」


 アーサーはあっさり切り捨てる。

 自分から尋ねていたにも拘らず。


「笑え、良い気分になるぞ。意味もねえのに偉そうに苦しむな、下らねえ」


「下らない……!?」


「お前、何やってンだ。何しに来てンだ。あ?」


 口が大きく、横に開く。


「苦しンでンのに……なンでそンな事やってンだよ、お前」


 笑う。


「楽しいンだよ!!」


 アーサーは笑っていた。


「楽しくなっちまってさあ!! しゃーねえンだよ!!」


 今度は少年が叫ぶ番だった。

 まるで科学者の男の真似をするみたいに、アーサーが絶叫を放つ。


「クソみてぇにつまンねえしクソみてぇに下らねえ!! クソだ!! どこもかしこもクソまみれだ!! 世界がなンだって!? 神秘ぃ!? 知らねえよ!! 全部クソじゃねえかよ!! 失敗ばっかだ!! 退屈だ!! 生きても死んでもどこ行っても下ンねえしつまんねえし興味がねえ!! でも笑えちまって仕方ねえ!! なンだお前!? なンで苦しンでられンだよお前!! なあ!?」


 男のように叫びながらも、しかし男とは対照的に、アーサーは笑っていた。

 心から、楽しんでいた。


「求めても手に入れても極めても手放しても!! それでも前に進まなきゃ気が済まねえ!! 進み道がねえと落ち着かねえ!! 邪魔するもンがねえとつまんねえし邪魔するもン全部ぶっ潰してねえと気持ちが収まンねえ!! 見ろよ!! 失敗だ!! 失敗ばっかだ!! 成功!? 知らねえよバーカ!! バアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアカ!! どこにあンだそンなもン!! でも楽しくて!! 楽しくて!! しゃあねえンだよ!!」


 理解ができなかった。


「教えろよ! どぉやったらそンな苦しめンだ! 見ろ! 見ろ!! 俺は!! こンなに!! 楽しンでンのにさあ!!」


 こいつはさっきから何を言っているんだ。

 理解のできない価値観だった。意味の分からない価値観だった。

 訳が分からな過ぎて……男の思考は止まっていた。


「───で、どうだ?」


「……は?」


「こンな感じか? 初めてで慣れてねえンだわ。お前はお前の気持ちを叫ンだ。じゃあ次は俺だ。今のが俺の気持ちだ。聞いたろ? じゃあターンエンドだ。ほら、次はお前だ」


 その言葉で男は理解する。アーサーが何をしようとしていたのかを。

 いや、何をしようとしていたわけでもなかった。

 奴のしている事は、最初から、何も変わっちゃいなかった。


「いいぜ。言葉の殴り合い、心の殴り合いか! そう来るとは思わなかったぜ! やっぱ拳ばっかじゃ飽きるよなあ! 次は心で殴り合おうってか!? 好都合だ! 丁度精神力を鍛えとこぉと思っててよぉ!」


 結局、ずっと、戦おうとしていたのか。

 男の叫びなんか、最初からアーサーの心に響いていなかった。

 奴の目には、奴の耳には、あの絶叫すら戦闘行為か何かとしか認識されていなかった。


 ターンエンド。

 つまり、ずっとずっと最初から。

 アーサーにとってこれは、ただの『ゲーム』。


「あはははは!! お前最高だ!! 今まで会った中じゃぶっちぎりの天才だ!! 全然飽きねえ!! こうも楽しませてくれンなら文句もねえ!! ほら次だ!! 次をよこせ!! こっちは昂ってしゃーねえンだよ!! 笑わせろ!! 喜ばせろ!! 楽しませろ!! 俺を!!」


 科学者の男は、アーサーの言葉を黙って聞いていた。

 口が動かず、何も言い返せない。

 あれだけ激流のように溢れ出していた怒りは、いつの間にか消えていた。


 代わりに男を支配していたのは、妙な感情だった。


 彼自身、その感情の名前をよく知らない。喜怒哀楽のどれに分類されるかも分からない。でも確実に、男は自分の胸の内で、得体の知れない『何か』が大きく膨れ上がっていくを感じていた。


 悲しみに似ているような。でも悲しみじゃない。

 絶望に似ているような。でも絶望じゃない。


 これはなんだ。

 今の自分を突き動かそうとしている感情は、なんだ。


「……空が」


 ポツリと。

 男の口から、言葉が漏れる。


「空がなぜ青いか……知ってるか?」


「あ?」


 アーサーが楽しそうに目を輝かせ、男の言葉に聞き入る。

 そんな姿さえ、ひどく虚しく見える。


「どうして太陽があんなにも美しいのか、貴様は知ってるか……」


「なンだ、次は知識比べか? いいねえ、予想外だ」


「森の草木が、何故ああも鮮やかなのか知っているか……!」


 アーサーの言葉も無視して、男は言葉を紡ぐ。

 自分でも、もう、言葉を止められない。


「鳥の声が何故あれほど耳に心地良いか知ってるか? 夜闇に浮かぶ月がどうしてあれほど人の心を揺さ振るか知ってるか!? 人の手で綴る文字は何故忠実にその者の性格や感情を映し出すのか! 誰かと共にする食事が何故あれほど美味に感じるか! 何故星々は輝くのか! 何故人は太陽に勇気を貰うのか! 大いなる海にどうして人は心を打たれるのか!! 貴様は知ってるか!?」


 叫ぶ。心から。

 しかし、先程までの憤怒とは全く違う感情がそこにはあった。


「全てが奇跡だ! 全てが奇跡で成り立った神秘の産物なのだ!! だからこそ美しく、だからこそ煌めき! だからこそ心打たれるのだ!! この世界の全てが愛すべき神秘なんだ!! なのに……だというのに!! 何なんだお前はあ!?」


 もう駄目だ。心が滅茶苦茶だ。

 グチャグチャになって、自分でも分からなくなってしまった。


「どうして生まれて来た! どうして存在しているのだ!! お前のような奴が!! この奇跡に溢れた世界に、美しい世界に! どうしてお前のような邪悪が! 異物があ!!」


 悔しかった。


「なぜ……なぜなんだ……!」


 こんな奴がこの世界にいる事が、自分が負けた事実など霞んで見えるほどに悔しかった。

 美しくあって欲しかった。心打たれるものであって欲しかった。この世界には、そうあって欲しかった。


 なのに、なぜなんだ。

 なぜ世界はこんな奴を生み出したんだ?

 終わりのない問いを、男は延々と続けていた。

 その時だった。


「ンだよ、お前も楽しンでンじゃねえか」


 邪悪の声が聞こえた。


「隠すなンざ一番つまンねえぞ。楽しンでンなら最初からそう言えや」


「……何が楽しいのだ……」


「だから強がンなっつの。お前も楽しいンだろ?」


「貴様と同じにするなあ!!」


 虫唾が走る。

 こんな奇跡を塗り潰す漆黒の悪と、同じと言われるだけで。


「何もかもが違う!! 貴様と! 私とでは!!」


「分かンねえ奴だなぁ。楽しンでっからお前はそこにいンだろぉが」


「違う!!」


「嘘つくな。嘘つきってのぁあれだぞ? ……あー……何の始まりだっけ?」


 まあどうでもいいか、とアーサーは適当に笑いながら、男を見る。

 赤く燃える瞳で、見つめる。


「そうだ、お前さっき言ったな───『どうして空が青いのか』。興味が湧いた」


 とても興味が湧いたようには思えないほど、軽い声でアーサーは言う。


「そンなに言うなら教えろよ。どぉして空は青いンだ?」


「貴様に言ったところで理解などできまい……!」


「やってもねぇのに決め付けンな。お前が分かってンだ、俺が分からねえ道理はねえ」


「馬鹿にしているのか!? 貴様と私とでは知能も理解力も違う! 分かるものか! 貴様も! この世界の誰にも!! 空の青さの美しさが分かるものか!!」


「あ? 訳分かンねぇ奴だな。じゃあお前はどぉやって知ったンだよ」


「そんなもの───」

































「ね、どうして空って青いのかな」










































 男の言葉が、止まった。






 

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