第42話 獣との境目

 誰が見てもはっきりとわかるほど、司狼の瞳は怒りで染められていた。先ほど一撃で転がした男の腹を遠慮なく蹴りつけてから、固まっている男たちを一瞥する。


 ……のとほとんど同時に、環の太腿に触れていた男の顔に拳がたたきつけられた。宙に飛んで床へ倒れた男の鼻は曲がり、血を垂らしながら意識を失っている。


「────殺す」


 それは暴威だった。

 陽炎のごとく揺らめいた影は、続いて周囲にいた者たちの蹂躙をはじめる。逃げまどう者にがれきを投げつけ、刃物を持って立ち向かう者の武器と肉体をへし折り。


 拘束がようやく解かれた環は未だマタタビの効果で体がろくに動かない。けれども眼前に繰り広げられる惨状に咳き込みながらも声を張り上げる。


「けほっ、……やめ、ろ、司狼!」


 止まる様子はない。呻き声をあげて起き上がろうとしてきた男の横腹を蹴り飛ばし、壁へと衝突させる。幼い頃の我を忘れた時のように。


「……ッ、銀の弾丸シルバーブレッド! 止まれ、司狼!」


 絶対強制権であるはずの首輪ステイリングは──発動しなかった。酩酊状態の頭が一瞬だけ、氷水をかけられたように冷える。

 首輪ステイリングが発動する際に本来青く輝くはずの紐は、彼の首元には存在していない。首輪を外したということか。どうやって? 否、その方法はすでに狐月に教えていた。だがなぜこのタイミングで?


 一つだけ分かるのはこのままだとまずいということだった。腕を砕き、足を折り、ここにいる者たちすべてを害し続ける司狼へと、動かぬ体で腕を伸ばす。


「司狼……ッ、ダメだ、やめろ、やめ、やめなさい」


 後ろ姿の足元へと手を伸ばす環を一瞥もしないまま、声に反応したように頭を揺らす男の顔を蹴飛ばす。喉から引きつれた声が出たのは私だろう。軸としていた足首を握りしめた。


「やめろ! 司狼!!」


 追い打ちをかけるように頭を踏みつぶそうと振りかぶった足が鼻先の寸前で止まる。相変わらずこちらは視ないまま、唸るような声だけが聞こえた。


「…………アンタが……こんな奴らを庇う必要が、どこにある」


 止まったことに安堵しかけた脳は、聞こえてきた声の低さに固まった。首輪の矯正力で止まったわけではない。環の返答如何では未だ降ろしていない足が目の前の男の頭蓋を躊躇いなく砕くだろう。


「止めるに決まっている。お前……今そいつらを殺すつもりだろう」

「警察にはすでに裏を通してある。ここで誰が死のうとだと扱われるさ」


 アンタの会社や名前に傷がつくことは万一にもない。そう言ってのける男は、環が何に憤っているのかなにも理解していない。


「それとも何だ? アンタはこんな屑どもにも情をかけるのか? 或いは……首輪も外れた狼なんて制御できないものを「首輪の有無など関係ない」


 自嘲の混ざった声をそれ以上聞いていたくなかった。足元の裾をもう一度だけゆるく引く。


「僕は、お前に殺しはしてほしくない」


 その言葉に司狼の身体がわずかに揺れる。


「本能のまま……獣越者から獣に堕ちる一線だけは、踏み越えてほしく、ない」


 獣に踏みにじられたこともある。獣として踏みにじったこともある。

 そのこと自体を咎める権利は、環には存在しないだろう。それでも……だからこそ、の死を厭うてくれたこの子に、人を殺めることだけはしてほしくなかった。

 それこそ、環が一番恐れ憎んだ獣と同じものになってしまうから。


 しばしの沈黙の後、司狼の足が降ろされる。振り返った男はそのまま跪き、私へと上着をかけてきた。彼の香りに包まれてようやく、体の力が抜ける。


「……来るのが遅くなってしまい、申し訳ございません」

「いい。……むしろよくここまで来れたな」


 かけられた上着の襟を握り首を横に振れば司狼が唇を噛みしめる。そのまま予備動作なしに抱き上げられてぶわりと熱がぶり返した感覚に襲われた。


「っ……、司狼……!」

「その話は後で。あとは狐月に任せて、一足先に休める場所へ移動しましょう」


 情報の出所は予想通りだったが、それについて深く聞くことを許さない空気が蔓延している。……何よりも、僕自身まだマタタビの効果もありろくに頭が働かなかった。



 ◇ ◆ ◇



 工場前に停められていたヘリコプターに乗って向かった先は、高層建てのホテルだった。おそらくは県内有数の場所なのだろうが、すでに話を通していたのか降り立った司狼に従業員らしき黒服が鍵を渡すのを、茹りそうな思考でぼんやりと眺める。


 こうして抱き上げられて、否が応でも視線を向けてしまうのは彼の首元だった。幼い頃からかけていた獣石はそこにはない。硬く膨らんでいるワイシャツの胸ポケットに収められているのだろう。


「まずは粉を洗い落としましょう」


 靴を脱いですぐに右折した先の扉へと向かう。らたんで編まれた椅子の上に腰かけさせた司狼が僕と目線を合わせる。


「脱げますか? 私が脱がしても構いませんが……今の状態だと万一にもあなたを傷つけてしまうかもしれませんので」

「……満月の、後遺症、か?」

「違ぇよ。……さっきの血の匂いと今のアンタの匂いが混ざり合ってんだ」


 そういわれて慌てて服を脱ぎ出す。が、震える腕では脱いだ服をろくにつかめずに床へと落としていく。下履きの金具をカチャカチャと音を立てて脱げば、耳の毒とばかりに苦い顔をした司狼が「着替えを用意してきます」と足取り早く脱衣所を後にする。

 ……こちらを慮ってくれる心遣いと、彼がいなくなった寂しさが胸中を埋め尽くすが、まずは粉を振るい落とそうと緩慢な体を引きずってバスルームの扉を開けた。

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