第41話 *代償
時間を環が稼いでいた間、向こうも怯えて逃げまどっていただけではなかったようだ。窓という窓を板で封鎖され、頭ひとつ潜れそうな隙間がない。
初手ならばともかく三部屋目ともなれば、焦りが滲む。
「ちっ……小癪な」
幸い粉末状のまたたびは近寄らなければ害はない。……が、行動範囲は間違いなく狭まっているし、通気口は現状悪手。
すでに半分ほどの部屋が自由に行き来できないほどに粉塵が撒き散らされているとあらば、舌打ちしたくなるのは自然だ。
「(……戻るのはリスクが高い。部屋に振り撒いているだけとはいえそれとは別の直接投擲するための準備くらい済ませているだろう。だがこのまま追い込まれるよりは……多少のリスクを加味した上ですでに粉を撒かれた部屋に潜むか?)」
背中に冷や汗を伝う感触が邪魔をする。結論の出ない自問自答を繰り返していれば、再び誰かの足音が聞こえてきた。
「さぁて、どこにいるんだい子猫ちゃん? いいからさっさと出て来いよ」
子猫、などと揶揄する男の声のざらざらとした感覚は先ほども覚えがあった。猿の越具を持つ男だ。子猫ちゃんなどと揶揄をしているが、表情は嘲笑と苛立ちが混ざりあっている。そのまま物陰で息を殺していれば、案の定みるみるうちにその口元は歪み吐き捨てるように怒鳴り散らす。
「『くそったれの猫野郎』!とっとと出てきやがれ!」
ディタレントワードと共に発された命令は、僕がいまだ
だが、すでに首輪はなく獣石はポケットへと戻っている。これは一つのアドバンテージだった。
「チッ……ここにゃいねぇか」
期待通り、小刻みにつま先で床を叩きながらも僕がいないと錯覚したようだ。手元に持っている袋の一つを開封して、乱雑にばらまいている音がした。おそらく奴はこの後奥へと進むはずだ。ならばリスクはあるが正反対の部屋に向かうか。
そう判断して腰を浮かせたところで────遠ざかるはずの足音が聞こえないのに気がついた。
「ここにいたか、猫野郎」
「!? わ、ぷっ……」
上から振ってきた粒子に咳き込んでから、心臓の心拍数が急激に跳ねる。反射的に出所を探る金の眼に、マタタビの粉が入っていた袋をそこいらに放る男が映った。
「はっ、他の奴らがディタレントワードが効かなかったとか言ってたがやっぱり本当らしいな! ガキめ、どんな悪知恵を働かせたのか」
「……~っ、は、……」
ディタレントワードは首輪をはめた主以外が唱えたところで意味はない。
──まさかその程度の首輪の仕組みすら知らない愚か者だとは思えるわけがないだろうが!
内心の罵倒を口に出す余裕などなく、薄く開いた唇からは喉の奥が引きつったような声があふれた。そこいらに点在する廃材をよけてこちらに近づく男から逃れようと身をよじるが、先ほどの粉のせいで緩慢な抵抗しかできない。
せめてもの抵抗と腕に爪を立てれば男が「いってぇ!」と大声をあげる。その声に気がついた他の男たちが駆けつけて加勢をはじめた。
如何に獣越者であろうと、弱点となる因子をぶつけられた状態で複数人がかりで拘束をされれば、抗う手段などない。両手を拘束された状態で、越具持ちの男が馬乗りになってくる。
「ったく……手こずらせやがって。あんまり大人をなめてると痛い目に遭うって思い知らせてやるよ」
「………っ!」
取り出された銀色のきらめきに身をこわばらせる。襟元に差し込まれた刃は、勢いよく下へと力を込められる。わずかな肌を滑る刃物の感触と寒気に震える肌が恨めしい。
「はっ……、あれだけ大暴れしたっていうには随分と華奢な体してやがる……」
「……っ、の、け……」
涙の滲む瞳で見上げれば、目を見開いた男がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえる。先ほどまで浮かべていた怒りとは別種の熱を帯びた瞳が、いびつに弧を描く。
「そうはいかねぇなぁ。その体においたした代償ってもんを刻んでやるよ」
「……っ!」
無骨な手が胸元へと触れる感触に肌が総毛だつ。恐怖で冷える心と他者の熱に揺らされる肉体の差異に頭が混乱しそうだった。
「っひ、ぁ、うぐっ……、やめ、やめっ、ろ、はなせ……っ!」
空を蹴る足は他の者たちによって抑えられる。手首や足首のみならず二の腕や太腿にまで侵食した腕が、あまつさえ感触を味わうようにいくつもの指が強弱をつけて刺激してくる。
刺激以上に上回るのは恐怖だ。蹂躙も凌辱も過去のことだと全て割り切れればよかったのに。思考が回らないままか細い悲鳴が口からこぼれる。
「ぁ、やだ、っ……! しろっ、しろうっ!」
「あぁ? さっき逃げたガキの名前でも呼んでるのか。アイツはどっか行っちまったからなぁ。今のお前を助けてなんざくれねぇだろ」
可哀想に、と思ってもない言葉を口にする男とは別の男──環の太腿を撫でまわし、少し上の金具に手を伸ばしかけていた──はその指の動きをわずかに止める。
「いや、待て。シロウってそういえば狭牙の……──」
紡ぎかけていた声は圧倒的に上回る大きさの鈍い破壊音によって途絶えた。
古い建物だった壁の一部は崩壊し、砂埃の合間から誰かの影が見えた。かと思えばそれは一瞬で跳躍し、環の上に跨っていた男を一撃で蹴り飛ばす。重石となっていた存在がいなくなり、幾度か咳ばらいをしてからようやく環はその影の正体に気がついた。
「…………司、狼」
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