第40話 自己保存
超音波を聴きとるなど人間の耳では不可能だが、コウモリの越具を使用すればそれも可能になる。不思議なことに聞こえてくる向こう側の音波は、音程が圧倒的に高いはずなのに抑揚やイントネーションで不思議と誰のものなのか分かるものだ。
聞こえてきた響きは毎日のように聞いている学年主任の焦った声ではなく、けれどもどこか抑揚の薄い狐月のものだった。
《……これくらい間を空ければ聞こえるものと期待して、そろそろ本題に入ろう。ワタシたちの時間も無限にあるわけではない》
その言葉に蓮は背筋を正す。コウモリの越具を使えば返答はできるが、通信機器を介してないためタイムラグも大きい。質問をすぐに投げることはできないならばまとめて話を聞いてから整理して投げたほうが双方の負担は少ない。
過去に友人とこっそりコウモリの越具でやり取りをして身に付けた知恵だった。
《悪い話と非常に悪い話と今の状態だと悪い話と悪いかもしれない話があるが》
「すんません良い話ないんすか?」
──開幕から頭を抱えたくなった。通信用の端末を今からあの工場に探しに行くべきだろうか。無茶な可能性を検討している間にも一方的に話は進む。
《まず今の状態だと悪い話から。先ほど連絡をもらってすぐにこちらはヘリをチャーターした。ハヤブサの越具も使用しているからあと十分もせずそちらに着くだろう》
「速っ! え、めちゃくちゃ良い話じゃないっすか」
《では悪い話に移る。ヘリには司狼も乗っている》
「最悪!!」
思わず大声を上げてから蓮は慌てて周囲を見渡す。コウモリの越具を発動しているとはいえ周囲に耳のよい動物の越具を使っている者がいたら自分の声も狐月の声も聞こえる恐れがあるのだ。
残る伝言はあと二つ。その双方を聞いてからまとめてこちらの声を波長として伝えよう。そう心に決めて耳を傾ける。
《悪いかもしれない話については……今回の件については警察にすでに手を回し終えている。キミたちが受けた被害は十全に処理されるだろうし、逆に多少コチラが多少暴れたところである程度はもみ消しが可能なところか》
そろそろ両手を広げて大の字に転がりたくなってきた。完全に転がるわけにはいかないので、後ろ手のまま地面に手のひらをつけて空を見上げることにする。雲一つない快晴は絶好の修学旅行日和だ。
──ここまで来たらあとはやばい奴らに全部やばいことにして更地にしてもらうかぁ。それで環に後で詫びに飯をおごらせよう。半ば現実逃避をはじめながら、最後に残っているはずの非常に悪い話に耳をそばだてる。
が、コウモリの音よりも意識に先んじて入ってきたのは、工場とは別方向からの音だ。エンジン音と扉の開閉、そして足音。
茂みの影から覗きこめば、人影が三人ほど。越具の副作用で視力が弱っており顔の判別は出来ないが、袋状の荷物をさげている。低い音と高い音が脳内で混在してめまいがしそうになって、慌てて意識を引き戻した。
《……というところか。何か確認事項はあるかい?》
「ツッコミどころは山ほどあるけど、それどころじゃなくなった。買い出しにいってたやつらが近くにいる。中のやつは大体倒したけどそいつらに頼まれて買ってきたもの? があるらしい。越具持ってる可能性があるからやり取りはいっぺん締めで」
人間からすれば何を言っているのか分からない甲高いきぃきぃという音で声をあげて越具をしまい込んだ。肌から離せばようやく視界も焦点がかみ合ってくる。改めて後ろ姿を見れば、工場内に入っていった男は先ほど猿の越具を持っていた男だった。
「つーか獣越偏見者なら越具とか持ち歩くなよな……都合いい……」
ぼやきながら目を凝らすが、人間の目で遠く離れた袋の中身まで判断することは出来なかった。茂みの中に頭を戻してから、ネズミの越具を手に取ってしばし考え込む。
──さて、この後どうすっかな。
環に連絡を取ってもいいが、彼らが他に越具を持っていないとも限らない。リスクはある。熊の越具を使って加勢する手はあるが、環自身に後で怒られそうだ。
何より、万一自分が何かやった結果──手を出さない場合は環が守ってくれるだろうという慢心はありつつ──あの狼がキレたら後が厄介。
「……うん、空見張ってヘリが見えたら誘導がんばるか!」
人間というのは自分が一番かわいいものだ。否、人間のみならず生物というのは自己保存の本能がある以上己が身を第一にする。早々にその結論に達した蓮はせめて空気の匂いを辿るように鼻先を空へと向けた。
◇ ◆ ◇
通気口の一つを根城にしていた環だが、静かな工場内が俄かに騒がしくなったのに気がついて顔をあげる。
「(……あちらは、おそらく出入り口がある場所だな)」
先ほど話をしていた買い出し班とやらが戻ってきたのだろうか。……しばし動きを止めるが、やがてゆっくりと腰を浮かせる。向かう先からは人の会話と、硬質な低い音が聞こえてくる。錆と金属が擦りあわされる音の正体を理解したのは、金色の瞳で室内を覗き込んでからだ。
およそ十人ほど。おそらくは今起きている者たち全員がそこには集まっていた。何をしているのかと伺えば、どうやら錆ついてほとんど動かなくなっているシャッターを無理やり引き下ろしているようだ。指示をしている男は、先ほど環に首輪をはめた張本人に相違ない。
「おい! トロトロ……な! あの猫……うが、逃げら……いようにな」
「その……な。本当にきく……かねぇ」
ガラガラと耳障りな音が混ざって詳しい内容までは判別がつかないが、どうやら僕を逃がさないように出入り口を閉ざそうとしていることは分かった。が。
「……逆ではなくてか?」
軽く匂いを嗅ぐが、室内で空気が出入りする通気口付近のここでも強い他の獣の香りはしない。先ほど首輪をはめられた時に感じた猿めいた匂いがするだけだ。
首輪をはめていることによる慢心だろうか。そうと断じるには環自身の首の後ろがぴりぴりと軽いしびれにも似た警戒を抱いていた。
確実に先ほどまでとは違う。それはリーダー格を務めているのであろう男の下卑た笑みであり、困惑しながらも頷く男たちの愛想笑い。微妙に変わっているものの配置であり、床に無造作に置かれた大きな袋だ。
各々の破片を繋ぎ合わせるよりも、シャッターが完全に閉じる音の方が早かった。猿の越具を持つ男が声を張る。
「ようやくか! んじゃウカウカするな。今ある粉を一袋一部屋! 手前から奥の部屋に行くように撒いてくぞ」
──粉?
まさか粉塵爆発でも狙っているのか。流石に火への耐性はないから大怪我は免れないが、それは同じ閉鎖空間にいる彼らも変わらないはずだ。そもそも
命じられた男が取り出した折り畳みナイフで粉の入った袋を切り裂く。
風下にゆっくりと広がるその匂いに、とっさに鼻と口を手で押さえた。
「────ッ!!」
間違いない、マタタビの匂いだ。
先ほどまで姿を見せていなかった辺り、わざわざ外部から調達してきたのだろう。舌打ちをこらえて奥へと駆け出す。こうなったら予定を変更して、一刻も早くこの場を脱出しないといけない。
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