第33話 悋気

「……理由としては、どちらもになりますが」


 手渡されたお茶を啜り、半分以上飲み干したところで聞こえてきた声。こちらの頭を撫でる手を止めぬままの司狼を見遣り、一度カップを置く。


「資料館に向かうことも、あの子どもとの行動を選ぶことも、本質は変わりはない。私が介入できないことがあるあなたの世界に嫉妬しただけです」

「修学旅行一つでおおげさな……」

「……気づいてないのでしょうね」


 解けかけていた声が再び硬質になる。彼の膝に座らされてほぼ同じ高さで向き合っていた彼の鼻先が、こちらの首筋へと埋められた。


「っ……、おい、司狼!」

「普段はない女の匂いがするんですよ。アンタから」


 予想だにしなかった言葉に目を見開く。


「化粧まではしてねぇが一丁前にリップクリームやら化粧水は使ってる。ここに来てからずっと、気になって仕方なかった」

「……心当たり、など、修学旅行のグループメンバーくらいだが」


 それもテーブルを囲んで複数人で話した覚えしかない。司狼の鼻に引っかかるものだろうか。問いをこぼしたところで鼻先は依然首元に埋められたままで、気がつけば頬に熱が溜まっていく。


「今はその距離としてもだ。アンタは……今のアンタは、昔とは違う。手の届かねぇところで何かあったらと、考えるだけで臓腑が煮えくりかえる」

「……昔とは違うなど、何を今更……」


 やんわり肩に手を置いて距離を取ろうと力を込めても、むしろ一層強く抱きすくめられる。


「……っ、おい、」

「そうだな、今更だ。だがあのガキは最初からずっと気に食わなかった」


 背中を抱き寄せる手の指先の硬さが厭に思考をざわつかせる。抱きつかれることなどもう何度目かもわからないはずなのに。


「っ、……蓮のことなら、お前が心配するようなことは何もない」

「だとしても、今アンタの一番そばにいる」

「お前は人の身内にまで嫉妬するのか……」


 思わず脱力する。母さん相手にはあれだけ和やかだというのに。あの愛想を蓮にも分けてやればどうだ。揶揄を投げるより先に低い唸るような声が耳に届いた。


「……環は知らないだろうよ。先週の、アンタがまたたびをくらった時に家に帰りたくないって言われて、俺がどれだけ嬉しかったか」

「は」


 後頭部を唐突に殴られるくらいの衝撃だった。思考が復旧するよりも先に、首筋をくすぐるような感触が幾度も落ちてくる。


「〜〜っ、司狼っ!」

「俺に見せてくれた弱いところを、他の奴には見せたくないと言われて、あの姿は俺だけのものになった。その仄暗い歓びをアンタは何一つしらないだろ」

「そっ、れは、たしかに、知らないが……おい!」


 学校帰りの制服、そのネクタイを緩めてシャツのボタンが二つほど外されるのに声がうわずる。そのまま白みの強い箇所に口づけを落とされて思わず司狼の額を抑えた。


「いいだろ、これくらい……アンタの行動にこれ以上文句を言わねぇから、褒美くらいくれよ」


 こないだもくれただろと悪びれぬ言葉に眩暈がする。


「ばっ……、……この間も、服の下は触れてないだろうが!」

「なら、それ以外ならいいのか?」


 表情はうかがえないまま──僕が彼の額を抑えているから当然だが──聞いてくる声は相変わらず庇護欲を掻き立てられる響きだった。


 だがあの時とは一つ、大きな違いがある。



「…………、………駄目だ」



 逆に彼の耳の良さでなぜ気付けていないのか不思議でたまらないほど、心臓の脈打つ速度が煩くてたまらない。

 額を抑える手を強めながらも、唸るように拒絶した。


「はぁ!? 何でだよ!」

「何でもなにもあるか。駄目だからに決まっている……ッ、」


 背中に回された手に抗うように腰を浮かせようとすれば、牙を鎖骨に立てられる感触に肩が跳ねた。加減はしているのだろう。血どころか痕も碌につかない程度の甘噛みに小さな悲鳴がこぼれた。

 幾度も同じ箇所に刺激を受けているからか、肌はささやかな動きすら敏感に受け取るようになっていた。そんな場所を何度も齧られるのだからたまらない。


「っ、おい、こらっ、……っ、司狼!」

「……、」

「っひ……、拗ねていないで話を聞け!」


 背中に回した手が腰元を円を描くように撫でさする。本格的に危機感を覚えて比較的自由な脚で脇腹に一撃をくらわせてやれば、うめき声と引き換えにようやく首筋から口が離れる。


「ってぇ……、何すんだ、じい、さ、……ん、……」


 沈黙が帷となって群れをなす。悪足掻きに彼の額を押し返したところで、赤橙の瞳がこちらの顔を見つめたまま唾を嚥下することは止まらなかった。


「…………、……環」

「見るな。何も言うな」


 手に力をさらに込めようとしたところで、意図も容易く退けられる。頬どころか耳まで熱を帯びている自覚があるのがいたたまれない。視線から逃れるべく腰を浮かそうとすれば、それすらも制された。


「アンタ、今自分がどんな顔をしてるか分かってるか?」

「だから見るなと言って、」

「無理に決まってんだろ」


 大きく縦に揺れたと思えば、先ほどよりも視界が高い。こちらを抱えたまま立ち上がった男は、目元を赤くさせながら恍惚と息をこぼした。


「俺のこと、意識しちまって堪らねえって顔だ」

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