第32話 不機嫌

 ──それが、どうしてこうなった?

 満月も無事に過ぎ去った翌週の金曜日、屋敷へと足を踏み入れていた僕の眼前には司狼がいた。


 否、形容としてそれは不十分だっただろう。背中には壁、逃げ道は彼の腕でふさがれ、見下ろすオレンジ混じりの赤は逆光の中で輝いている。


「……環さま? 申し訳ございません。もう一度仰っていただけますか?」


 甘ったるく粘着質な声に、ここ数日間感じていたものとは別の意味で心臓が跳ねる。この屋敷にいる者たちはこちらの味方になりこそすれ、司狼の敵にもならないだろう。ましてやここは司狼の私室だ。


「……口にした通りだ。来月は修学旅行があるから、その期間は会えないと」

「ええ、それは伺いました」


 思わず窓に視線を向けたくなるが、今司狼から視線を外してはいけないと本能が警鐘を鳴らしていた。それに向けずとも、来る途中と天気予報で眩いばかりの秋晴れだと知っている。


「私が伺っているのはその後です。……資料館に向かうと? あの子どもと? 二人で? こっそり抜け出して?」


 ──悪い、蓮。

 ひょっとしたらこの件についてだけは彼の言葉が正しかったかもしれない。



 ◇ ◆ ◇



 司狼に連絡を入れたのは、蓮に諭されたその日の夜の電話だった。


『環さま! 急にいかがされましたか。……もしや、また体調が?』

「いや、違う」


 先日の件が合ってか電話をとるや否や悲痛な声でこちらを慮る司狼の声に得も言われぬ感触が胸の中に沸き立つのを、無理やり押し込めながら話をつづけた。


「……先日、あの後すぐに送ってくれたからロクに礼も出来ていなかっただろう。詫びも兼ねて、茶でも飲めないかと思ってな」

「気になさらずともよいのに。でも、お会いする機会が一つ増えるというのなら、嬉しいです。それも環さまからのお誘いとは」


 喜色にあふれた声にこちらの方が気恥ずかしくなってきた。電話越しなのをいいことに、ベッドに座ってもう片方の手で頭を掻く。


「まあ、学生の身分で行ける店などたかが知れているが。多少の蓄えはあるしお前が行ってもよさそうな場所を探すか……」

「──いえ、もし環さまがよろしければこちらの屋敷でいかがでしょう?」

「屋敷か?」


 この一年の間に幾度か足を運んでいる場所に今更足を踏み入れる抵抗はないが、礼どころかこちらがご馳走になることになる気もする。


「使用人たちも環さまにまた会いたがってましたから。私も環さまが来てくださるのならこれほど嬉しいことはありませんから」

「……大袈裟な。言っておくのは満月が過ぎてからだぞ」

「分かっています。……金曜の夕方からならお時間を作れますしそちらでいかがでしょう?」



 ──何度振り返っても約束をした時はいつもとさほど変わらなかった記憶しかない。


 だが、振り返れば今日はどことなく不機嫌が蔓延していた気もする。受け答えこそ澄ましたものだったが、たとえば迎え入れてすぐの一瞬だけ丸くなった瞳や、会話の合間に生まれるわずかな沈黙。

 そうしたものの端々がどこか幼く拗ねた頃の仕草と今思い返せば重なっていた。


 部屋へとたどり着くまでの道中で気づかなかった不徳を反省するのは後だ。未だこちらを囲うようにする男を正面から見据え返して口を開く。



「……口にした通りだ。二代目の時に住んでいた辺りに修学旅行で行くことになったが、流石に団体から一人で抜けるのは問題だろう。付き合わせやすい奴に声をかけたまでだ」


 司狼が嫉妬するようなことは自分と蓮の間には何もない。その意を込めた説明は、けれどもミリも動かない笑みが弾く。


「単独で行かれるのが問題でしたら私がその日お迎えに向かいます。ご一緒させてください」

「先ほど旅行の日取りを告げたばかりだろう。満月の翌日のお前に付き合わせろと?」

「……そもそも、修学旅行で向かう必要はないでしょう。別の日取りで行きましょう。車を回します」

「行こうと思ったのはそのタイミングでだ」


 深いため息を吐く。先日見直したと思ったらこれだ。少し離れたところにセットされているお茶がこのままでは冷めてしまう。


「司狼、お前は一体何を忌避しているんだ。私が資料館に行くことか、それとも蓮を巻き込んだことか?」

「……」


 口を噤んだ司狼が無言で腕を引く。返答のない動作に緊張はしたが、向かう先がお茶が用意されているテーブルだったので、腕の力を抜くことにした。……が。


「いや、可笑しいだろうこれは。なぜお前の膝に乗せようとするんだ」


 当たり前のように腰かけた司狼が自身の腰のあたりを掴み、浮かせようとしたところで制する。僕は猫か。いや猫の獣越者だが。


「良いでしょう、これくらい」

「いや良くないが。先ほどの問いに先に──」


「今日は先日の礼、なのでしょう? ……だったら、これくらいの我儘許してください」

「…………」


 大仰なため息一つと引き換えに力を抜けば、身体は簡単に空に浮く。膝の上へと抱えられた猫は高鳴る心音を隠すように小さくあくびをこぼした。

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