第30話 自覚
鳥の鳴き声で瞼を薄く開く。
視界に映る光景よりも真っ先に知覚したのは、むせ返るような香りだ。
「お目覚めになりましたか?」
香りの主──司狼がこちらの髪の毛をかきまぜる。どんな顔をみせればいいのか分からなくて、視線は彼の腕へと注がれる。
「…………馬鹿な奴だな。酩酊状態にあった獣越者に首輪で強制されたとあれば、どうあろうとお前に責務はなかろうに」
腕へと手を伸ばし、指先で痕を確かめるように辿る。爪は自分が、牙は……過ぎた欲を抑え込むべく、司狼自身が自らを噛んだ痕だった。痛々しいことになっているにもかかわらず、苦痛など毛ほども感じていないように司狼は美しい笑みを浮かべた。
「世間としての常識を語っていらっしゃるのでしょうか? それは」
「ああ。獣越者の逸話に依って引き起こされる行為については、特記事項として罪に問われることはない。ましてや今回は僕の方が引き金だ」
起き上がろうとして込めた力は、けれどもそれよりも先に抱き込まれる腕に阻止される。つい数刻前にも感じていた温もりと香りだというのに、それが一気に近づいたことで思考が一気に沸騰する。
「ッ、」
「法などどうでもいいんです。私にとって大事なのはあなたに傷がつくかどうかですから。お身体の状態はいかがですか? 水をお持ちしましょうか」
「……お前は、相変わらず」
変わらない、そう口にしようとした言葉を飲み込む。肉体はずっとそうだったはずなのに、何故だか急に彼が大人になって、自分が子どもだということを突き付けられた気がした。
「……幻滅したか?」
みっともない姿を見せた自覚はあった。記憶の中の自分の行動を思い返すことすら気が重い。自嘲混じりに零せば、数秒の沈黙を開けて聞こえてきたのは呆れ返ったため息だった。
「……はぁあああ……、……馬鹿言うのも大概にしてください。俺がどれだけアンタのエロさに齧りつくのを抑えてたと思ってんだ」
「エッ……」
直接的な物言いに言葉を失っている間にも、つむじに口づけが落とされる。以前はむずむずとした気恥ずかしさだけだったそれに、心臓が大きく高鳴ったような錯覚がしてさらに思考は混乱した。
「
地の底を這うような声は肌を震わせる。
「……そういえば、お前はもう彼奴について聞いたんだったね」
「ああ。だからなおさら、今だけは耐えねぇとって思ってた。ま、その目論見は誰かさんに邪魔されたわけだけどな」
「……」
未だに隠し損ねていた
それと同時に、先ほどつむじに落ちた口づけが今度は幻耳や実際の耳元にまで降りてきたのに錯覚ではなく心臓が跳ねた。
「……ッ、司狼!」
「いいでしょう? 我慢したんだからご褒美くらいくださいよ」
「~~~~ッ」
確かに先日も褒美と生じて似た様なことはあった。だというのにあの時とはまるで思考の感覚が違うのを自覚する。彼の唇が毛並みに触れていると意識するだけでどうにかなってしまいそうな心地だった。
「似、たようなことはさっき散々しただろう! ほら、水を持ってくるんだろう?」
半ば勢いをつけて胸元を押せば、存外あっけなく熱は離れる。
「そうですね。環さまの麗しい声が聞けなくなるなど避けたいですから」
立ち上がった男は冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを差し出してから、「シャワーを浴びてきますから、少々こちらでお待ちください」とバスルームの方へと向かっていく。
完全に姿を消したのを確認して、再び環は寝台へと倒れ込んだ。
「…………勘弁してくれ」
衝撃でシーツからあふれた残り香にすら、頬の熱を促進させるのだから厄介なことだ。先ほど受け取ったペットボトルを額に当てながら小さくつぶやいた。
──本当、困ってしまうくらいに色男になったものだ。
後に悔いるから後悔などとはよく言ったもので、前世の自分が彼に向けた軽口が重しとなって上からのしかかってきた。
「……まあ、ある種絶妙なタイミングだったのだろうな」
昨日の夕方、
──自分が使いものにならなくなる前に判断ができたのは僥倖だと言えよう。
起き上がりペットボトルのキャップを捻りながら、そう考えた。
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