第29話 *夜半の熱
『環、まだ意識はあるか?』
「……っ、思考は、途切れて、ない。判断力は……分からんが、な」
通話を途絶えさせぬまま、端末の時間を確認すればあれからすでに三十分の時間が経過していた。自らの手に時折牙を立てながら、じくじくと湧き上がる熱をこらえていた。
「時間さえかければ家に戻れるかもしれんが……」
『無理はすんな。誰と鉢合わせるかも分からないだろ』
「……そう、だな。これで獣越偏見者に、でも、出くわしたら笑いごとにもならん」
獣の力を忌み嫌う。或いは一方的な搾取を望む者はかつてよりも減ったとはいえ存在はしていた。
常の夜ならどうとでもなるが、今の状態でまともな対処ができるとは言い難い。──そこに気が回らないあたり、本気で思考が低下しているのを実感する。
少し離れたところで車の急ブレーキ音が聞こえた。車体に染みついた香りには覚えがあった。
「……環!」
「は……、よく、ここが、分かったな」
真っ直ぐかけてくる音は馴染みのあるものだった。背中を遊具につけ、足の力が完全に抜ける。頭のどこかで張りつめていた糸が切れるような感触がした。
公園名は告げたが、具体的な位置までは伝えていなかった。越具避けに猫としての力も意識して身を隠していたのだが。
「俺の鼻がアンタを見つけられないわけないだろ。……すみません、触りますよ」
断りを入れて抱き上げてくる腕の中で背中を丸める。鋭敏になった鼻いっぱいに感じた司狼の香りに、小さく身震いする。
「送り先は環さまの家でいいですか?」
「……っ、たく、……な」
「環さま?」
「かえりたく、ない」
情動が昂っている。目尻の熱がそれを何より自覚させた。鼻を啜りながら縋るように、目の前の服を強く握りしめる。
「母さんに、こんな姿、見せたくない。……獣の姿を、見せて、……嫌われたく、ない」
馬鹿なことを言っている自覚はあった。猫の自分が巡っている中ではじめて、耳も尾も隠せない生まれてすぐの姿を抱きしめてくれた母親だ。
幾度か母と言葉を交わしていた司狼にも、そんなことは分かっていた筈だ。それでも彼は、僕の言葉に躊躇いなく頷いた。
「分かりました、あなたが望むなら。……屋敷は大丈夫ですか? 或いはホテルの方が?」
「……ホテ、ルに、回せ」
「分かりました。すぐ向かいます」
脳が次第に思考を融かしていく。皮肉なことに目の前の男の匂いがそれを一層促進させていた。込められた腕の力に、小さく身体を震わせた。
◇ ◆ ◇
ホテルの一室へと辿り着いた頃には、脳の半分が溶けてしまったようにグズグズだった。腰が無意識に何度も揺れて、熱に狂いそうになる思考を目の前の胸板に爪を立てて耐えるのが関の山だ。
「着きました。……降りられそうですか?」
「……っ、」
小さく頷きを返したところまでは、まだ一握の理性も残っていた。けれども寝台に身体を下ろされて温もりが離れていきそうになった瞬間、理性の箍が外れた。
「っめだ……!やめろ、行くな、いかないで……っ、」
「…………っ!」
「……環さま……環。アンタ、自分の状態を分かってるか」
「……っ、かって、……る」
ろくに呂律も回らないまま、ただ首だけを縦に振る。その間も身体は少しでも熱を得ることを乞うように、浅ましくも目の前の身体に擦り寄ることを止まらない。司狼の手が背中から腰にかけてをさする度に、吐息が口の端からこぼれた。
「猫にとってのまたたびは性的興奮剤でもある。……少なくとも、そう認識している人間が多くいる中で、今のアンタは媚薬を喰らったも同然だ」
「っ……!」
背中を丸めて縮こまる。言葉は幻耳を揺らしながらも、その低さと振動に
「ましてや俺は……前科がある。今のアンタの隣にいていい存在じゃない」
「……ッ、」
司狼が立ち上がろうとするのを拒絶するように指先に力を籠める。猫の性質を露わにした今の爪は鋭く研磨されており、わずかに血の匂いが広がった。
──目の前の男は口先ではそう言っておきながら、オレンジの混ざった紅の瞳には確かに欲がにじんでいた。
だったらなぜ、拒絶するのか。理性の溶けた思考は、力任せに彼の胸倉を握りしめた。
「……
「……ッ!! 環さま! それは!!」
粘りけのある囁き声でディタレントワードを口にすれば、司狼が首から下げていた獣石、それをつなぐ糸が青白く輝いた。それに比例するように、赤橙の瞳がこれ以上ないほどに見開かれる。
煩い、煩い。僕から与えられるものなら、傷だって欲しいんだろう。だったら。腹の奥底が耐えきれないように小さく音を鳴らした。
「ぼくを、抱け。これは、めいれい、だ」
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