第28話 夜半と木天蓼
「あら、環。出かけるの?」
「うん、ちょっと眠れないから散歩に行ってくる」
あまり遅くなっちゃダメよと笑う母親に手を振って、家の扉を開ける。寒さを増した風が頬をなぞるのに小さく背中を震わせて。空を見上げれば、膨らみはじめた半月が夜空の天辺へと昇り詰めていた。
「……さて、今日はどこに行こうかな」
ポケットの獣石を無造作にいじりながら、鼻歌交じりで独り言ちる。一つ事を終えたら夜の散歩に行くことは幾代か前からの習慣だった。もっとも、ここ数か月は一人だけのものではなかったが。
「あの子は……確か今夜がパーティだったか」
数日前に耳に入れていた情報を思い出す。あの駄々っ子は今頃さっさと抜けていてもおかしくないが……。そう考えていたところで、端末に着信音が響く。取り出してみれば、端末が発する光はまさに考えていた人物を記していた。
「司狼か。厄介ごとは終わったのか?」
通話ボタンを押し、開口一番にからかい混じりの言葉を投げるが、返ってきたのは沈黙だった。
「司狼? ……おい、どうした。何か面倒ごとでもあったのか?」
『────今日、鶴王に遭った』
「!」
その言葉に一気に思考を回転させる。二人の面識はないが、双方存在だけは認知していたはずだ。夜の風景を眺めるのに割いていた意識を、耳元へと集中させる。
「その邂逅は、どちらが意図したものだ? 或いは偶然か?」
『おそらくは向こうが。俺のツラを拝んで釘の一つでも刺したかったんだろうよ』
口調は再会してからの背伸びをするような敬語ではなく、どこか荒々しい狼の響きだ。
──夕方の話が無意識に重なったのを自覚する。
「釘とは、一年前のお前の狼藉にか」
コンビニの明かりから遠ざかるようにして歩く。こんな話を人気のあるところでするのは抵抗がある。向かうなら公園が丁度いい。
『だろうな。……その流れで、多分アンタが知ってほしくねぇだろうことも、聞いた』
「……ロウフのことか」
司狼と親しい狐が知っていた時点で、いつかは知ることが来るだろうと覚悟していた。まさかその日の内に伝わるとは思ってもみなかったが。信号が青になるのを見計らって渡る。
傍らを通り過ぎた警察官が声をこちらに掛けようとしたのに、獣石だけを向けて一瞥もくれることなく道を歩いていく。
「お前に苦言を告げるつもりはない。鶴王のことだからな、妙な気をまた回したんだろう。……お前には過去の、無関係なことだというのに」
『……無関係じゃねえだろ』
「無関係だ。ロウフとお前は全く別の存在なのだからな」
『だが! アンタが関わってる!』
夜の街でする通話とは思えぬほどの大きな声が端末からあふれ、反射的に目をつぶる。
『…………線を引かないでくれ。環』
「線など、引いていないさ」
『アンタが傷つくから踏み込まねえでほしいのなら……考える。でも、そうでないなら知りたいんだ。アンタのことは、全部』
「…………」
同じ色をして輝く月を見上げるが、満月まではあと数日の間があった。
「だが……っわぷ!」
『環!?』
「何でもない。少々不注意だっただけだ。少し待て……」
遠くから呂律の回らない声が聞こえてくる。先ほど顔面に衝突したボールを投げた男だろう。駆け寄ってくる足音にこちらもボールを拾い上げ──その正体に気がついて背筋の毛が一気に逆立つ心地を覚えた。
近づいてくる酔っ払いに半ば八つ当たりも含めてボールを強く投げ返し、謝罪の声を背中に浴びながら早足で踵を返す。向かうのは公園の、奥。
『……、……環さま、どうかしたのですか』
「司狼。穂積を至急こちらに回せ」
やや平静を取り戻した司狼に、矢継ぎ早に運転手の名を告げる。すでに心臓の鼓動が一挙に高まっているのを自覚していた。
『穂積を? ……構いませんが、今、どちらに』
「自宅側の千支南二公園だ。……業腹なことだが、今またたびの入ったボールをぶつけられてな」
「っ!?」
身近な獣ほど逸話も増え、獣越者に力を与える。一方で縛りも。狼男の逸話を得た狼たちと同じように、環も避け難い弱点を備えていた。
それにしたって、猫のおもちゃをこんな街中で投げて遊ぶ阿呆がどこにいる。思わず舌打ちをしてやりたくなった。
「せめて向こうに敵意か何かでもあれば避けられたんだがな……くそっ」
『穂積には今連絡を入れました。私も今から向かって……』
「いや。司狼、お前は来るな」
『環さま!』
司狼の声がざりざりとした感覚となって背筋を這う。
「分かっているだろう。……今の僕の状態は満月の夜のお前と然程変わらん」
端末の向こうで息を呑む音が聞こえた。思考力とは裏腹に五感は鋭敏なようだ。特に触覚は、空気の流れにすら反応する。
「ロウフのことも聞いただろう。今の僕は狼に対して何をする保障もない。……お前を傷つけたくはないんだ」
『……ッ!』
「分かってくれ、司狼」
公園の遊具の中に身を潜め、腰をおろす。身を潜めるのは得意だった。偶然同じ遊具に潜り込むか、或いは尾けられてでもいない限りここで人と遭遇することはないだろう。
か細く息を吐き出してようやく、通話口が静かなことに気がつく。
「…………司狼?」
『ひとつ確認させてくれ。俺に来るなというのは、アンタが傷つくからか?』
「さっき言ったことを聞いてなかったのか?」
お前を傷つける恐れがあるからだといっただろう。
『だったら知ったこっちゃねえ。俺もいく』
「司狼!」
車の扉が閉まる音が端末の向こう側から聞こえてきた。声を抑えながらも息を荒げれば、「俺こそさっきいっただろ」と不機嫌そうな唸り声が聞こえてきた。
『俺が行くことでアンタが傷つくのなら俺だって抑えるさ。だが、こっちを心配してるだけなら、そっちの方が嫌だ』
「……」
『アンタから与えられるものなら、傷だって欲しいんだよ。……だから、避けないでくれ』
「……大馬鹿者め」
はぁ、と熱っぽさが染みついた呼気を吐き出した。
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