第24話 *廻想3
鶴と言葉を交わしてすぐ大きな平屋へ向かう。獣の足の速さで距離を詰めておきながら、扉を叩く手は寸前で止まる。
満月の日はこの平屋に近づくことは許されていなかったから、急に自分が悪いことをしている気がしてきた。
──帰れと一度言われたらすぐに丘を駆け下りよう。
「環か?」
決断してすぐに聞こえてきた低い声に、心臓が跳ねあがる。
「あ、ああ。急ぎの用があるんだけど……その、今は平気?」
「あ〜……まあ、お前ならいいか。入れ」
気怠げな、普段よりもざらつきが増した響きに背筋が伸びる。
「ごめん、こんな日に」
「構わんさ。お前さんが満月の日にわざわざ来るなんざ、大事な用件だろ?」
横たわったまま歯を見せて笑う彼の姿に、心臓が緊張とは別の意味で跳ねた。一つ咳払いをしてから足を組む。
「実は、里を少しの間離れようと思って」
「…………何故」
室内に灯りはなく、障子を透かす月の光だけが頼りだ。雲居に陰れば、いかに猫の瞳でも表情まではうかがえなくなる。
「──先日、偶々故郷に戻る道を見つけたんだ。でも、行ったら襲われたみたいに荒れていた。……不毛だとは分かっているけれど、何があったのか知りたくて」
「ああ……」
布団に横たわっていたロウフの身体が起き上がるのが気配だけで感じられた。手招きするような仕草に腰を浮かせて近づく。
月を隠していた雲が晴れたのだろう。一際、部屋の中が明るくなった。
「そうか……。──……お前。
見ちまったんだな?」
「え」
黒い瞳が、
◇ ◆ ◇
「────ッッ!! い゛っ、だ、痛、ひ、いや、やだ、たすけ、ッ!」
肩口に牙が食い込む。気がつけば辺りには血の匂いが漂っていた。内臓が迫り上がる感覚に吐き気を覚える。
「…………はーあぁ。やっぱり思った通りだな。ずうっと、旨そうな匂いがしてたんだ」
知らない知らない知らない。こんな凶暴な獣など、環は知らなかった。もがき動くたびに激痛がそこかしこに走る。
腹の中をかき混ぜられている心地に悲鳴をあげながらも、狼はひたすらに環を蹂躙した。喉がすり切れ、血の混ざった痰を吐き出せばそれすらも舐めとられ。
「ッはは。本ッ当に何もかも旨え……。こーんなにやわらかいもんな。骨までしゃぶれそうだ」
「………っ、と」
ずっと最初から、そのつもりだったのか。貪り尽くすために自分を拾って、そばに置いていたのか。涙すらも流し尽くした瞳で問えば、前髪を掴まれて乱暴に顔を上げさせられた。
「にしても、十年か……長かったなぁ。いつこの喉笛を食いちぎってやるかと手ぐすね引いてたもんだが。鶴のやつにまだ早計だって何度止められたことか」
喉に牙を立てられれば、鈍い痛みが広がる。空気がろくに通らないまま、唇だけを動かした。
──どうして、やさしくしてくれたんだ。
狂気に満たされながらも聡明な男は、牙をむき出しにして嗤った。血の匂いがむせ返る空間で、体温は驚くほどに冷たかった。
「ああ? ……そんなの決まってるだろ。狩りってのはな、本気で怯えてるのを狩るのが一番愉しいんだ」
一際大きく胎内を抉る感触に、嗚咽が溢れる。
「信じてた者に裏切られて、逃げ惑いながら無理だと絶望する。……嗚呼、最高に喰い出があるじゃねえか」
一瞬で全ての灯りが、音が消え去った。
その感覚を環が覚えるのは、二回目のことだった。
◇ ◆ ◇
次に見た光は、窓から差し込む日の光だった。まだようやく五指の形が分かるくらいの小さな手。それが自分のものだと理解するのにどれだけの時間が経っただろう。
「待って、この耳……!」
「まさか、うちの子が獣石を持つだなんて」
「ああ、神様……!」
周囲の騒がしさが、どこかくぐもって聴こえてくる。気が付けば両目からは涙があふれ、光が乱反射した。
「……ぁあ、ふにゃあぁ、ふにゃぁあ……」
それは産声でありながら断末魔でもあった。この世に生まれ落ちたことを嘆くものではなく、かつての生と芽生えていた感情は遍く殺されたことへの呪い。
──当時の環は知らなかったが、猫とは化けるものだ。時を経て、あるいは怨念によって。だからこそ、その発想になるのは自然なことだった。
「ほぎゃぁ、ふにゃ……ふぎゃぁ、ぎゃあ」
赦せないと。
ロウフ・ウルフェンという男を、狼という種を。滅ぼしてやると。
惑い未来を嘆く人々の合間で、猫は小さな産声を上げていた。
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