第23話 贄の日

「うん、まだ前段だからさ。ここからが本題だからちょっとその頭を掴んでる手を離しあたたたたたた」

「………………」


 万力を締め付けるような音が部屋に響く。狼の腕力はその気になれば人間の頭を砕けるというのにやめてほしい。


「数代も前の環を知ってるってだけで羨ましいってのにそのロウフってやつはなんだ? 羨ましすぎて今からそいつの墓を荒らしに行って骨をかみ砕いてやりてえんだが」

「斬新な怒りかただね?」


 高い声を転がして笑う鶴は、けれども一瞬のうちにその笑みを剥す。


「ならば僕も君に噛み殺されるべきかもしれないね。何せ死ぬと分かっていて、まだ無垢だった猫を満月の日に送り出したのだから」

「……遺言なら訊いてやる」


 瞳に交じる橙は赤に飲まれ、燃えるような瞳を司狼は目の前に向ける。


「鳴くことで撃たれることを恐れただけだよ。偉大なる狼王に生贄を捧げず見放されることが怖かった。環は最初の犠牲者でもなかったし」

「…………」




 九十九の里にロウフが現れたのは、環が二度目の生を受けたのと時を同じくしてだった。


 確かなことは定かではないが──ロウフの言葉を総合するならば、彼はとある娼婦と船乗りの間に生まれ、幻耳げんじ幻尾げんおを持つ彼はそのまま見せ物小屋に売られたらしい。


「皮肉だが、獣越者が長生きできる最も容易い方法だ。彼はそこで十まで生きたけれど、満月の夜にとうとう人を食い殺して脱走したわけだ」

「……この地には昔から人狼の逸話はあったのか?」

「彼の父の故郷におそらくあったのだろう。皮肉なことにその地域は特に、狼を信仰する真神という考えも根付いていた」


 神と化け物としての強い逸話を得た彼は、九十九の村にたどり着いた頃から異彩を放っていたらしい。


「当時の里長がいなくなってから、彼を長に……この地の王としようと残る者たちは皆言ったよ。なぜ里長がいなくなったのかも知らないままね」

「……はっ、当時の狼ってのは随分と崇められてたもんだな」


 凶悪な笑みを浮かべて吐き捨てる狼の姿に返事をすることなく、鶴は話を続けた。


「強き肉食獣である彼を、誰もが畏敬の念を持って接していた。里から離れていく人たちの行く末も知らぬままね。……けれども、例外がたった一人だけいた」



 ◇ ◆ ◇



「鶴の」


 聞こえてきた声は猫のもの。先日声変わりがはじまった、掠れかけたものだった。


「おや猫の。どうしたんだい、そんな難しい顔をして」

「……謝罪と、報告と、相談がある」

「それはそれは、盛りだくさんじゃないか」


 この気ままながらも年に似合わぬ大人びた少年が謝罪とは。何よりもまず鶴はそこに驚きを覚える。

 まだ幼さの残る顔立ちは、どう話をすべきか惑うように視線を地面へと向けていた。



「実は……先日、山を降りたんだ。狩りの途中で、気になるものを見つけて」

「おや、山を一人で降りるのは危ないから、必ず僕かロウフに言うようにと言っていただろう?」

「だから謝罪だと言ってる。……記憶は薄いけど、あの嵐の日に辿った道だったんだ」

「……」


 その言葉に閉口する。彼は彼で動揺しているのだろう。こちらの様子を解することなく言葉を続ける。


「故郷に続く道だと分かって、思わず足が向いたんだ。……もしかしたら、僕を逃がしてくれたかかさまに会えるんじゃないかと思って。でも、……その先は誰もいなかった」


 次第に環の声が荒くなる。この子どもが動揺している姿を見るのは、もしかしたらこれが最初で……最後かもしれない。


「廃墟になってた。家は薙ぎ倒されて、骨があちこちに散らばっていた。獣か野盗に荒らされたみたいに、ぼろぼろだった」


 夏の終わりの空気は生温く肌を滑る。せめて後始末だけはしておくべきだったか。臭いだけは残らないくらいに、綺麗に平らげていたはずだけれど。


「……何があったかは分からない。けど、もっと人が大勢いる場所で話を聞けば何か手掛かりがあるかもしれない」


 話を聞きながら、視線は空を追っていた。太陽は傾きはじめている。もう直ぐ夜だ。


「だから、少しここを離れようと思う。……幸い、耳も尾も今はもう隠せるから、余程のことがなければ危険な目には合わないはずだ」

「……、そうかい。なら旅立つ前に……今日の夜にでも、ロウフにも声を掛けてやりな」


 僕の言葉に環の瞳が見開かれる。


「いいのか? だって今日は……」

「君が何も言わないで発ったらおかんむりになるからね。善は急げというだろう? ……こういうことは早い方がいい」


 そういって彼の後ろに周り背中を押す。今の僕は笑えているだろうか。


「……ありがとう、鶴」

「なぁに! ……礼なんて不要さ」


 駆け出す環の背中を押すように、突風が吹き荒れた。空に登りはじめた月を見上げて、唾を投げかけたい心地になった。


 ──ああ、今日は本当に。美しいまでの満月だ。

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