第22話 廻想2

 ロウフ・ウルフェンという男は謎が多い。

 本人曰く年は十五という話だが、圧倒的な長身も彫りの深い顔立ちもそうとは見えない。銀の髪の異質さも相まって、皆彼を狼王と呼び里の為政者として敬意をいだいていた。


「この集落……九十九の里は時折あなたみたいに外から逃げてきたり、逆に外の世界を夢見て出ていく人もいるの。だから十五人くらいのところから増えたり減ったりしてるけれど、皆助け合って生きてるわ」

「……こんな場所があったなんて、知らなかった」


 かかさまはいつこの場所を知ったのだろう。或いは、僕の正体を隠し育てながら、探していたのかもしれない。辺りへと視線を巡らせれば、皆獣の耳や尾を隠すことすらなくすごしている。


「この里に来る大半はあなたと同じかそれより少し上の年ね。生まれてすぐは獣石を飲み込めるけど、六つか七つの頃に体が受け付けなくなって吐き出すの」

「じゃあ、あなたも?」

「ええ。でも私の場合はととさまが籠に入れて運んでくれたの。あなたは一人でここまで来るだなんて、すごいわね」

「……僕は、運が良かったから」


 もしかしたら来る途中で命を落とした同胞も数多くいたのかもしれない。足元へと視線を落としていれば、急に視界がぐるりと空へと廻る。


「う、わっ」

「運じゃねえさ。あんまりいい香りがしたもんで。ついふらふら出てみたらお仲間が倒れてたんだよ」


 空から下へ、視線を落とせばたくましい腕が容易く体を抱え上げている。


「香りって……。あの大雨の日に香りも何もあったものじゃないでしょ」


 ロウフの黒いまなざしから逃れるように、ついと顔をそらす。……猫の耳が揺れていることは、もしかしたら悟られているかもしれない。それから頬の熱も。


「つれないな。まだ五つなんてチビすけだと思えないほどだ」

「……別にどうだっていいでしょう」


 ──この里に来て知った、まだ悟られていないことが一つだけあった。

 どうやら獣越者だとしても、らしい。


「褒めてるんだぜ? 何食ったらその胆力が身につくんだ」


 それはこの小さな里で王と崇められているロウフも例外ではなかった。


「(知られてしまったら、拒絶されるかもしれない)」


 里の、あるいは泣きじゃくる母のように。それだけは……彼にだけは拒絶をされたくなかったから。今日も澄ました顔でそっぽを向いた。


「さあ、魚じゃない?」



 ◇ ◆ ◇



 獣の力を得た人々が住まう隠れ里とはいえ、生活の仕方は変わらない。野菜を育て、草食動物を狩り、川で水をくむ。

 つつましやかながらも穏やかな日々は過ぎ去れば一瞬で、気がつけば前の生の倍にも至る年を経ていた。


「猫の! 君がここに来てからもう十年になるのか。長いねぇ」

「鶴の……行商人との交渉はもう終わったのかい?」


 里で最年長である鶴は木の枝に腰かけたままこちらを見下ろしてくる。外部の人間との交渉を行うのは、もっぱら彼の役割だった。


「もちろん。今日は米や味噌の他にも本も何冊か手に入れてね。猫のも読むかい?」

「ああ。感謝するよ」


 凹凸が少ない木でも容易に登れるのは猫としての本質だ。同じ枝に腰掛けて差し出された本を受け取り開けば、木々の合間を通り抜ける秋風が頁をめくる。


「それで、さっきの話だけれど。もうすぐ猫のも十五になるんだろう? 君をロウフが拾った頃の彼とさほど変わらなくなる」

「……そうだね。そろそろ僕も身の行き先を考えないと」


 頁の隙間から秋穂の並ぶ光景が広がる。十年間ここに世話になる間に、半数の人々が外に未来を夢見て旅立った。同じだけの人々がここに新たに訪れたから、総数としては変わらないが。


「身の行き先なんて。君がこの里を出るなんて言ったらロウフは悲しむし怒るだろうよ。君をあんなに気に入ってるのに」

「また鶴は適当なことを……」


 烏の鳴き声に混ざって、遠吠えが聞こえた。犬の物ではなく、この集落で王と呼ばれる狼の。


「ほら、君のことを呼ぶ声だ。すっかり我らが王は君を右腕だとしているようだ」

「調子のいいことをいって」


 開きかけた喉を押し込めた。本当に彼が信頼しているのは君だろうと、わざわざ言の葉に乗せる理由もない。平屋よりも高い枝から無造作に飛び降り、三回転で勢いを殺して着地した。


「本、ありがとう。行ってくるよ」

「ああ、我らが狼王によろしく」




 小高い丘を上っていけば、遠吠えに似た声はますます近くなる。もうすぐ満月が近いからだろう。ロウフはいつも、満月の前後三日間は自らの家に籠りきりになる。

 そして環や鶴のような、親交の深いものしかそばに置かなくなるのだ。それすらも満月が昇るときには決して近寄らせない。


 平屋の中でも一番大きな──鶴やロウフの言葉ではこれより何倍も大きい建物が都では多くあるというが、とても信じられない。扉を開けて中を覗き込めば、それまで絶え間なく聞こえていた遠吠えが一気に止まった。


「遅いぞ。環」

「これでも遠吠えが聞こえてすぐ来たよ。それで、何か必要なものでもあった?」


 布団の上に横たわりながら、掛物もかけずにこちらを手招きする男へと近づいていく。傍らにたどり着くと同時に足を引っかけられる。


「うわっ」

「一人寝は寂しくてな。猫が必要なところだったんだ」

「ちょ、痛い、苦しいって」


 転びかけていた体を抱きとめて、そのまま強く抱きしめられる。頭を乱雑に撫でる感触に牙をむき出しにした。


「はは。いいだろう? 一人寝は寂しいんだ。ちょっとくらい夕寝に付き合ってくれ」

「……はぁ、この自由人」

「狼だ」


 あきれ果てたため息をつけば、ロウフの笑い声が大きくなる。その声がどうにも心地よいのをだますように、熱くなった頬を隠すようにその胸元に頭を埋めた。

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