第21話 廻想1

 猫は幾度も生まれ変わる。それを知ったのは知識ではなく体験だ。


 今の時代からおよそ280年ほど前、二度目の生を受け二本の足が思う通り動けるようになってはじめて環がしたのは、集落の脱走だった。まだ生まれ落ちて一年程度の肉体はあっという間に母親につかまり抱き上げられ、はたかれたのを覚えている。


 獣越者の力は人とは異なる。今の時代でこそ越具の発展により両者の差と壁は縮まってきたが、環がまだ命をさほど巡らせていない時には生まれて間もない獣越者が殺されることも少なくなかった。


「どうして! ちゃんと石は飲ませたのに、耳ももう出ないのに。この子は獣憑きなんかじゃない……絶対に死なせなんてしないんだから……」


 環を抱きしめてすすり泣く母親を見て、環は一層混乱した。


「うぁ、かか、あぅえ、あぅえ」


 ……一度目の生は獣石を吐き出して、耳と尾が出てきたのを見咎められて殺された。その時の“母”も同じようなことを言っていて……けれども最後には、一緒になって石を投げてきたのに。




 同じような脱走を三度繰り返し、もう少し体が大きくなってからでなければ駄目だと理解した。四度目の脱走は五歳の頃。雷と雨が激しい夜の中だった。

 野山を駆ける素足は小石や枝で傷だらけで、けれども足を止めることは許されなかった。追い立てるように後ろから、母だった人の声が聞こえてくる気がした。


 ──石を、石を吐き出したのね。……ならもう、お前はここにいられない。


 両耳に生えた、獣の耳を撫でて泣きそうな声で彼女は僕に言い含めた。


 ──あのお山の向こう側に行きなさい。噂ではあそこで、獣たちが隠れて里を作っていると。そこでなら、あなたも生きる術があるかもしれない。



 村の人たちに見つかる前にと、干飯ほしいいを持たせて逃がしてくれた彼女の言いつけの通り、振り返らずに駆け出した。後ろから棒で何かを殴りつける音と怒声が聞こえた気がするのを振り払って。



 走って、走って。幾度も転んでは立ち上がる。けれどもすでにどこを走っているかも定かではない。獣の脚力は人より優れているが、それもこの雷雨でぬかるんだ地面を走るのに適しているわけでもない。


 小さな池とも呼べるくらいの深みの水溜りに足を取られ、盛大に横転した身体はそのまま強かに木の幹へと体をぶつけた。


「……っ……!」


 視界と思考が揺れる。早く逃げないといけないのに。泥を踏みしめる音が聞こえる。


「────ぉ、……とは……、……」

 誰かが嗤う声が聞こえる。両腕に力を込めて上体を起こそうとするが、肩が酷く痛む。猶も藻掻く身体の首根っこを、誰かに取り押さえられた感覚を最後に視界が昏くなった。



 ◇ ◆ ◇



「おや、目覚めたかい? いやぁ、大変だったね。その若さで」

「…………? ………っ、」


 光の刺激で瞳が開く。数回の瞬きでそこが囲炉裏のある土間だということを理解した。香ばしい匂いと温かな熱の方向から、陽気な声が聞こえてくる。


「勝手ながら獣石を見させてもらったよ。……まあ、幻耳げんじ幻尾げんおをみれば薄々猫だというのは分かったけれど」

「……っ! お前……!」


 耳そばの毛を逆立てて威嚇をするが、目の前の男は意にも介さず手を振る。取り出した硬質な輝きは、環も幾度もよく見たものだった。


「まあまあ、警戒しないでくれたまえ。別に僕らは君が猫であろうと危害を与えるつもりはない。何せ立場としては似た様なものだ」

「……獣石……」


 中に刻まれている紋様の意味は分からないが、その石を持っているというだけで自然と肩の力は抜ける。無意識に袂の中に入っていたふくらみを強く握りしめた。


「僕は鶴の獣越者だ。人としての名前は忘れちゃったからね、鶴さんと気軽に呼んでおくれ。君の名前は?」

「……孫一、ってかかさまは呼んでた。でも、その前は環」

「前?」


 首が傾く理由は分からない。分からないままに首を縦に振る。


「そうか……まあ前の名前に合わせたほうがいいかね。本当は猫がついてた方がよりらしいのだけれど」

「……動物の文字を入れたらあやしまれるだろうって」

「そうかいそうかい。じゃあ自己紹介も済んだところで、軽く状況を説明しよう」


 そういうと鶴と自ら名を名乗った男は目の前に座る。腰まである白い髪が無造作に床についた。


「まずはこの場所だけれど、ここは地図にも載っていない隠れ里だ。獣の力を持つ人間──僕らは獣越者と呼んでいる。そういった性質を持って、里で生きられなくなった者たちが住む場所だよ」

「……ここが!? ……かかさまが言ってた。山の向こうに獣たちが隠れて里を作っている場所があるって。……でも」


 視線は自らに掛けられていた布団、その下にあるはずの脚へと注がれた。傷だらけになり、たどり着く前に自分は精魂尽き果てて倒れたはずだった。環の疑問を見透かして鶴が笑う。


「ああ、そうだね。君はそこに至る途中で倒れた。ただ幸いなことに、ちょうどそこで君を拾った人、いや狼がいたんだ」

「狼?」



「目が覚めたか!」


 朗々と響く低い音が聞こえる。音の方へと顔を向こうとしてそれよりも一足早く誰かの腕が体に回る。抱きしめられたのだと脳が一拍置いて理解した。


「ああ、よかった。同胞がまた一人無為に命を散らすことなくすんだのだな!」

「狼王よ、猫の仔が目を白黒とさせているよ」


 母以外に抱きすくめられたことがなかったから、温かな熱にめまいがした。世界一安全な場所にいるような錯覚すら覚える。顔をあげれば、精悍な顔立ちの銀髪黒目の男の鼻先がかすめた。


「ロウフ・ウルフェンだ。異国からこの地に流れ着いたものだが、縁あってこの地を治めている。主も獣の仔だろう。歓迎するぞ!」

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