第18話 *待てのご褒美

「……まったく。あそこまで威嚇をする必要がどこにあったんだ、お前は」


 今戻れば残っている客から向けられる好奇の目は避けられないだろう。二人だけになった部屋で未だに密着してくる司狼の腕を軽くたたく。この様子だけを見れば、狼ではなく犬のようだ。


「自分の番を狙う奴がいれば、警戒するのは当たり前でしょう。それが優秀な雄ならなおのこと」

「なるほど。認めている裏返しか」


 それが向こうに伝わっていないのは皮肉な話だ。肩をすくめれば、赤橙の視線が注がれる。


「? どうした、司狼」

「嫉妬しましたか?」


 笑みを浮かべることなく問いかけてくる。こちらを抱き寄せていた腕が頬へと動き、耳をくすぐるのがむず痒い。


「どちらかというと微笑ましさが強いな。嫉妬してほしかったのか?」

「当たり前でしょう。私はあなたを愛していますし、同じ想いを返してほしいと思っているのですから」


 揶揄を含めた響きは、切実な声とつむじに落とされた口づけに飲み込まれる。どうにも彼のこの困ったような声に弱いのだと自覚したのはいつのことだったか。


「……もちろん、無理強いをするのは以ての外だと思っていますが……」

「はぁ。……待てを学ぼうとしているだけ成長したと思うべきか」


 きわめて前向きに考えるなら、だが。心の中で言い添えた言葉を司狼が知る由もない。僕の言葉を聞いた男は、口元だけ小さく笑みをつくった。


「それでは、ご褒美をいただけませんか? あなたの願いを叶えようとした健気な狼に」

「……。……それは健気ではなく厚顔と言うと思うが」


 こんな狼に誰が育てた。私だな。

 一瞬の現実逃避の間にも、つむじに落とされた口づけはそのまま髪に、額に、まぶたにと下がってくる。鼻先に口づけを落としたその口を手のひらで抑え込んだ。


「っ……お前、ここをどこだと思ってるんだ!!」

「──ここでなければ、よろしいのですね?」


 瞳が昏く輝き、手のひらを舌で舐められて肩が跳ねた。その眉がこちらを伺うように下がっていなければ、こぶしの一つでも叩きつけてやれたものを。


「…………口づけ以上は許さんからな」


 溜め息一つと引き換えに許可を出す。

 ……まったく、僕も甘いものだ。



 ◇ ◆ ◇



 屋敷へと戻り、私室の扉が閉まるのと同時に司狼が覆い被さってくる。先ほどの続きのように額に、目尻に、耳の付近に、鼻先に、順々に口づけを落としてから唇に。

 表面にいくども触れるだけのものを落としてから、ゆっくりと呼気を奪うように深めていく。


「っ、……ふ、……」


 体格差はそのまま口の大きさに直結する。身長差もあって上を向いた頭はろくに呼吸すら出来ずに思考が次第にかすんでいく。食いつくされるような錯覚を覚えて腕を叩けば、最後に肉厚な舌が唇をなめて離れていった。


「……ああ、すみません。息継ぎの余裕を入れられず」

「……っ、……そう思うなら、もっと申し訳なさそうな顔をしろ」


 壁にもたれかかり深呼吸をする。


「まったく。一体どこでこんなやり方を覚えてきたのか……」

「あなただけです」


 頬に手をかけられ軽く力を込められれば、こちらを覗き込んでいた彼と視線が合った。


「あなただけですよ。俺は。……すでに八度の生を経た、環さまはどうか知りませんが」


 物憂げな顔は妙齢の者なら男女問わず息をのむほどの美しさがあった。足が空を蹴る。私を抱き上げた男は、そのまま部屋のソファへと歩いていった。


「別に、操立てしてくれと頼んだ覚えはない」


 口にしてから、存外冷淡な物言いになったことに自分で驚く。傷をつけたいわけではない。どちらかといえば……罪悪感だ。


「ええ、存じております。私がしたいからしているんです。……アンタ以外、いらねえんだよ」


 私を膝の上に乗せたまま、こともなげにソファへと腰かけた。先ほどまでとは視線の高さが逆転する。腰に回っている腕が円を描いた。


「…………おい」

「口づけまでなら許してくださるのでしょう?」


 僅かな距離が零になる。鎖骨に、首筋に、くすぐるように柔らかな口づけが幾度も落とされて息を噛み締めた。


「──本当は牙を立てて、俺のだって証を刻んでやりたいんだ。全部丸ごと喰らっちまいたい」

「…………司狼」

「分かってる。……アンタが嫌がるならしねぇさ」


 ──肩口に鼻先を埋める男の仕草に、愛おしさと仄暗い優越感が腹を満たす。黒髪をかき混ぜるように撫でてやれば、一層こちらを抱きしめる腕が強まった。


「…………今度、火曜の夜に狭牙が誘われているパーティがあるんだ。一緒に来てくれねぇか」


 司狼が口にする主催者の名前は、私も聞き覚えがあった。獣越者と人の積極的融和派であり狭牙の企業も融資を多く受けている富豪。

 ……ただ、少々家庭や恋愛というものに重きを置いており、パートナーの同伴を推奨したり相手のいない知人にお見合いを積極的に斡旋するのが玉に瑕か。


 私が彼女に出会った頃にはもう晩年だったからそういった誘いを受けても言い訳はあったが。司狼の年代だと少々面倒に感じるかもしれない。口元に小さく弧を描いた。


「断る」

「はっ!? ……ここは絆されて受けてくれるとこだろ……」

「僕がいくのは三重の意味で悪手だろう。面倒に付き合うつもりはない」


 年齢に性別。それに前世の関係性。

 見せ物になるのはごめんだったし、外堀を埋めにかかられるのは尚更だ。


「それにその日は予定がある。先ほどようやくアポイントメントが取れたからね」

「…………?」


 瞳を瞬かせる司狼に笑みを浮かべてみせれば、とたんに不機嫌な顔で頰にキスを落としてきた。


「なら諦めるが……その分のご褒美の上乗せもさせてくれよ」

「…………これ以上お預けをさせたら後が怖そうだな」


 薄く開いた口を飲み込むように、凶暴な口づけが落とされた。

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