3章
第15話 誘い
家に帰り扉を開く。日々繰り返している当たり前の動作の向こう側に広がる光景は、ここ一年強の間に定着したものだ。
とはいえ、呆れの気持ちがないわけではない。見るものが見れば思わず感嘆の吐息をあげるであろう美しい笑みを前に、僕は肩を仰々しくすくめてみせた。
「司狼。また来ていたのか。経営業はそんなに暇なのか?」
「まさか。私の多忙さは他でもない環さまが誰よりもご存じでしょう」
「週に一度以上の頻度で家に上がりこんでいるのを見ればそうも言う。……母さんもどうしてそんなのんきにお茶を飲んでいるのさ」
リビングでは司狼と……母が穏やかな歓談をしている最中だった。アルバムを当然のように開いた母は、環の言葉にからころと鈴を鳴らすように笑う。
「あらいいじゃない。環とはまたタイプが違うだけれどイケメンは目の保養なのよ」
「調子のいい……」
「お母さまを責めないで差し上げてください。私が無理を言ってお話をさせていただいているので」
「責めるつもりはないさ。知らぬ間にかつての仔はずいぶんと処世術が上手くなったものだと改めて感心していただけで」
十五年前……いや、十八年も前だったら間違いなく司狼の側が威嚇して会話どころではなかっただろうに。言外ににじませながら鞄を掛ければ、「環さまのお母さまに私が失礼を働くなど出来ません」と美しい笑みを浮かべた。
──まあ、実際司狼が手出しをしようものなら赦すつもりはなかったが。最低限の分別はついているようで何よりだと肩をすくめてみせる。
「でも環が帰ってきたなら私はお邪魔虫かしら? ちょっと買い物してからパートに向かうから、留守番よろしくね」
「はい、畏まりました」
「……行ってらっしゃい、母さん」
朗らかな笑顔で手際よく自分の分のカップを片付ける彼女に何を言ったところで無駄なのは、この十余年に渡る付き合いで分かっている。身軽な調子で出ていくのを見送っている間に、当然のように司狼が茶を注ぐ。
「それで、今日は何の用だ」
「愛しい方の顔を拝見したいと望むのは当たり前のことでしょう?」
空とぼける様子を見せる司狼にわざとらしくため息をついてみせれば、「本気なのですが」と笑いが返ってくる。
「また休みの日の誘いだろう。今回は何だ? 芝居か、映画か、スポーツセンターか、いずれにしても貸し切りは止せよ」
「余計な邪魔が入らなくて良いと思ったのですが……今日は折角ですから、近郊の博物館でやっている特別展示の資料をいくつか」
もし気に入ったものがあれば一緒に行きましょう、とソファに腰かけた司狼がファイリングされた資料を広げてみせる。彼が選択肢を用意してきてこちらが選ぶ、という形式が定着したのはここ半年ほどのことだ。
「特別展示か……折角博物館に行くのなら常設展も合わせて見たいものだが」
「……! ええ、参考資料としてこちらに常設展の内容についてまとめたものもございます」
ソファの隣に腰かけて覗き込めば、やけに弾んだ声が聞こえてくる。分厚いファイルとは別の、それよりは二回りほど薄い資料を脇に置くのが見えた。
「随分と機嫌がよさそうだな」
「それはもちろん。以前の環さまは今のようにご自身から見たいものを仰ることなどありませんでしたから!」
「……そうだったか? まあ、晩年はそうかもしれないな」
そもそも司狼を拾ってからは、久方ぶりの養い子の面倒にかかりきりになっていた。それが落ち着きかけたころに体調を崩したのだから、当然といえよう。
「ですからそうして環さまがご自身のやりたいことをしている、その表情を見つめているだけでも愛おしさがあふれてくるのですよ」
「……恥ずかしいやつだな」
蒸気した頬を隠そうともしない機嫌のよさは前世の時にも目にすることは滅多になかった。当初は警戒もされていたし、気を許してからもまだ子どもだった彼は背伸びばかりしようとしていたから。
それがまっすぐに好意を向けてくるのだから、照れくささはもちろんある。……同時に天邪鬼な想いもまた浮かんでしまうのは、果たして自分が猫だからか。
「……ならこの、近代ゲーム産業展とやらにしてみようか」
「おや、少し意外でしたね。ゲームなどされるのですか?」
「今の僕は中学生だからな。それくらいはするさ」
最新鋭の獣産業とも連動させたゲームというのも気になるし、何より。
「この間蓮がここに出ているゲームが気になると言っていたからね。あとで話して羨ましがらせようかと思って」
「…………ほぉ?」
「協力してくれるだろう?」
とびきり魅力的な笑みを意識して、眉間にシワを思いきり寄せた司狼へと笑ってみせた。
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