第14話 第一歩
「……一体どんな伝え方をしたんだ。粕谷」
「環さまも聞かれていらっしゃったでしょうに。ただアンタが学校さぼって遊びに来てるってお伝えしたまでのことです」
応接室にいても粕谷が付けている犬の越具や純然たる獣越者には玄関扉の開く音は容易に聞こえる。これだけ勢いが良ければ猶のこと。
「屋敷内をあそこまで駆けることも前はなかったというのに……」
「そりゃあ、昔の環さまは基本的にゃ付きっきりだったからな。走る必要がなかったんだろうさ」
二杯目の紅茶を注ぎ終えるのとほぼ同じくして、扉が開く。どの段階で走っていたのか。ネクタイは首にかろうじて引っかかり、首元のボタンもいくつか外れている。子どもの時にも見なかったいつになく余裕のない姿に胸がすく心地になりながら、ティーカップを手に取った。
「おやおや。随分と毛並みが乱れているぞ? 色男が台無しだな」
「〜〜〜っ、アンタがいきなり俺のいない時に来るのが悪い!」
「ひどい言いがかりだね。傷心の子どもが葛藤の末に歩み寄りの活路を得ようと訪れたというのに」
よよよ、と目元を指で拭うそぶりをして見せれば途端に司狼の眉が下がる。彼が手を横へと振れば、得心したように周囲の者たちが深くお辞儀をして退室していく。
二人だけの室内で、奇妙な沈黙が流れた。一方は紅茶をすすり、もう一方は頭を乱雑に掻く。
「…………その、すみません」
「それは何に対する謝罪かな?」
意地の悪い返しを──それも愉しんでやっている自覚はある。隠す気のない笑みを見たうえで殊勝にも言い返さない辺り、反省はうかがえた。まあ、これで狼藉の件だけを謝罪するのならそのまま床に座れというくらいの心持ちはあったが。
「全てです。あなたの意志や意見を聞こうともしなかったことに対して」
「……その点についてはお互い様だろう。僕もあの瞬間まで完全に、お前の想いをただの子どもの一時的な妄言と思って疑っていなかったからな」
今の自分は狭牙ではない。彼の養父ではないのに、その立場に囚われすぎていた。ティーカップを置いて腰を浮かせる。自然な動作で彼はしゃがみ、目線が重なった。
「故に、だ。司狼。ここからはじめよう」
「……ここから?」
「ああ、ここからだ。僕はお前の想いを疑うことはもうしない。……まあ、だからと言ってそれを受けて同じ形で返すかはこれからのお前の頑張り次第だが」
ゆっくりと彼の瞳孔が丸く大きくなっていく。狼狽したときの彼の癖は変わらないようで、少しばかり微笑ましくなった。けれども次の瞬きの後に浮かべた不敵な笑みはまごうことなき男の顔をしている。
「……良いのですか? 環さま。そのような許可を私に出してしまって」
「無論、先日のような真似をしようとしたらいくらでも手打ちにしてやる。そこまでこの
「お約束はできません、が、善処します。あなたに見限られてしまえば私が生きる意味もないのですから」
恭しく彼の手が伸ばされ、僕の頬をなぞる。恍惚とした赤い瞳は橙の輝きを増して、糖度の高い砂糖菓子にも見えた。
「大げさだな……言っておくが、あくまでまずは友人として、だ。親交を深めて互いを知る。お前が成長したというのなら、精々そこで男を見せるんだな」
「無論です。……ですが、そのためには私にあなたを教えてください」
「僕を?」
こちらが意図を探るように見つめれば、熱っぽい視線を毛ほどもそらさぬまま、首だけをわずかに縦に振った。
「はい。……私が知っているのはあなたの僅か五年の、それも私の養父として振る舞っていた姿だけです。ですから、私に今の貴方を……
「…………」
──もっとあなたは信じてあげてください。
先ほど聞いた言葉が耳元で反響した気がした。信じていいのか、狼を。
「……ふふっ」
「環さま?」
「いや、すまないな。自分の思考が可笑しくなっただけだ」
自分の愛し子を信じぬ親はいない。それ以外は……見極めるために、今から始めるのだから。頬にあたっている手にこちらも手を添えれば、司狼の瞳がこちらへとまた近づく。
「……そうですね、今一つ知ったこととして、あなたは笑うとこんなにあどけない印象になるのですね」
「肉体が若くなっているのだから当たり前だろう」
「いいえ、それとはまた異なる意味で。普段は凛々しい顔立ちをしているからでしょう」
心底驚きました、と。甘い声と視線を注ぎこみながらいたく情感深く呟いてくるものだから思わず背中がむずむずする。
「それに照れた時の仕草も。以前似た姿をお見かけしたことはありましたがあの時はもっと堂々と構えられていましたから、照れていたのだと気づきませんでした。
「待て。飛ばすな飛ばすな。そちらで様子をうかがっている奴らも止めろ!」
前にも思ったが圧が強い。鼻先がくっつきそうなほどに顔を近づけながらうっとりとほほ笑む姿を咄嗟に押し返し、部屋の外から視線と聞き耳を向けてきている使用人たちに思わず大声を上げた。
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