第12話 魚辞退の葛藤

「……あなたが晩年の頃から片鱗は見せておいででしたが、環さま亡き後の司狼さまの姿はまさしく、鬼気迫るというに相応しいものでした。廻った後、あなたに少しでも意識してほしかったのでしょうね。学問も運動も経営も、無論私たちへの振る舞いすら、幼い頃の姿はどこへやらといった感じで」

「──そうしてほしくて転生について伝えたつもりはなかったのだが」


 執事長が話してくれたことを聞きながら無意識に唇をなぞる。奥におかれた棚の硝子に写った自分の顔は、自覚している以上に困り果てているように見えた。


「そうでしょうね。あなたは過剰なまでに、前世や来世というものを切り離そうとしておいででしたから」

「……」


 唇を噛みしめる。ここの使用人とはいずれも長い付き合いだが、そこまで悟らせてしまっていたのは自らの不徳だ。静々と前に出てきた若い女中が紅茶を注ぐ。そのカップすら過去の自分が愛用していたものだというのが、どうにも心にさざ波を揺らした。


「我々は人間です。一度だけの生を懸命に生きるもの。だから猫として八つの命を巡ってきたあなたがどのような御心で過去を想っているかは分かりません」

「そうだな……。ここまで来たのだから正直に言おう。私はね、前世というものに固執などとしたくないのだ」


 猫としての性分だろうねと片目をつぶって見せるが、笑みを浮かべたのは一人か二人。残る者はみな困ったように笑うのが精々だった。


「────迷惑ですか? あなたにとって、司狼さまの想いは」

「情を抱いてもらっていることには感謝しているさ。……ただ、そうだね。前世の私に縛られることを好ましいかと問われれば、否だ」


 その返答を予期していたのだろう。五、六人いる使用人たちはめいめいに首を縦に振った。


「……似た様な事を、私たちも実は司狼さまに仰ったことがあるのですよ」

「ええ、ええ。転生などと言うけれども、そうなった環さまが私たちの知る環さまとは限らない」

「新たな家族も友人も人生もある中で、同一視することは、あなたのためにも司狼さまのためにもならないのではないかと」

「否定はしないよ。司狼が今の僕の住む世界を壊すのならば、容赦はしないからね」


 だからこそ、中学校に来た彼を最初は図ろうとしたのだ。結果としては全く別の尾を踏むことになったが。


「同時に、逆の懸念もある。今の奴は私と僕を同一視しているが……この先もそうとは限らないだろう?」


 唇からは存外語気の弱い言葉がもれる。


 結局のところ立場は逆でも同じなのだ。司狼の中の理想の養父像──実際はそれ以外の感情も内包していたようだが。それを壊したくない。転生して立場が変わろうと大切な存在であることに変わりはないからこそ、幻滅されるのが怖かった。


「聞きますか? きっと盛大に呆れてしまいますよ」


 ──頭じゃ理解できてるんだ。それでも他の番にしたい相手なんざ考えられない。

 ──だから死ぬ前に惚れさせる。そのためならなんだってやってやるさ。

 ──それだけではありません。何せ次に生まれ出でる環境も定かではないのです。

 ──転生した環さまは、もしかしたらあなたが幻滅するような存在となるかもしれません。


 無論そうはならなかったのですがと、茶目っ気の混じった瞳を執事長は向けてくる。十五年という月日があの頑固者をここまで変えるとは。


「彼は言いましたよ。その葛藤はもう何度もしたと。それでも魂が惹かれるのだからしかたがないと。いっそすがすがしいほどにね」

「……はぁ」


 ため息を吐く私に刺さる視線はどれも生ぬるい。


「環さま。私たちはあなた方と司狼さまの間に何があったかは存じません。詮索も致しません。……ですが、こうして心情を曲げて屋敷へと足を運んでくださるほどの何かがあったのでしょう」

「否定はしないよ。……仔細は伏せるが、あの愚か者がああなった契機を知りたくてね。まあ、蓋を開けてみれば身から出た錆だったわけだが」


 少なくとも彼らに落ち度はない。窘められたうえでぶれなかったのならば、全て彼自身と……そう育てた私自身に責はある。


「かつての主人であるあなたにこんなことを申し上げるのは無礼かもしれません。けれども環さま。もっとあなたは信じてあげてください」

「何をだ」

「あの子のあなたへの想いを。そしてあの子を育て上げたあなた自身を」


 向かい合う彼らの瞳は一様に穏やかだ。そこにかつての素性のしれぬ狼の仔に対する嫌悪や忌避は微塵も存在しない。……この眼が見れただけでもここにきた甲斐があったと思うほどに。


「…………司狼を呼んでもらえるか。仕事が忙しいのなら、次のアポイントメントを取るだけで構わないが」

「すぐに連絡を差し上げます。なぁに、環さまがいらっしゃっていると聞いたら仕事なんて放り投げて慌てて帰ってきますよ」

「それはそれで、仕事を全うしてもらいたいものだがな」


 訳知り顔で頬杖をついて見せれば「そんな笑いながらいっても説得力ありませんぜ」と壮年の執事が豪快に体を揺らした。

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