第11話 回想2

 司狼にとって自らを引き取った養い親に真っ先に抱いた感情は『奇特』以外の何者でもなかった。次いで抱いたのは、食事の席の所作に対する食欲。

 食事そのものではなく、それを食べる男の美しい手つきを『旨そう』だと感じたのだ。骨が浮き出た皮は鍛えていてもしわが目立ち、肉々しさとも無縁だったというのに。


 けれどもその衝動を力で、首輪で、言葉で幾度も抑え込まれた。抑え込みながらも見放すことなく、いっそ愉快極まりないと笑う男。幼い司狼には理解できないままただ目が惹きつけられた。


「なに、簡単なことさ。はじめはただ牙と爪を振りかざすことしかできなかったお前が知恵をつけ、言葉を身に付け、こちらの動向を理解し合わせようとしている。愛し子の成長を喜ばぬほど、薄情になった覚えはないぞ?」

「……変人」


 自分の血縁上の母。そうであるはずだった者とはあまりに違う。

 狭牙環は養育者としては、まさしく理想的な男だっただろう。子ども一人に教育をするに十分な環境もあり、獣越者としての理解もあった。……無関係だったはずの司狼にかけるには不相応すぎるほどの愛情もあった。



 癇癪かんしゃくを起こした司狼が部屋中のものというものを引きずり倒した果てに高価な彫刻を粉々に砕いて隣にいた執事の顔を青ざめさせても。顔色一つ変えずに鷹揚とした笑みを浮かべている。そして警戒もなく近づいて腕を差し出すのだ。今みたいに。


「おや、元気なことだ。些かご機嫌斜めなのが玉に瑕だがな。今日は何が腹の虫を揺らしているんだ?」

「触るなっっ!!」


 衝動的にその腕を噛みついてもたじろぐことも、叱ることも、ましてや首輪ステイリングを使うこともない。ただもう片方の手で口を模した形を作り、軽く噛むのに似た仕草をこちらに与えるだけだ。

 大人になってからそれが、動物の噛み癖をなくすために行う仕草だと知った時はいたく複雑な気持ちになったが、それもこの時の胸を渦巻く感情ほどではなかった。


「お前、気持ち悪い。訳が分からない! こんな餓鬼一人攫ってこんなお綺麗な館で育てるなんざ、金持ち様は随分と道楽がすぎるなっ!」

「ふむ、言い得て妙だな」


 ──違う。そんなことが言いたいわけじゃないとは自分が一番分かっていた。

 ただ怖かっただけだ。この美しい老人がこちらを見る目が、かつての母のように恐怖と嫌悪と侮蔑にいつ彩られないかが。


「猫は気まぐれなんだってきくぞ? 俺を拾ったのもどうせその一貫なんだろ。っ、お前の大事な使用人たちは忠告してくれたってのにな! 誰が拾ってくれって頼んだ! 誰が助けてくれって言ったよ! その気まぐれがどうにかなるよりも先に、お前みたいなじーさんが死ぬ方が先だろ!!」

「だろうな。それを承知で引き取った。なに、お前が使用人たちを見返せるほどの男になればいいだろう。そうでなくとも会社と家を継ぐなら、彼らをどうするかはお前の自由だ。……無論それを認めるにはまだまだ何も足りんがな」


 向き合う金の瞳は穏やかに細められながらも冷めているというのに、反比例するように頬が熱い。喉が何度もえずいて、言葉にならない唸り声と地団駄を繰り返す。胸をどれほど押し返しても、瘦せ細った体はびくともしなかった。




「…………こんな子どもじゃ、いたく、なかった」



 やがて激情という激情が過ぎ去り、湿り気を帯びた顔をぬぐってようやく司狼が絞り出したのが、その言葉だった。鼻の奥がツンと痛む。乱暴に顔をぬぐおうとした手が、養父の手でやわらかく包み込まれた。


「ここの奴らが言ってた。じーさん、体調悪いんだろ。内臓ぼろぼろだっつってた」

「……まったく。どこから聞いたんだか」


 視線が後ろに控えている使用人へと向けられる。歯噛みしていたその顔を一転させた使用人は顔を青くしていたが、今はそれよりも自分を見てほしかった。地面を何度も蹴り飛ばして吼える。


「アンタは俺に勉強しろとかマナーを学べとか色々言ってくるくせに、俺が大人になるころにゃもういねぇんだ。なんでアンタはもっと遅く生まれなかったんだ」


 先ほど蹴倒した花瓶や彫刻も、爪で引き裂いたカーテンも、穴だらけにしたカーペットも何も見えない。ぼやけた視界の中、それでも目の前にいる男だけは滲む光が反射して一層輝いているのだ。


「なんで……なんで、俺はこんな餓鬼なんだよ」

「……ふふっ」


 こらえきれず肩を震わせる環の表情は、普段のすましたようなものとは異なり眉を下げたもの。しわを深めるばかりのそれに思わず目が離せなくなる。

 からからに掠れた喉が貼りつくのを引きはがしながら、空気の穴を作り出した。


「な……にがおかしいんだよ、アンタ」

「いや、すまないな。そんな可愛らしいことを心配してくれているとは思わなかったもので」


 うわべだけの謝罪に普段ならば子ども扱いするなと怒鳴り散らしたくもなるが、そんな余力は今の司狼には残っていなかった。身を乗り出した環と視線が近くなり、小さく息を飲みこんだ。


「お詫びに教えてやろう。私の秘密をな。……私はな、あと一度だけ蘇りの機を得ている。だから、もしもお前が再び巡り合うことを望むのなら、精々その時に恥ずかしくない男になることだ」

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