第10話 猫を食う狼は
「はぁ……………」
あそこだけ空気が霧にまみれた暗夜だ。
その深い溜息を聞いた
蘭茶の瞳が向く先は、先ほどまで商談の席で和やかに部下を交えて歓談を行っていた男。人目がいる間は背筋を伸ばし、切れ長の瞳がまっすぐと相手を見据えていたというのに。いまやそれは机に伏した腕の中に隠れている。
無様な心地を笑えばいいのか、それでも同年代にして同胞の好敵手に怒り嘆けばいいのか、自分の前ではその一面を晒すことを昏く喜ばしく思えばいいのか。狐として感情を面の下に隠しなれている男には答えがすぐに出なかった。
「おやおや、先ほどの覇気はどこへやら。プライベートで何があったのか詮索をするつもりはないが、これがワタシの宿敵とメディアに言われている男の姿か?」
「……るせぇ。勝手に吼えてろ」
──想像以上の重傷だ。初めて邂逅したころの荒れ方を否が応でも想起した。とあらば、原因は決まっている。
「例のキミの『
「……そのけったいな名称はなんだ」
「知らないとは驚きだ。大学で狐狼だったキミが唯一、端末を見ているときに時折浮かべる表情が甘く蕩けていたからね。あれだけキミに
「──テメェに俺の何が分かるってんだ?」
獰猛な牙で唇を噛みしめながら、烈火のごとき瞳を向けてくる男に、
「これはこれは失礼した。ワタシが知っていることなど精々が、ここ数週間のキミの浮足立った様子と、打って変わって荒れ切っている今週の無様くらいだ」
破顔と共に言い放てば、盛大な舌打ちが聞こえてくる。けれどもノックの音と共に一瞬にそれをひそめるのだから大したものだと内心で舌を打つ。
部下に厳しくも優しく、経営手腕を持つ理知的な男。こんな男に多大な影響を与えたという先代とはよほど偉大な傑物だったのだろう。
「ああ、次の予定はキャンセルで。夕方に車を回すよう手配を頼む。私はここでいくつか案件を片付けているから何かあれば端末に連絡を」
「はい、畏まりました」
「……おや、いいのかい? 仕事が番なんじゃないかとゴシップを立てられたキミらしくもない」
橙交じりの紅がこちらを射抜く。──二度同じことは言わないと言いたいのだろう。肩をすくめてその答えとした。完全に扉が閉まりドアノブが元に戻ってから、司狼はその体の半分以上を占めていると覚わしき足を組む。
「狐ってのは数々の有力者を篭絡するくらいにゃ人心掌握に長けてんだろ。ならいっそ御高名な狐月さまのご意見でもありがたく拝聴しようかと思ってな」
「狼が衣を着たとはまさしくキミのためにあるような言葉だな」
「言ってろ。……狐風情の業だろうと、使えるってんなら越具でもなんでも使ってやるよ」
その言葉にがぜん興味が湧く。獣越者としての誇りを曲げるにふさわしいことをこの男が口にしたわけだ。かの狭牙を統べる若き狼が!
金色の癖がある髪を空調になびかせて口角をあげれば、満面の苦悶を浮かべた司狼と視線がかち合う。普段の男なら絶対にあり得ないだろうに、牙で唇を噛みしめてから葛藤の末に口が開く。
「……
「番」
反復は予想だにしない内容だったからだと弁明をさせてほしい。軽口をたたいたのはこちらが先とはいえ、まさかそれが真だとは思ってもよらなかったので。
「やらかしたとはなんだい。キミともあろうものがよもやその獣の
到底信じられるわけもない。その意を込めて問いかければ常は焔よりも艶やかな瞳がそらされる。──これは訳ありのようだ。開きかけていた口を閉じ、椅子に座って向き直れば、唇という堤防は決壊したのだろう。懺悔にも似た言の葉があふれ出る。
「はっ、今ばかりはテメェに何言われてもざまねぇな。……世界なんてロクでもねぇって思ってた俺がはじめてキレイだと思った相手だ。向こうが俺を餓鬼としか思ってなかったのは知ってたからこそ、昔とは違うと。アイツが思わず惚れちまいそうな男に成長したって見せつけてやりたかったんだが……チッ」
自嘲を浮かべる男は本人も無自覚ながら壮絶な色香を内包していた。ここが一夜の夢を求めるものが集う酒場だったならば、男も女もみな彼を慰めるべくその身をしなだれかからせていたほどに。
日光がブラインドの合間から差し込んでいたことがひとえに正気を篤に残したのは、互いの立場にとって幸いと言えよう。
「なるほど、
「使えねぇな」
「コラ! 聞こえているぞ! ……コホン。キミは獣ではなく一人の男として見られたいのだろう。なら越具だの獣越などと小細工をやめて正面からぶつかればいい」
「……正面なんざ、勝てるわけねぇだろ。あの老獪に」
惚れている相手に対する形容とは思えない言葉に眉を顰めれば、乱雑に髪をかき上げて深いため息をこぼす始末だ。その様に
「ならそこで童のようにくすぶっていたまえ。聞くにキミの想い人は酸いも甘いも識った知恵者のようだ。乱暴者の狼よりよほど、狐の方が相応しいとは思えないかね?」
「──────────は?」
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