第9話 馴染みの地

 都心から車で30分。駅から距離はある代わりに広い敷地を持った美しく閑静な住宅が多い。高級住宅街の一画だ。

 周辺は警備が厳しく、当然狭牙の家も警備会社によるオートロック形式だ。……が、長年ここを城としてきた環は有事のための抜け道を知っていた。


「司狼のやつが塞いでいたら使えんが……その時はその時だな」

 一方で不思議な確信があった。彼奴はきっと、何もかもを元のまま維持しているだろうと。


 抜け道に行くのはいくつかの手順がある。屋敷から離れた森林公園へと足を向ける。平日午後は親子連れや老夫婦が伸び伸びと遊んだり散歩をしている広場を通り抜け、人の入りが少ない資料館へと入る。

 無料で入れるここは、獣越者に関する歴史が収められたものだ。前世の私が寄贈した歴史者や産業の発展に関する解説が記されている館内は外に比べるとずっと静かで人も少ない。


 入り口から右手に入り、突き当たり。行き止まりになっている壁に、ポケットに入れていた獣石──獣越者が生まれた時に持つ証でもある因果の玉石を当てれば、重いものがずれたような音が耳に聞こえる。

 するりと、まるで猫が細い道を抜けるように。事実その通りにその身を空いた隙間へと滑り込ませた。




 地下道を潜り抜けて天井の扉を開けば、手入れされている美しい庭が眼前に広がった。薔薇の花はもうすでに花がらを摘まれた後なのだろう。青々とした緑が広がる庭園を歩く。


 猫は古来より人と共存を続けていた狩獣かりゅうどだ。その逸話を内包する環は息をするように気配を殺し、足跡を消す方法を身につけていた。技術ではなく理として。


「……まさかここまで変わっていないとは」


 庭園を眺めながら、口元だけを笑みの形に歪める。その光景は何ら変わっていなかった。植え込みの花々の種類だけでなく、一年草であるはずのアンチューサやリナリアまでも。

 いいや、それだけではない。さらにその奥、庭木の剪定をしている庭師の男すら、環には見覚えがあった。老齢にさしかかった男は背中を曲げながらも穏やかに薔薇の蕾を摘んでいた。


 モノクロのカメラで取れば、それこそ十五年前と変わらぬ光景は、妄執すら感じさせる。記憶の中と相違点を探す方が難しい光景をしばし眺めてから、環はゆっくりと老庭師の元へと歩み出す。近づけば聞こえてくる鼻歌まで、昔のままだ。


「相変わらず陽毬の歌を歌っているのか。カセットテープはもう擦り切れたのだろう?」

「なんの。最近はありがたいことにさぶすく? とか言うんで聞けますから……、ん?」


 振り向いた男の皺が刻まれた顔は、目の周りだけ僅かにピンとシワが伸びる。それが口にまで及ばぬ前に、環はポケットから猫が刻まれた玉石を取り出した。


「久しいな、日下くさか。その腕がいまだに衰えてないようで安心したぞ」

「……っ、た……、たまき、さま」



 ◇ ◆ ◇



 庭園に感じた異様な心地は、屋敷に足を踏み入れてなお一層強まった。応接間の一室、紅茶に口をつけながら調度品の数々に目を向ける。


「申し訳ございません。司狼様はまだ会社におりまして……」

「それを狙ってきたからな。構わん」


 深々とお辞儀をしてくる壮年の執事は、私が司狼を拾ってくると聞いて猛反対をしていた男だった。


「まだここを離れていなかったのだな。あの剣幕では私が死した後は長くはもたないと思ったが」

「それもちょっとばかし考えましたがね。思った以上にあの狼坊やが根性見せてたもんで。少しくらい付き合ってもいいかと思って、気づいたらずるずると?」


 ひげ面を蓄えた執事は笑う。しょっちゅう雑な言葉遣いになっていた彼を窘めていた執事長はさすがに年齢もあって引退したようだが。そうした近況を交えながらも、彼らは時折目を細めて。或いは眉を下げて意味ありげにこちらを見てくる。それに気づかぬほど前世の私は、彼らに無関心だったわけではない。


「……環さま」

「いいや。私はここに戻るつもりはない」

「…………ええ。そうでしょうね。」


 薄々その気はしておりましたと、困ったように笑ったのは私が来ているからと急遽呼び出された運転手だ。先日中学校に回すよう司狼に命じられた彼だけは、私の命が巡ったことを薄々理解していたはずだから。


「しかしそれでは一体何のごよ………あぁ……」


 そして同時に尋ねかけたところで察したのもまた、その運転手の男だった。当然だろう。彼は先週の土曜に自らの主人が予定をこじ開けて人と会ったことも。その時に予定を二転三転とさせたことも知っているのだから。


「察しが良くて助かるよ。……僕は狭牙ではなく、故に君たちと僕には何の契約関係もない。が、これについては私はお前たちに沈黙を許すつもりはない」


 足を組み、深い笑みを浮かべる。それに彼らが鏡合わせとなろうとして失敗する様に、いっそ愉快なほどの既視感を覚えた。


 ──これは全くの余談だが、愛らしくしなやかで美しいながらも、勝手気ままに振る舞う姿を見た者はこうかの獣を称することがある。


 曰く、猫とは人を下僕として立つ主君であると。


「さあ、教えてもらおうか。私がいなくなってからあの狼藉者がどう過ごしていたのかをね」

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