第7話 *月の意味

 ホテルの最下階のフロアで外を眺めれば司狼が運転手と会話を交わす姿が見える。車を回してもらうまで待つように固辞したのは私の側だった。


「……今の奴の主人は司狼だからな」


 暗い外も猫の瞳ならば当然のように見えた。司狼と話をしている彼は、かつて私が重用していた運転手と変わりがなかった。主従が変わった後で改めて姿を見せるのは混乱を招きかねない。


 車が回されてから乗り込めばいい。その結論を再度つけたところでスマートフォンが鳴り響く。そういえばこれから帰宅の旨を家族に連絡をしていなかったか。取り出した画面に載っていた名前は、文字として見るにはいささか珍しい男だった。


「……鶴王? どうした、お前が私に連絡を取るなどめったにないが」

『昼ぶりだね猫の。いやぁ、君が狼くんとご飯食べてるって言ったからさ。文字通り送り狼されてやいないかと気になって』

「開幕から全方位に失礼なことを言い出すなお前は。この通話を今すぐ切断してもいいんだぞ?」


 素気すげなく言い放てば、はじめに返ってくるのはしばしの沈黙。次いで聞こえてきた声は、存外この男にしては真剣な響きを帯びていた。


『環。スーパームーンというものを知っているかい?』

「……月の異名か? あるいは満月の呼び名か」


 季節により満月の呼び名は異なっていると耳にした記憶はある。故にそう答えれば、『やはり知らなかったか』と小さく笑う声が聞こえた。


『1970年代の後半に命名され、最近世間一般にも浸透してきた定義でね。明日の満月がそれに当たるのだが……。満月と楕円軌道における月の地球への最接近が重なることにより、見えることをいう』


 心臓が大きく拍動した錯覚を覚えた。


『猫よ。獣越者は獣そのものの力を持つのではなく、獣の持つ逸話により成り立っている。ならば狼の獣越者である彼は、人狼の逸話をも内包しているんじゃないかい?』

「……当日でなくとも、その逸話の影響があるとお前は思っているのか?」


 事実、前世での司狼も満月の時は己の衝動を耐え切れないように暴れることがあった。本人も自覚していることだから、仕事も満月の日には都合を入れぬように配慮しているようだったが。


『満月ほど直接的に影響があるかはさておき、複数の要因が絡み合えば同様の発露があってもおかしくないだろう。例えば──』

「例えば?」

 耳をすませて聞こえてきたのは。






「──────環さま」


 どなたと話していらっしゃるので? と。

 耳元から通り脊髄を震わせるような、声。






 抱き寄せられるように回された手が胸元を押すと、自重は簡単に後ろへと傾く。それを抱きとめた司狼のもう片方の腕が、耳元から離れたスマートフォンを握っている手を丸ごと包み込んだ。


「…………司、狼……」

「ふむ。先日うろつき回っていた子どもの名ではなさそうですね」


 こちらを見下ろす表情こそ笑みを湛えながらも、赤とオレンジが混ざり合った瞳は煌々と輝いている。本能的な危機感を覚えるが、こちらの足が動くよりも先に回っていた腕が強く抱きすくめてきた。

 


「……よもや、あなたに匂いをべっとりとつけた雄相手で?」

『うーん、いやな予感的ちゅ、』


 小さな電子音と共に通話が途切れる。首を上へと向ければ、後ろから抱き込んできている司狼の顔が逆光に隠れているのがうかがえた。心臓の粗い拍動が止まらない。


「し、ろう。車は……」

「こちらに回す手筈を整えようかと思いましたが……予定変更でキャンセルさせていただきました。上へと向かいましょう」

「っ、」


 まだ成長期にもなっていない身体だ。いともたやすく抱え上げられる。衝撃で取り落としかけたスマートフォンをキャッチして差し出す手は恭しいながらも、抱きかかえた腕は緩むことなくエレベーターへと向かって歩き出した。


「……っ……、司狼!」

「言っただろ、じーさん」


 荒げた声を低い声が制する。

 元より使用する客が限られる高級ホテルは、逆に言えば地位がある者が利用するならばすべてをその職務の元覆い隠す側面もある。獣越産業の中枢である若き経営者が通るのを止めるものは誰もいない。自嘲と凶暴性の入り混じった笑みで、司狼の八重歯がのぞいた。


「俺はアンタに心底惚れてんだ。その相手が他の雄の匂いをべっとりつけてんのを、ニコニコ上品ぶってみてなんていられねぇよ」

「しろ……っ、づ、ぅ……っ」


 刹那、痛みが走る。流血こそしていないものの、首筋に顔をうずめた男に噛まれたのは明白だった。閉じたエレベーターが外界と隔絶される。


「……っ! いい加減にしろ! 冗談にしては性質たちが……」

「アンタに冗談なんざ言うわけねぇだろ」


 呼吸交じりの囁き声が肌を震わせる。喉仏から鎖骨へ、幾度も小さな音を立てて口づけを落とす男の顔は見えない。抱き上げる腕から逃れようと足をばたつかせたところで、いまだ発展途上にある体躯で抜け出せるはずもない。


「────ああクソ。んな早くがっつくつもりはなかったんだ。だってのに、腹立つ臭いと美味そうな匂いを重ねやがって……」


 独白めいた言葉を呟きながらも、文字盤の数字は次第に高くなっていく。聞こえてきた鈴の音に、反射的につばを嚥下した。


「しょ、食事後に美味そうも何もなかろう……!」

「違ぇよ。そうじゃねえ。……気づいてないのか? ああ、ひょっとして無自覚になったばっかりか」


 廊下を進む足が止まり、ようやくこちらを見上げる司狼。その表情は飢えた狼そのものだった。


「今のアンタ、すげぇエロい精の匂いがするぜ」

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