第6話 食事と相応

 高層階から眺める美しい夜景に、店内に微かに流れるオペラ。上品な笑い声やグラスを重ねる音が響き、目の前には繊細な美しさを秘めた前菜が並べられている空間。


「……フレンチのフルコースなど、一般家庭の中学生を連れてくるのにこれほど不適切な場所もないと思うが」

「そう仰いながらもマナーも完璧ではありませんか。さすがは環さま」


 アミューズを終えオードブルが並んだ席でこぼした溜め息は、それを上回る恍惚な吐息で迎え入れられた。


「記憶は継承されているからな。食の好みは肉体に依存するのか多少の変化はあるが」

「おや、そうなのですか?」


 フォークを置いた司狼は、自らの口元をなぞる。この子がこちらの様子を伺うときにはよく、この仕草をしていたな。すっかり成長した狼の子の、変わらぬ様に口元がほころんだ。


「ああ。記憶や獣越者としての能力は継承されるが、身体的な変化に左右されるものも多い。おかげで猫の逸話が変化するのに合わせて多少の差異があるから、自分でも時折驚かされる」

「なるほど……やはり獣越者と一言で言っても全く異なるのですね。脚力や知恵でそこいらの者に負けるつもりはありませんが、そういった特殊性は狼にはありませんので」

「何を言う。今宵など美しい月だろう。昔のように神経が高ぶりはしないか?」


 視線を窓へと向ければ小望月がビルの向こう側に輝いている。視線を動かさぬまま、こちらに向けている瞳だけを司狼は細めた。


満月フルムーンでなければ元より問題ありませんが……今宵ばかりは分かりませんね。月よりも私を狂わせる存在が、今目の前におりますから」

「お前も口が減らないな」


 話す内容こそ異なれど、纏う空気は司狼が幼い頃と変わりない。童心ならぬ老爺心に返った心地だ。ポタージュ、ポワレ、ソルベと皿の進みに合わせて言葉も饒舌になっていく。


「──なるほど。そんな買収騒動があったのか。ふふ、記事で読んではいたが、お前の体験談として聞くとまた異なる視点が見えるな」

「お陰で他の獣越者との交流につながったのは幸いでしたが、当時はそれどころではありませんでしたからね。……最も、それは今もかもしれませんが」


 ノンアルコールドリンクを注いだ給仕が音一つ立てずに席を離れる気配に僅かに意識をむけながらも、目線は目の前の黒へと向ける。


「何か悩みがあるのか?」

「今の私が悩むことなど、あなたのこと以外にあるわけがないでしょう。先日の私の告白も覚えておいででしょう?」


 ──藪をつつくことになったか。出てきたのは蛇ではなく狼だが。

 思い返せば今日は駅で待ち合わせをしたときからどこか違和感があった。時折こちらを鋭く見つめる眼差しには昔のまだ荒れていた頃のこの子を彷彿とさせていた。

 だからと言って、はいそうですかと頷けるほどこちらも気持ちが整理できているわけではない。残りひと掬いのソルベを口に運び、器を空にする。


「そういわれてもな……お前は私にとって前世の養い子であるのに加えて、今世ではまだ知り合って間もない。その状況で返事が出来るわけがないと前にも伝えただろう」

「ええ。ですから少しでも色よいお返事がいただくために鋭意努力をさせていただいているわけです。……本音を言えば、あなたとこういった場所に来たかったというのもありますが」


 とうに成人をしている彼の前におかれたグラスも、私と同じノンアルコールだ。少しでも歩調を合わせようとするように同じものを注いだ中身を傾けて嚥下した。


「私があなたに引き取られた時にはもう屋敷から外に出ることは滅多になかったでしょう? ですから共に外でもいられるという、それだけでも嬉しいのです」


 小さく笑み零す姿は端正な顔立ちながらも色気とあどけなさが同居している。離れた席からの場の空気に似つかわしくない歓声が、猫の鋭敏な耳には聞き取れた。

 ──本当に、色男に育ったものだ。肉料理の皿が運ばれてくるのを見つめながらも意識は横に。今の私と彼の姿を彼女たちはどう見ているのだろうか。越具を使わなければ愛を彼が自分に囁いているなど知る由もない。


「……本当に、どうして私なのだろうな」

「? 何がでしょう」

「お前が愛を告げる相手がだよ。それこそお前ほどの獣なら、人から多くの寵愛を得ることだって叶うだろうに」


 かつての……狼が獰猛と忌み嫌われた時代は遠い彼方の話だ。人々の間に流れる逸話により性質を変える獣越者は、凶暴さの代わりに知恵や愛嬌を多く身に付けた。

 けれどもそれを指摘すれば、分かりやすく目の前の男が苦い顔を浮かべた。


「……アンタがそれを言うのかよ、じーさん」

「一般論だよ。少なくともそう思ってしまうくらいには、色男に育ったと褒めているのだから」


 この空間に蔓延していた不機嫌は内消えないが、内側に猛獣のごとく潜ませるくらいなら多少唸ってもらった方がまだわかりやすく、可愛らしいものだ。

 一口大に切り分けた肉を口の中で噛みしめた。

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